あの夏とラムネのこと

小綿

あの夏とラムネのこと

「春樹先輩が帰ってきた?」

「らしいよ。てっきり斗真は先輩から直接聞いてると思った、お前ら仲良かったじゃん」

「ああ、まあ」


 親切に教えてくれた友人の言葉に、そう斗真は曖昧に肯いて目を伏せた。夏休みが始まり一週間、春樹とのトーク履歴はもう一年も前から更新されていない。最後に送った『またね』についた既読のマークが終止符のようで、すぐに画面を閉じた。


 斗真は部活を終わらせると珍しく寄り道もせず家に帰り、扇風機のモーター音ばかりが響く部屋の中、震える指で発信マークを押した。三コールの後、音が止まる。自らキャンセルしていた。


 だああ、と奇声を発して、YDK、YDK、と念じるように呟く。やればできる子、そう俺はやればできる。火照る体を冷やすために、首を固定した扇風機の風量を『強』にして真前に陣取った。もう一度、発信マークを押す。何コール過ぎるか数えることすらできなかった。鼓動がうるさい、白Tの胸元を握りしめる。突如、画面の通話時間が一秒、二秒と刻まれ始めた。頭に浮かんでいた言葉が消えていく、けれど慌ててスマホを耳に押し当てた。


「もしもし」

『……とまくん』

「お久しぶりです」

『ひさしぶり』


 一年ぶりの声。変わっていないな、と安堵した。春樹が通話越しにほのかに笑った気がする。斗真の背筋を汗が伝った。無意識の内に拳を作っていた。


「あの」

『うん』

「先輩、こっち帰ってきてるんですよね」

『……うん』


 小さい声、別に責めようとか問い詰めようとか、そういうわけじゃないのに。言いかけた弁解の言葉を呑み込む。今伝えたいのは別のこと。


「じゃあ、今度会えませんか。いつもの場所で」


 春樹が息を呑む。沈黙は真夏の空気のようにじっとりとしていた。蝉の声がする、彼が口を開くのをただ待っていた。



 午後二時、深里神社。いつもの場所。ウエストポーチからからスポーツ飲料を取り出して嚥下した。生温い甘さが喉を通っていく。左手首を何度も確認しては、辺りを見渡し息をついた。


 彼が来てくれる確証はなかった、けれど信じていた。やさしい人だから、きっと、そう祈るように。


「とまくん」


 やわらかな声に振り向いた。ひさしぶり、と照れくさそうにはにかむ彼の姿は懐かしいだけじゃない。声は変わらなかったが、その姿は変わっていた。当たり前か、目を細める。


 一年前、春樹先輩は高校卒業と同時に地方の国立大学の近くへと引っ越した。ずっと一緒にいられると思っていた彼がいない、隣を歩く彼がいない、それは不思議な心地で。日常なのに日常じゃない、いつも水で薄めたような感情を抱いていた。


「先輩、なんか雰囲気変わりましたね」

「そうかな?自覚はあんまないけど、帰ってきてから言われる」

「なんか、とおいです」


 遠い?と聞き返された。とおいです、斗真はそう繰り返して目を伏せる。妙な沈黙が流れた。木が二人を囃立てるかのようにざわざわとさざめく。


 見慣れたブレザーではない、白のスウェットとタイトな黒のパンツ。髪色は変わらなかったけれど、その耳たぶには控えめにピアスが光っていた。思わず目を逸らす。気を遣うように春樹が口を開いた。


「やっぱり暑いね、こっちは」

「深大寺はだいぶ涼しい方ですよ、学校の方に比べれば体感一度か二度は下がってる」

「そうだね、それは間違いない。下校中暑すぎて、よくここで涼んだよね」

「憶えてます?ここで俺がコーラ飲んでて、笑って思いきり吹き出したこと」

「うんうん、しっかり憶えてる。俺が変顔したんだっけ」

「そうそう、めっちゃ笑った」


 緊張で張り詰めていた空気が、春樹の和やかな口調と馴染みある場所のおかげでゆっくりと弛緩していく。斗真も、春樹に合わせて笑う余裕も出てきた。


「そういえば、先輩としっかり話したのってここが初めてでしたよね」

「ああ、とまくんガチガチだったな」

「そりゃそうですよ、よく知らない先輩と帰り道一緒なんて、無視するわけにもいかないし」


 木漏れ日を浴びながら、耳障りのいい葉と葉が擦れる音とアブラゼミの声をBGMに、他愛のない話をする。地元のこと、高校生活のこと、大学での暮らし。苔の生す石垣を横目に斑模様の石畳を踏みしめた。


「あ、懐かしいねここの店」

「よく買いましたよね、ラムネ」

「そうそう、バイトの給料日にはあっちで大判焼きも買って」


 あの頃は大判焼きとラムネすらも贅沢だったなと苦笑する。そうだ、二人肩を並べてプラスチックのラムネで乾杯して、大判焼きを齧っては少年誌を顔を寄せ合って読んだっけ。眩しかった。


「もう一年も前ですよ」

「もっと昔のことみたいに感じちゃうな」


 思い出を偲ぶように目を細める。あの頃の僕らは既に死んでいた、今ここに立つのは、久々に再会した先輩と後輩、それ以上でも以下でもない。


 ラムネを買った。人の好さそうなおじさんに百円玉を手渡し、口を開けてもらう。しゅわしゅわと音を立てるそれをぐいと飲み干した。ぱちぱち弾けて口の中が痛くて、爽やかで甘ったるい、からんとビー玉が鳴った。生き返るようで、なんだか涙が出そうで。おいしい、無邪気に笑う先輩が斗真よりずっと幼い子のように見えた。


 アブラゼミの合唱は休憩を挟むことなく続いていた。揺れるそば屋の風鈴の音は、店内の客たちがカチンとビールジョッキを合わせた音に掻き消される。どうしようもない沈黙が心地よい。そこには見えない足跡があった、何度も何度もここを歩いた痕跡が透き通った記憶となって残り続けていた。


「大判焼きも食べちゃう?」

「食べちゃいますか?」


 斗真はポケットから引っ張り出した財布のポケットを漁り、百円玉と十円玉三枚を見つけ出す。おばちゃんが手渡してくれた大判焼きと交換して、木陰に入って春樹を待った。それでもじめじめとした暑さからは逃れられなくて、垂れそうになった汗を手で拭う。


「おまたせ」

「ううん、いただきます」

「いただきます」


 大口を開けて齧り付いた。サクッとした食感、中から栗入りの白餡が溢れ出す。久しぶりの味だ。うまい、と無意識に顔が綻ぶ、ふっと春樹が笑んだ。


「斗真は、変わってないね」

「背は五センチ伸びたけどな」

「確かに背は高くなったけど、そうじゃなくて、素直なところ。全然変わってない」


 小首を傾げた。暗に子供っぽいと言われているんだろうか。分からなくていいよ、と春樹はやっぱり微笑んだ。楽しそうにまた大判焼きをかじる。久方ぶりの光景はまるであの頃に戻ったようで。勇気を出して彼を誘って良かったと、心から思った。



 日が落ちかけていた。あれから寺周辺を歩き回った後、近くのコンビニで涼んでいた春樹と斗真は店の影で駄弁っていた。


「そろそろ帰ろうかな」


 そう言いながら春樹はぐっと伸びをする。今日はありがとう、振り向いて、小さく微笑んで。またねの言葉も、連絡するねの言葉もなしに背を向けられた。慌てて、待って、と彼の手首を掴む。


 ゆっくりと春樹が振り返る。なんでもない顔をしていた、けれどその双眸は明らかに怯えている。それに見ないフリをして、斗真は頭を必死に回転させた。咄嗟に引き止めたはいいものの、なにをしたいのかなにを言いたいのか、いやなにを言えばいいのか、わからない。口淀んでいると、春樹にやんわりと捕まえた手を離されそうになって、ええいままよ、と口火を切った。


「ん?」

「やり直せませんか」


 彼が苦虫を噛んだような顔をする。手首の拘束を強めた、もう二度と離したくなかった。こうなればぶつけるしかなかった。思いの丈を打ちまけようと口を開いたものの、俯いた彼があまりに弱々しく首を横に振るから声が出ず、喉の奥で言葉が霧散する。


「だめ」

「なんでですか」


 日が陰り、涼しい風が肌を撫ぜる。彼は息を吐いた。小さく口角を上げて、そんなの、と口を開く。


「そんなの、気の迷いだよ。ずっと勘違いしてるだけ」


 くらりと目眩に襲われるようだった。これこそ夏の夢なら、いや陽炎ならいいのに、あんなに嬉しそうに笑っておいて、まだ『勘違い』だなんて誤魔化す?


「でも俺は、ずっと先輩のこと忘れられなくて、毎日ここを歩くたびに思い出すんです、先輩のいた夏のこと」

「とまくん、やめて」

「好きです」


 悲痛そうな声に押し付けてしまった告白が彼にとってどれだけ苦しいものなのかに気づけたのは、彼の頬を涙が伝ってからだった。汗かと思ったその滴は、確かに見開かれた瞳から流れていた。


「言わないで」

「ごめんなさい、先輩、本当にごめんなさい。でも」

「男同士なんて無理だよ」

「そんなこと、」

「関係ある、社会に属している限り」


 返す言葉が見つからない。『大人』を振りかざされてしまえば、まだ高校生の斗真には何も言えなかった。ただ彼は大人が嫌いだった。弱虫で臆病で、けれどそれを隠したいがためになんだかんだと理屈を並べ立てて、まるで逃げることを最善策とするかのような大人が。そして大人ぶる春樹のことも。彼の両手を包み込む。


「俺は、何があっても先輩が好きです」

「とまくん」

「守ります、絶対」

「斗真くん、あのね」


 春樹のまだあまり汚れていない白のスニーカーが一歩、二歩と斗真に近づいた。頬を両手で包まれる。その手はひんやりとしていた、昔は繋いだその手の熱さに驚いていたはずなのに。


「君に呪われたんだ」


 囁かれた言葉に顔を顰めたが、考える間もなく唇に熱が押し付けられる。柔らかな感覚、キスをされたと気が付いたのは彼の顔がすっかり離れた後だった。


 笑んで、踵を返す。彼の背中が小さくなっていく。もうその手を掴むことはできなかった、金縛りにあったかのように体が動いてくれない。烏が鳴いていた。すっかり橙に染まった空、沈む太陽は今まで見てきた夕陽の中で一番綺麗で、きれいで、憎くて。小さく笑う。脱力した。


「俺の方がずっとあなたに呪われてること、わかってるくせに」


 飲み干したはずのラムネの甘さがずっと口の中に残り続けていた。


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あの夏とラムネのこと 小綿 @mizuki_luna

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