擬態女

ナツメ

擬態女

 午後九時四十八分、がちゃりと扉の開く音がした。

 すぐにがちゃ、がちゃ、かしゃんと二つの鍵とチェーンを閉める音がして、のしのしと重い足音がリビングに近づく。

「……ただいま」

 誰も答えを返すはずのない空間に、疲弊の滲んだ声でそうつぶやいたのは、この部屋の主である、安原あゆむだった。

 歩は1Kの部屋にはやや大きすぎる布張りのソファに鞄――彼女が新卒のときから使っているもので、本革だが手入れをしないので角が剥げている――を放り投げ、次いでシワのついたフリルつきブラウスとレーススカートも脱ぎ捨てて、慌てたようにバスルームに向かった。

 十分も経たないうちにシャワーの音がやみ、再びリビングに向かう彼女の足音は、世間的にはぽっちゃりと呼ばれるであろう彼女の体重を受けてやはり重いが、それでもこころなしか、帰宅した時よりは軽やかだ。

 部屋の中心辺り、必然的にあのソファのちょうど前辺りに来て、大きく伸びをする彼女は、濡髪を雑な団子にまとめ、分厚い眼鏡に襟元がダルダルになったメンズのティーシャツ、それにセールで五百円で買ったこちらもメンズのステテコという出で立ちだ。その上、ティーシャツが真っ黄色、ステテコが真っ赤で目が痛い。

 しかし歩は、まるで鎧でも脱いだかのように晴れやかな顔で、「あーーーー」と大きく息を吐き、どっかとソファに腰掛けたのだった。


 翌朝、昨夜の晴れやかさはすでに消え失せ、帰宅したときのような沈鬱な雰囲気を纏って、歩は鏡と向き合っていた。

 部屋には折りたたみ式のローテーブルがあるが、ソファと高さが合っていない。だから歩は、ソファの前の床に胡座をかいて、ローテーブルに鏡を乗せて毎朝そこで身支度をする。

 鏡越しに見えるその表情はやはり暗く、嫌々やっています、と顔に書いてあるようだ。

 歩のメイク時間は十五分ほど、下地をつけずにいきなりファンデーションを塗り、ペンシルで眉を描き、ぐりぐりとアイシャドウを塗って太いアイラインを描く。ビューラーは苦手なのでしない。上げないまつげにマスカラを塗り、ピンクのリップを塗る。そのあと髪を巻くのに十分。後ろの方の毛はほとんど巻けていないのだが、本人は気付いていない。

 斜め後ろの髪を取ってコテに巻きつけるときに、歩の指先がコテに触れた。

「あっつ!……ああー、もうっ」

 軽く火傷したであろう指先を舐めながら、彼女が苛立った声を上げる。

 そうして不機嫌丸出しで身支度を終え、歩はバタバタと慌ただしく出勤していった。


「あんた、まだやってんの? 

 やはりソファのすぐ前の床に直接座って、ローテーブルにタブレット端末を置き、歩は作業をしている。先程の声は、タブレットの横に置かれたスマートフォンのスピーカーから聞こえたものだ。

「当たり前じゃん、一生続けるよわたしは」

 タブレットにペンを走らせながら、歩はスマホの向こうの相手――小学校からの幼馴染で歩のオタク友達でもあるたではるか――にそう答える。

「今どきさあ、オタクだからってどうこうとか思わないでしょ」

「それはなんか可愛い女オタクが増えたからだよ。おかげでこっちは余計肩身が狭いってのに」

「いやー、絶対歩の考えすぎだよ。今、令和ぞ? 人の外見にどうこう言う方がコンプラ違反だろ」

「はるかは東京で働いてるからそう思うかもしんないけど、こっちでオタクに人権なんて無いから! 生きるために必要だからやってんの、わたしは」

「……まあ歩がそれで満足してるならいいけどさ」

 歩はむっつりと黙り込んでしまい、蓼はるかが昨日放送のアニメの最新話の話題を振って、しばらくそれで盛り上がった二人は作業通話を終えた。

「……したくてしてるんじゃないっつの」

 そうつぶやいた声は、当然蓼はるかには届かない。あるいは、自分自身に言ったのだろうか。

 タブレットの画面を切って、歩はソファに座り直す。重みを受けてずしり、と座面が沈む。彼女の身体に触れた部分が、体温を吸ってじわりと温もった。


 しばらく、そんな日々が続いた。平日は嫌々して仕事に出かけ、夜や休日は歩の姿で家にこもり、同人誌の原稿を書いたり、アニメを見たり。蓼はるかや他の多くはない友人と会うときはをしないで出かけることもあった。

 ある休日、やはりをせずにアニメショップに出かけ、帰ってきた歩は、どこか様子がおかしかった。

 走ってきたのか、鼻息が荒く、自宅に一人でいるというのにきょろきょろと挙動不審だ。アニメショップの袋をそのへんに置いて、落ち着かないままソファに腰掛ける。前傾し、膝の上に肘をついた姿勢で貧乏ゆすりをしている。細かな振動がソファのフレームを揺らす。

 数分、その揺れは続き、そしてスマホを取り出した。フリック入力するときに爪が画面を叩く音。それが断続的にして、誰かとメッセージのやりとりをしているのだということがわかる。

 入力と静寂を幾度が繰り返し、メッセージは終わったらしい。歩はまだそわそわとした様子ではあったが、勢いをつけて立ち上がり、その場で頭をわしゃわしゃとかきむしった。

「ほんとやだ明日……!」

 ああ、もうっ、といつもの不機嫌な雄叫びを上げて、彼女はバスルームに去っていった。


 翌日は月曜日で、いつにも増して陰鬱な様子でいつもどおりのを終えた歩は仕事に出ていった。

 火曜日もいつもどおりだったが、その日の夜、帰宅した歩は、どこか困惑したような、それでいて少し楽しそうな雰囲気があった。

 水曜日、いつもどおりのメイクをしたあと、彼女はコテを手に取らなかった。二、三度軽くブラッシングして、飾り気のない太いゴムでひとつ結びにした。

 残りの二日も、歩は髪を巻かなかった。

 金曜の夜、帰宅しシャワーを済ませた歩は、タブレットとスマホをいつもの配置にして、蓼はるかと通話を始めた。

「そういえば、どうだった結局?」

 蓼はるかが切り出すと、歩は「あー、あれ?」ととぼけてみせたが、わざとらしい。

「なんかね、大丈夫だった、っぽい」

「ほらー! だから言ったじゃん!」

 スマホからはしゃいだ声がする。

「いや、でも高橋ちゃんたちがたまたまいい子だったってだけで……」

「あんた、まだ言う? いいじゃん、もう認めなよ。よかった、オタク差別はなかったんだ、ってさ」

「うーん、でもさあ……」

「高橋ちゃんって、いかにも陽キャで可愛いから怖い、って言ってた後輩の子でしょ?」

「そう。それは今となってはホント申し訳ないと思ってる……わたしのすっぴん見ても全然態度変えなくて、普通に安原さーん!って呼んでくれてさ。正直めちゃめちゃ可愛かった」

「いいじゃんいいじゃん、高橋ちゃん、いい子じゃん」

「いい子なんだよ。それでさ、そのあと会社で会ったら、もしかしてキミスバ好きなんですか? って訊かれた」

「えっ? 高橋ちゃんこっちの人?」

「いや、一般のファンだと思うけど、わたしサコッシュにアクキーつけてたから、それ見てたみたいで。『わたしも最近ハマってて! 神戸くん好きなんで一緒ですね』とか言ってくれるの……天使なのかな」

「高橋ちゃん天使すぎるでしょ……推せる」

 その後も歩は嬉しそうに会社の後輩の話をし、蓼はるかもまた、嬉しそうにそれを聞いていた。

「――なんか、もしかして無理にしなくてもいいのかな」

「お、ついにその境地に至った?」

「実は今週から髪巻くのはやめてて。面倒だし、実際似合わないし。でも誰も、何も言わないんだよね。陰口とかも言われてる感じしないし」

「当たり前でしょ……髪巻かないくらいで悪口言うような人、そうそういないよ」

「そうだよねえ。今となってはそう思うけど、全部やらないとダメだ! ってこれまでは本気で思い込んでたんだよ」

「難儀な性格してんね」

「ディスってる?」

「てない」

「まあ、最低限の清潔感さえあれば、無理して好きでもない化粧とか服とか、そういうのしなくても、案外受け入れてもらえるのかなって」

「それ、わたしがそっくりそのまま、何年も言い続けてたよね?」

「いやあ、はるか先生は流石、真実を見通す目を持っていらっしゃる」

 そうふざけて二人は笑って、その日の通話は深夜まで及んだ。歩は途中から缶チューハイを飲みだして、酔いが回ったのか、通話を切った後布団を敷けずに、そのまま背後のソファに横になった。

 すうすうという幸せそうな寝息が、ソファの内部まで染み渡るようだった。


 月曜日。

 歩はいつもより少し遅くに起き出した。朝食を食べ、洗面所に行き、しばらく戻ってこない。

 五分ほどしてリビングに戻った歩は、すでにメイクを済ませていた。日焼け止めにパウダーをはたいた程度の肌に、眉毛だけしっかり描いている。少し眉が濃すぎるが、いつもよりもよっぽど歩らしかった。

 あの飾り気のないゴムで髪をひとつに纏め、フリルなどのないただのシャツに、こちらもシンプルなパンツ。休みの日に外出する時の服の中で、無難なものを組み合わせた服装。

 これまでのとは大きく異なる出で立ちに歩自身もまだやや不安があるのか、テレビの隣に立ててある姿見の前で、前、後ろと何度もチェックする。

 やがて踏ん切りがついたのか、鞄を手に取り、玄関に向かう。

「いってきます」

 誰もいないはずの部屋に朗らかにそう告げて、歩は出かけていった。


 午前九時。歩の始業時間を超えたことを確認し、わたしはようやく外に出る。

 暗く、狭いこの空間と、外とをつなぐジップを下げる。二重になった布地を押し開いて、わたしはソファの中から這い出した。

 大きく息を吸い込む。ソファの中からは、音を聞くことと部屋の一部を見ること、そして彼女の体温や振動を感じることしかできない。匂いはあまり感じられないのだ。

 朝食のパンの匂い、歩のほのかな体臭の残り香。ソファの座面に鼻を擦り付けると、体臭をもっと感じられる。ああ、これが内側からも嗅げればいいのに。

 リビングから玄関を見やり、歩の「いってきます」の声を思い出す。玄関の方はソファの中からは見えないけれど、きっと笑顔で出ていったに違いない。

 歩がをやめられてよかった、とわたしは思っている。下手なメイクの歩も、すっぴんでだらしない格好の歩も、わたしはどちらも好きだけれど、歩自身が苦しんでいるのは辛かった。蓼はるかのことは気に入らないが、この点では感謝している。それに、歩に可愛いと言われていた後輩も。

 ――生きるために必要だからやってんの、わたしは。

 歩がそう言っていた。そのとおり、擬態とは、生きるために必要な者だけがすればいい。歩には必要の無いこと。

 そして、生きるために必要だから、わたしは擬態をする。

 わたしが生きるためには歩が必要だから。

 あなたを一秒でも長く感じるために、わたしは一生、擬態をしつづけるのだ。

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擬態女 ナツメ @frogfrogfrosch

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