序章 動乱前夜
一話 若き官僚
およそ二十年前、梅の花香る三月のことであった。
この日は
昼頃になってようやっと儀式も終わり、南の陽が暖かに照る城内の大路を、官人達は皆々引っ返していく。
「
声をかけられて振り向いたのは、一尺五寸の顎鬚を蓄え、礼服と
「これは
韓景と呼ばれた男は穏やかに微笑む。あざなを
「偶然お見掛け致しましたので、声をかけ申した。この後ご予定はございますかな」
「今日は、特にはありませなんだ」
「それは良い。拙宅の庭に梅の木が一本ござりまして、今年は見事な花が咲いたので、張催どのに是非ご覧になって頂きたいと思う次第にござる。貴殿はなかなか読書家で博識、それに風流を愛でられるお方であられる」
「如何にも。不才の身ではござるが、詩歌文学の知識には些か自信がありまする。是非お邪魔させて頂きたい、草昧記や文秀四子についてでも、酒を酌み交わしながら語り合いましょうや」
張催は大いに喜び、その誘いに乗った。そこに、談笑する二人に近づいてくるものがある。
「徒博様、徒博様。お待ちくだされ、失礼仕りまする」
こう呼ぶ声がしたかと思えば、やにわに張催の前へ現れたのは、群青の礼服と錦綬をつけ、背丈はおよそ五尺四寸、目は切れ長にして髭短く、色白の男であった。深い拝礼からあげた顔を見れば、二十歳そこそこの若者である。
「そなた、いきなりどうなされた」
「御靴の飾り緒が乱れてござります故、それがしがお直し致しまする」
「待て、なにをなさるか」
すると男は張催の足元に膝まずき、地に手をついて、ほどけていた靴の飾り緒を結び始めた。二人はそれを止める間もなくただただ驚き呆れ、呆然とその様を見ていたが、若者が立ち上がると慌てて拱手をして礼を言った。
「それは気づかなんだ、全くかたじけない」
若者はにこやかに礼を返した。張催はその目配りのできるのに心の内で感心し、付け加えてこう問うた。
「成る程そなたはなかなか気遣いのできる若者の様じゃ。名はなんと申す。それと、見たところ民部省の者のようだが、官職は幾らかね」
問いを聞いた若者は、一歩下がると名乗った。
「はっ。それがし姓は
そうして再び拝礼をして去っていく背中を見て、韓景は暫時呆気に取られていたが、やがて唇に冷笑を浮かべ言うには
「幾ら相手が徒博と言えども、官僚になった身で膝まずき、靴紐を直すとは。あれは所詮品格を知らず己が地位の自覚もない燕雀の輩にござろう」
すると張催は韓景に向き直り、からからと笑うと言った。
「韓景どの、さりとてあれはまだ雛鳥。燕雀の子か鳳凰の子か、はたまた鵺の子かは今のうちは量りかねますぞ。
張催はこの頃より、李鮮という男にはかの劉韵の如く、類稀なる聡明さがあるのと同時に、かれの出世への強い貪欲さも見抜いていたのである。
「それにあの李鮮という内記、己の事ならともかくそれがしの靴紐に気がつくとは、なかなか目配りの利く若者ではござらぬか」
「ご説ごもっとも。もしやまことに我々を凌ぎ、宰相になるやもわかりませぬな」
かくして群青の礼服が見えなくなると、二人は南大門に向けて再び歩き出した。
ここに
「そこなお方、今日は朝儀が執り行われ、
その者を見れば、これは長い髪を三つに束ね、
「汝のようなおなごにはわかるまい」
冬隷はその女を少し見て一笑すると、また橋の下を流れる川に目をやったが、それを聞いた女はからからと打ち笑って、それから名を名乗るには、
「お侮りめさるな。私は非才ながら森羅万象を占う者にて、名を
九琳が軽く礼をすれば、冬隷は驚いてその方へ顧みて、
「なんと、占術師であったか」
と言う。さらに九琳はにこやかに返すには、
「左様。お悩みとあらば我が師
かくして冬隷は九琳に連れられ、
「よくぞいらした、どうぞお座りくだされ」
「これは蛇骨斎どの、まったくかたじけない」
蛇骨斎に促された冬隷は、机を挟んで正面に座った。すると早速かれは冬隷の顔色を察して言うには、
「若い方、今日は如何なさいました。察するに何か憂いておられる事がござりまするな」
「他の何にもあらず、己の非才を嘆くのでござる」
それから冬隷は俯いて、小さく溜息を一つつき、ゆっくりとこう語り出すには、おおかた次のようなあらましであった。
「それがし冬隷あざなは伯寧と申すもの。我が冬家は代々、官僚となって朝廷に仕えておりました。それがしも愚鈍ながら官挙に合格し、二十歳より式議省にて政務を執って参った次第。然るに功(いさおし)は芳しくなく、未だ官職は少丞。今日は除目の儀がござりましたが、またも年下の者が我が身を追い越して出世して行きました。これでは親や先祖や師に面目が立ちませぬ」
すると聞き入っていた蛇骨斎は、新たに香を焚べながらこう言った。
「己が力を高める法は数多とござる。例えば修行、例えば師事、例えば錬磨。然るに、今の伯寧どのに足りぬのは信頼の置ける配下だとお見受け致す。即ち才人探訪」
「探訪でござるか」
冬隷はまさに目が覚めたような心地であった。かれは屋敷に十人程の下人を雇っていたが、いずれも身辺の世話や雑用を任せるのみであった。蛇骨斎は天文図を取り出し、北東を指し続けて言うには
「左様。いくら優れた君子でさえ時には道を誤るものですが、その逆もまた然り、どれだけ暗愚な者であっても臣の助けがあれば事を成せまする。吉日を選んで
「して、その者の名は」
冬隷が勢いの余り机から身を乗り出していたのを、蛇骨斎は落ち着いた様子で制す。
「それは判りかねまする。貴殿が名士であると思った者がそうでござろう」
それを聞いた冬隷は大いに喜び、深々と礼をして屋敷を後にした。かくて明後日、僅かながら金銀の贈り物を携え、馬に乗り茗台の街へ賢人探訪に赴いたのである。
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