拳闘

 降り注ぐ好奇な視線にため息をこらえ、アヅマは鳥籠に入った。背後で、硬質な音を立てながら金属竹の鉄柵が閉じる。焚かれた篝火に煌々と照らされる闘いの場。布張りの床には点々と赤黒い染みが残っていた。

 アヅマは正面の大男を見据える。

 やはり体格差は大きい。壮年だが筋骨隆々。汗玉の浮かぶ褐色の肌にはいくつもの傷があった。

 ごり、と骨を鳴らし、男が右肩を回した。首を支える三角筋が盛り上がり、引きられた胸が筋を浮かせる。握り拳はアヅマの顔とほとんど同じ大きさに思えた。


「さぁ、御覧ください! ここで勝てば五連勝! 籠より這い出て竹稈を昇る龍となれるかどうか! 現れし刺客は――」


 司会の男が真っ赤な中華服の裾をひるがえし、耳打ちされた名を叫ぶ。


竹切り屋バンブー・スラッシャー、アヅマ・タケザキ! 闘場に立つことこそ初めてなれど、その剣は天を裂き、山を断ち割り、大地を穿つ!」


 そうありたいものだ、とアヅマは内心でつぶやく。滔々と流れる司会の口上から意識を離し、目の前の男に意識を向ける。

 血走った双眸。連戦に次ぐ連戦で息の上がりかけた躰。握った拳から滴る紅い雫は誰のものだろうか。

 敵も味方もバンブーズ。同胞相手によくできるとアヅマは思う。悲しいことだ。

 竹の内での暮らしに焦がれ身内をも殺す。虚しいことだ。

 ああはなりたくないものだが――、


「否応なく、すでに竹の内か……」


 竹は土の下で連なる。離れてみたつもりでも、離れられないひと連なり。


「それでは――」


 司会の声が天を駆け抜け、観視が熱気を帯びた。大きく、大きく響く銅鑼の音。

 大男が駆け出しアヅマに迫る。アヅマは刀がそこにあるかのように腰を低くし、足を前後に大きく開いた。


「なんだあのへっぴり腰は!」


 観衆のひとりが嘲るように叫んだ。ほとんど同時。

 大男が右の拳を引き絞り、アヅマの視線をそこに誘導、左の拳を素早く直線的に伸ばした。尾を引くような鋭い打撃――だが、


「シィッ!」


 アヅマは鋭く息を吐き、気配を頼りに。頭ほどもある拳が頬を掠めて背後に抜ける。大男は両眼を見開き、足を引き戻しながら右の拳を振り上げた。見た目からは推し量れない冷静な立ち回り。

 だが、アヅマは、その先を行く。

 顎を狙った大男の拳が空転し、汗粒が宙を舞った。そのとき、アヅマはすでに右腕の外へと潜り込み、固めた肩を男の脇腹にあてがっていた。


「エィヤァッ!!」


 気合を発し、うねるような足使いで床を蹴った。ずん、と震える布張りの床。一本の竹と化したアヅマの躰が、圧力を一点に浸透させる。

 めしり、と骨を軋ませ、百二、三十キログラムはあろうかという巨体が宙に浮く。男は空中で体勢を整えにかかるが間に合わない。押された勢いのままにたたらを踏んで鉄柵に衝突、観衆が息を呑むかのようにどよめいた。


「……ウッ、アッ……!?」


 大男が苦悶の吐息を漏らしつつ、眉根歪めて脇腹を押さえた。

 ――流石に頑丈だな。

 と、アヅマは構えを取り直す。

 竹咲捨念流体術、当身の一。

 なんのことはない。念流と呼ばれる源流派から引き継いだ対人の技のうち、ぬけと呼ばれる反撃カウンターの前動作から、斬撃の代わりに体当たりを浴びせるだけだ。

 しかし、竹切りの基礎となる強靭な足腰が、単純な技を必殺と化す。


「……続けるか?」


 アヅマが問うと、大男は右の脇腹を抱えたまま喉を鳴らした。額に、頬に、全身に脂汗が浮かんでいる。その大柄な手の下で、脇腹が青黒く色づいている。


「なにやってやがる! お前に賭けてるんだぞ!」


 観衆のひとりが叫んだ。バンブーズだった。

 その声につられたか、みなが口々に叫びだす。


「行け!」「殺せ!」


 その言葉はアヅマにも向けられている。

 大男が首を振り、歯を食いしばり、両拳で顎を隠すように構えた。しかし、その顔には躊躇いが見て取れる。当然だ。


「もう終わりにしないか」


 そう低い声で問いかけるアヅマは涼しい顔をしていた。

 古くムロマチと呼ばれる時代に端を発する念流は、数多の変形を経てアヅマの技へと繋がる。その内に芽生えた活人とは、こと対人に限っていえば、圧倒的力量差をもって敵に自省を促す精神にある。ゆえに。


「諦めろ。


 ギッ、と大男が歯を軋ませた。まるで亀のように体躯を縮め、ゆらりゆらりと上体を揺さぶりながら前進する。

 アヅマはひとつ鼻で息をつき、両手を広げた。さながら胸を貸そうという立ち姿は、知らぬ者には及び腰に見えたとしても、対する相手に奇妙な圧力を与える。


「――フンッ、グッ!?」


 目前まで迫り突きを繰り出そうとしたまさにその時、大男は自身の躰になにが起ころうとしているのかを知る。

 斬られる、とでも思ったのだろう。大男はすんでのところで踏みとどまった。しかし前進の勢いがそれを許さない。当たらぬ拳を振るしかない。右の拳を引く。刹那。

 まるで雷に打たれたかのように、大男の動きが止まった。先ほどアヅマが肩で一撃食わせた右脇腹が、拳を止めさせたのだ。

 できると見ていた隙を逃すはずもなく、アヅマがするりと前にでる。大男が苦し紛れに左の拳を伸ばした。遅すぎる。アヅマは拳を掻い潜りつつ左拳の外へと回り、男に背を見せるように旋回、地を蹴った。


「エィヤァッ!!」


 ふたたびの爆音。先ほどと同じか、それ以上。まるで並び立つように踏み込んだアヅマの右肩が、大男の左脇腹に突き刺さる。

 二歩よろめき、両手をばたつかせながら、大男が尻もちをついた。

 しん、と静まり返った闘場に、嗚咽にも似たくぐもった悲鳴が響いた。

 大男は両の脇腹を抱え込み、立派な体躯を小さく丸め、額を床についた。二度、三度と咳き込み、涎の糸を床に垂らし、吹き出した脂汗が幾筋も伝う。

 アヅマは構えを取り直し、さらに問う。


「続けるか?」


 その低く小さな声は、染みゆくように闘場に響いた。途端、わっと観衆の熱気が膨れ、立てと、殺せと、せめて華々しく散れと、思い思いに叫んだ。

 醜いな、とアヅマは唾飛沫を散らす観衆に視線を巡らす。

 鳥籠を見下ろす縁取りに、冷めた瞳で左右を見渡す赤毛の少女。プティーだ。退屈――というより、嫌気が差すといった顔。

 もう終わらせよう、とアヅマは大男に向き直る。


「来るなら来い。力でねじ伏せてやる」


 わざと煽るように呟きアヅマは両のてのひらを広げて肩の高さに突き出す。手四つ――力比べをしようという誘いだ。

 大男はガチガチと歯を鳴らしながら顔をあげ、その姿を認めると、低く唸りながら躰を起こした。歓声がいっそう騒がしくなる。立った男は膝を震わせていた。

 アヅマは男と視線を交える。

 最早、男の瞳に戦意はなかった。あるのは絶望。どうすれば終われるのか分からず、すでに勝ち負けの決まった相手に挑まなければならない苦しみ。

 ――もうひと踏ん張りだ。

 アヅマはそう呼びかけるかのように、両手を小さく揺すった。


「来い」

「――!」


 アヅマの意図に気づき、大男の瞳がいくばくかの光を取り戻す。両拳を握り固め、観衆を黙らせんばかりに激しく雄叫ぶ。

 雌雄を決する時がきた。

 突進してくる男を待ち受け、アヅマは大きく息を吸い込み、地に根を張るように足場を固める。激突。大男とアヅマが手四つに組み合った。

 万力を絞るが如き握力。体格差が生む押し潰さんばかりの圧。だがそれも、躰が万全であればこその地力だ。大男の脇腹が、痛めた筋と骨が悲鳴をあげる。

 この闘い、初めて額に汗を浮かせたアヅマが、溜め込んだ息を膂力に転じた。

 ギッ、と大男の背中が動いた。広背筋が盛り上がり、肩の骨が翼のように浮く。

 押す。押す。押す。

 アヅマの倍はあろうかという巨躯が下から押し潰され、曲がり、膝を折り始めた。

 観客が息を吸うのも忘れて見守るさなか、


「――ェェイッ!!」


 アヅマが一歩、踏み込んだ。大男はとうとう両膝を床に突き、されるがままに腕を広げられ、やがて背中を反らして手を離す。

 ずん、と重い音を残して、男は大の字に倒れた。

 まさに力負け――誰の目から見ても、どちらが勝ったか明らかだった。

 だが、誰もなにも言えずにいる。鳥籠を見下ろす視線は驚愕に満ちていた。


「――なにやってんのさ。もう勝ちは見えたろう?」


 プティーの冷えた声が鉄火場に落ちる。

 中華服を着た司会の男が大慌てで両手を振った。


「しょ、勝者は――」

「――待て」


 勝ち名乗りを妨げるように、王の声が重く響く。

 ジャックが狂気にじむ薄笑いを浮かべながら言った。


「アヅマ。殺せ。それで終いだ」


 観衆の視線が一斉にアヅマに向かう。


「よしなよ。もう勝負はついたんだ」


 プティーの声に、しかしジャックは首を振る。


「終わっちゃいないだろうが。どこが終わりだ。よく見ろ、そいつの胸は動いてる」


 舌打ち。プティーが相棒を見やった。

 アヅマはごく微かに頷き返す。


「断る。もう勝ち負けは決まった。これ以上は意味がない」

「……アヅマ。スリー・ストライクだ」


 ジャックは目にも留まらぬ早さで立つと、傍らの護衛から火打銃を奪った。その顔貌を狂喜で満たし、銃口をアヅマに向ける。


「死ね」


 銃声。間際にプティーが身を翻した。宙を走る二筋の銀光。一筋は玉座に伸び、他方は鳥籠へと伸びていく。同じ時。

 アヅマは絶死の弾丸を見据えて気合とともに手刀を放った。

 着弾。

 アヅマの後方、布張りの床の一点が爆ぜ、ジャックの握る火打銃が跳ねた。

 ぽつ、と布張りの床に血の雫が落ちた。

 見れば、アヅマの手の甲から赤い筋が伸びている。またジャックの銃は、煙立ち上る銃口の手前、金属竹の銃身を支える台座に、プティーのククリが噛みついていた。

 一拍が過ぎ去り、護衛たちの銃口が竹切りのふたりに向かう――が。


「待て!」


 ジャックが、舌なめずりをしながら言った。


「アヅマ。なにをやった?」

「……竹咲捨念流、弾留たまどめ。弾の横面をはたいただけだ」


 元は飛びくる矢を刀でもって切り払う技だ。弾丸を相手にしたのも、素手で試したのも初めてのことではあったが――。


「火打銃……存外、たいしたことがないな」

「…………フッ」


 ジャックが肩を揺らした。


「フ、フフフ、フハハハハハハッ! 手で弾丸を弾いたのか! フハハハハハッ!」


 折れんばかりに背を反らして声高く笑い、ジャックは司会者に手を差し向ける。


「なにをしてる!? 勝利宣言だ! 面白いものを見せてもらった! 今回は特別にお前の勝ちにしてやるぞ!」


 王の命に応じて、司会者がアヅマの勝利を宣言し、会場が歓声に包まれる。闘場を見下ろす玉座の傍らにて、メリアとビスキーが安堵の息をついていた。

 その喧騒の渦のなか、アヅマは静かにジャックを見据える。


「ジャック。ワン・ストライクだ」


 ふいにプティーが振り向き、ツー・ストライクだよ、と唇を動かしながら指二本を立てて見せた。

 そして、バンブー・ヒルの神、ジャック・王が、牙を剥くようにして笑った。

 

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