スピード & カット
春嵐
ゴーストライド
夜の闇。バイクを走らせる。
どんなチューニングだとか、どういう車種だとかは、全然知らない。ただ用意されたバイクに乗って、山道をひた走る。
「次を左」
後ろから、声。
言われた通り、左に曲がった。
くねくねとした道になる。ブレーキを掛けず、最高速で突っ込んだ。
声をかけられるまで、後ろに人がいるのに気付かなかった。それほどまでに、吹っ切れている。
カーブ。最高速で、思いっきり曲がる。重力。心地よい。この重さが、いつか私を路傍に吹っ飛ばして殺してくれる。
「きゃああ」
後ろ。恐怖と快感が入り雑じった叫び。上品ではないが、別に下品とも思わなかった。怖かったら叫ぶ。普通のことだ。
「次を左。後はずっと下り」
言われた通り、左に曲がる。真っ直ぐな道になった。できるだけ、アクセルを入れる。ギリギリまで。揺れる車体。全身を切る風。闇。そしてそれを切り裂くライト。
心地よい。叫びたくなる。速いというのは、どこまでも、素晴らしい。
ハンドルから手を離そうとして、やめた。そういえば、後ろに人がいたんだっけか。
道が少し曲がりくねり、やがて街の明かりが見えてきた。速度を落とす。
普通に走って、普通にガレージに戻った。
開いていた車庫にバイクを乗り入れ、エンジンを切って認証を解除する。降りた。
後ろ。何かが俺に、もたれかかってくる。
「おっと」
手で、支えた。
「凄かったわ」
女らしい。あまり、記憶がない。
「あ、ああ。ごめんなさい。自分で降りれる」
女が降りて、ヘルメットを取る。
「あなた、こういう走りをするのね」
「ああ」
「あら。ごめんなさい。走った後は記憶があやふやなんだったっけ」
女が、バイクに再び跨がる。ハンドルやアクセルを動かし、何かを確認していた。
「帰らないの?」
「よく、思い出せない」
「あ、そう」
女が、バイクから降りてどこかへ消える。
戻ってきた女は、水を持ってきていた。
「はい。これ飲んで頭冷やしたら」
言われた通り、水を飲んだ。うまい。
「私の知ってる、あなたの話をしてあげる」
女が、何か機材を取り出しながらこちらに話しかける。
「あなたの名前も、何してるかも、私は知らないの」
バイクを分解しはじめている。
水を、もう一口飲んだ。うまい。
「ときどきここに来て、バイクに載せろって言うのよ。私は黙って、このバイクを貸すの。あなたはそれに載って、そしてぼろぼろになって帰ってくる」
「そうか。迷惑をかけてるんだな」
「ぜんぜん」
女。機材を投げ捨てた。こちらを見る。
「私はあなたのことが好きなのよ」
そう言って再び、別な機材を持ってバイクに向き直る。
「名前も、何してるかも、知らないけど。バイクに乗って走っていくあなたと、ぼろぼろになって帰ってくるあなた。それを見るのが、どうしようもなく、好きなの」
また、機材を投げ捨てた。
「どうせあなたには何かあるんでしょう。じゃないと、あんな走り方はしない」
そしてまた、機材を投げ捨てた。
「ああもう。なんなのよこれ」
「手伝おうか」
「座ってて。違うの。これは私の問題」
女が、投げ捨てた機材をひとつずつ拾いはじめた。丁寧な手つき。
「いつもは、こうやって雑に扱ったりはしないのよ。今日、初めてあなたの後ろに乗って、それで」
女。機材をひとつのところに集め、そっと置いた。そしてこちらを向く。
「なんであなたは、あんな走りをしてるの」
女の頬。光っている。
「しにたいの?」
泣いているのだと、気付いた。
「あんなにスピードを出して。カーブに突っ込んで」
沈黙。
水を、飲んだ。味は、あまりしない。
「ごめんなさい。忘れて」
「いや」
記憶。女。バイク。あやふやだけど、あやふやではないことが、ある。
「俺のことを、喋っていいか」
「まだ、だめ」
女。バイクの外した部分を、丁寧に戻す。
そして、こちらに近付いて、自分の近くに、座る。
「どうぞ。聞くわ」
女の顔。涙の跡が、ほんの少しだけ、光る。
「記憶がないんだ。ほんとうに」
本当だった。何も知らない。名前も、素性も。
「これを見てくれ」
財布の中のカードを取り出して、見せる。
「このカードが、なぜか俺を生かしている。いくら入っているかも、分からない」
黒いカード。会計のときにこれを出すと、何もかもが買える。
「カード会社に行ってみたけど、何も答えてくれなかった。だから、本当に、何も分からない」
女。困惑した顔で、カードを眺めている。
「何もないんだ。俺には。分からなくて、歩いてたら、ここにたどり着いた」
喋って喉が渇いたので、水を飲もうとした。もう入ってない。
「待って。いま持ってくる」
女が、カードを持ったまま消える。
待った。
女が戻ってくる。
「ほんとね。カード会社に電話してみたけど、ほんとに何も答えてくれなかった。しかも、これ、免許証なのね。はい水」
与えられた水を、飲む。
「免許証?」
「バイクや車を運転する証よ。名前も更新日も書いてないけど、あなたにはバイクを運転する資格があるみたい。外国の仕組みなのかしら」
よく、分からない。思い出せない。
「お前は何も言わず、俺にバイクを貸してくれた。だから、俺はそれに乗った。それだけだ」
「でも、どんなにぼろぼろになっても戻ってくるじゃない。ここに」
「たまたまだ。戻ろうとしているわけじゃない」
そこまで言って、気付いた。
「死にたいのかもしれない」
最高速でカーブに突っ込んだとき。直線でアクセルをギリギリまで踏んだとき。たしかに、何かが、自分を刺激した。
「俺は。よく分からないけど、生きてちゃ、だめ、なのかもしれない」
頭。
急に、自分の視界が、真っ暗になった。
持っていた水が、落ちる音。
頭。頭が、暖かい。
抱きしめられていると、気付いた。
「ごめんなさい」
耳元で、声が聞こえる。不思議な感じだった。
「なにが」
「あなたのこと、訊いて」
「なぜ」
「なぜって」
「俺は、名前も何もない、ただの死にたがりだとわかった。それで充分だ」
なのに。
「そんなことはないわ」
なんでこんなに。
「あなたは、不安なだけ。どこにも行けなくて、何者にもなれなくて」
かなしくて、くるしいのだろう。
涙。
「あなたは、しにたいんじゃないわ。生きたいのよ。ほんとは」
「やめろ」
女を、引き剥がした。
「俺はそんなんじゃない。俺は」
俺は。
誰だ。
「んぐっ」
抱きしめられる。もういちど。
引き剥がした。
また。抱きしめられる。
「ここにいていいのよ。あなたがどこの誰だっていい。いいの。ここにいて」
抵抗する力が、涙とともに抜けていく。
「ここにいて、ここで、たまにバイクを走らせて、ぼろぼろになって帰ってくる。そんなあなたでも、私は構わない」
「ここに、いて、いいのか」
「いてほしい。あなたに。ここに」
涙。嗚咽。止まらなくなっていった。
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