法厳寺関白 古言悲嘆集
@rexincognita
第1話
かくの如く乱れ果てにける末の世に、なほ幾十年をか生きながらふることもありなんやと思ふにつけても、心を傷ましむること限りなし。釈尊は法華経を求め給ひて、薪取り水汲みて千年の春秋を送り給ふとかや。み仏にもあらぬ塵の境涯なれば、一年を耐ふるも忍び難し。ましてや数十年の星霜、羸弱が身には、暮らしかねつる程にこそ思へ。
漕ぎ行く舟のとは、古歌に言ふも、白浪の泡の、目の当たりに消ゆるが如くには我が身消えやらず。駟の隙を過ぐるが若くには、月日過ぎ去らず。一条院皇后宮の、「いかにして過ぎにしかたを過ぐしけむ暮らしわづらふ昨日今日かな」と思召されけるも、げに理と覚えてあはれなり。
参内ままならず、公事もえせず。昔清慎公が、揚名関白と自嘲せられしも、今は戯れ言にもあらず。世の中は、後普光園院殿が、「長月の豊の明りは名のみして今は昔に菊のさかづき」と詠ぜられしそのかみにも遥かに劣り、後大染金剛院殿が、長門の山中に災ひに遭ひ給ひしいにしへにも勝りていみじく衰へてければ、まことの道に入りて、世を宇治山とは思へども、末代の果ての果てなればしかるべき先達もあらず。南都も北嶺も、浄侶どもことごとく肉食妻帯して、今は門跡もなし、座主も凡下の相続すとなん聞けば、さらにまじはることも覚えず。
されば長明、兼好の跡を踏まんと思へども、かの人々にもなほ後ろ見はありなん。何の後ろ見もなくて閑居せんは、ただ己が身を殺すにほかならず。伯夷、叔斉は、世を逃れ首陽山に蕨を折りてすぐしけるが、程なく飢ゑ死にけると言ふ。山野に屍を晒し、一髪土に残さざること、恐ろしくはあらねども、ただ悲しきは父母の恩、君の恩なり。身体髪膚敢へて毀たざれとも本文に見えて候。
那智の比丘は補陀落に渡り、出羽の沙門は木食となりて入定すと聞く。これらも往昔のならひ、長く絶えにたり。まして聖教は自刃を禁制す。徒に十字架の道を辿るを厭ひて、来む世にさへ我が身に憂き目を見せんこと、至愚とこそ言ふべけれ。
はかなき露の命をしばらくこの世に置くことの耐えがたく覚ゆることは、迷妄にこそ。迷妄は我が身の不明より出づるといふなれば、我執に心惚けてある間は詮かたもなし。たまきはる命は意のままならず、ちはやぶる神のまにまに生まれもし死にもするなれば、ただ世事は口にも言はず、心を塵の外になして、憂世の色に染まじとのみ念ずべし。
本主基督の十字架の本願をのみ思ひ奉りて、穢き所のことは、露塵ほども心にかけず。心の雲の晴れぬれば、心の月は明らかならん。心こそ、神明に近き最上のところなりとは、聖奥古博士ののたまひけるなり。
憂きこと多しと雖も、藤谷黄門のかく詠みおかれける、「憂しとても憂からずとてもよしやただ五十ののちのいくほどの世は」。この心にて、過ぐれば過ぐるべきか。また「心の動きは実類に発す」と『基督のまねび』の記せることもあり。胸のうち徒に動揺すること、畜類に異ならず。さはいへ、心静かにても乱れても、只管十字架に信依すべし。
電光影裏に春風を斬ると言ふは、肉を殺すを得とも霊をば殺すを得ざるの心なり。言葉、文字は毒には非ず。ただ聞く者見る者の心ばへによりて、毒にも薬にも変ずるなり。この心ばへを極めんは難し。凡夫の志脆ければ、ただ謙虚を以て事とすべし。この世は仮の宿りなり。恥ぢても恥ぢでも何ならずといへり。ただ奢らずて、如何なる憂き目にあひても、宿運のつたなき故なり、我執に纏はるるためなりと観じて、ただ厭離穢土の一念につなぐべし。
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