二話 賢猛探訪
さても
「お呼びでござりまするか」
「馬襄よ、思うにそなたはなかなか都での礼法や流儀に明るく、田舎の
「おっしゃる通りにござります」
「故にわしは、護衛として武術を心得た者を一人、側に置こうと思う」
そう言い終わると李鮮は立ち上がり、おもむろに太刀の鞘を掴むと玄関に出て下駄を履いた。
「お待ちを、御身自ら訪ねに行かれるのですか」
「左様」
「我が君はもはや朝廷の官僚、目ぼしい者を屋敷に呼び寄せるのでもようござろう」
李鮮は笠を被る手を止めて、呆れたように言った。
「何を申すか。蔡祖の
かくて二人は華やかな街の大路を歩いていたが、その脇に潜んでいる薄暗い小路に入ろうとする李鮮を、馬襄は慌てて制した。
「殿、お待ちを」
「どうしたのだ」
馬襄がいくら制しても、李鮮は軽く振り切って進んでいく。遂に二人は崩れかけた門の下にまで着た。
「これ以上先は危険でござりまする、どうかお戻りくだされ。我が君は都に住んで月日もお浅いゆえ、ご存知ないやも知れませぬが」
それを聞いた李鮮は呵々とうち笑い、馬襄に向き直って言った。
「そなたもなかなか侮ってくれるわ。わしとてそのくらい知っておる、此処は犬仁門であろう」
蜘蛛の巣の張った門の扁額には、「
犬仁門小路といえば、華都でもかなり有名な貧民窟である。昼間も常に薄暗く、道の脇には建物に住み着いた狗やら鼠やら蛇やら狐狸やらがうろついていて、すがってくる物乞いなどは全部で二十人余、そこら中に生死もわからぬ浮浪者がごろごろと転がっている。故に見ず知らずの者が立ち入るのはすこぶる危険、されど李鮮は狭い道を踏み分け踏み分け進んでいった。
「知っておるか馬襄よ。此処に
二人の目の前には一つのあばら家があった。壁には壊れた戸が立て掛けてあり、黒ずんだ漆喰は剥がれ、屋根の瓦も幾らか落ちて割れている。陳遼という名を聞いた馬襄は震え上がり、顔を蒼白にして李鮮の袖に掴みかかり、必死の形相で諌めた。
「我が君、陳遼は華都随一の狼藉者です故、あれを召し抱えようなどと思われますな。御身に危険が及びまする」
「おまえは忘れているようだが陳遼とて人間、言葉は通じよう」
無理やり腕を引くが、馬襄は足がすくんだのか動こうとしない。
「それがしは参りませぬ」
「臆病者め。しからば此処で待っておれ」
そう叱りつけると李鮮は暗い屋内に大股で踏み込み、こう呼ばわった。
「民部省内記の李鮮が、陳遼どのを訪ねに参った」
すると奥から物音がして、男が一人出てきた。
「民部省のお役人様が、この荒くれに何用かね」
見れば身の丈六尺三寸、まなこは虎の如く、筋骨隆々にして、無精髭に伸びきった栗色の髪を無造作に束ね、気怠げだが獅子の気迫がある。これぞ陳遼あざなは
「突然の来訪、どうかお許し願いたい。それがし李鮮あざなは仲然と申す者。街に聞く貴殿の威名を訪ねて、此処に参上した次第にござる」
陳遼は腕を組んで深々と拝礼する李鮮をまじまじと見下ろした。我が気一つで殺されるやもしれぬと言うのに、全く恐れる気配がない。その度量に些か畏敬の念を抱きながら、奥に見える人影を指した。
「そちらはどなたかな」
「これは我が侍従にして、馬襄と申しまする」
陳遼は少しの間思案して、二人をあばら家の中に招き入れた。
「お二方、中に入られい」
李鮮はまたも深々と礼をして、馬襄の袖を引っ張り中へと入っていった。
「して李鮮どの、何故此処に参られた。このろくでなしをわざわざ訪ねてくるとは、随分変わったお方じゃ」
「貴殿の名は華都に広く知られております。武勇に優れ、勇猛にして何者にも恐れをなさぬ陳遼どのは、まさに覇王記の
李鮮は内心しまったと後悔の念に駆られた。陳遼は所詮犬仁門に住む匹夫、勇はあれど知に欠け、恐らく蔡祖覇王記などは知らぬであろうと踏んだのである。しかし陳遼から帰ってきた答えは意外なものであった。
「盧
李鮮はその返しを聞き、驚いてはたと立ち上がった。
「陳遼どの、もしや覇王記をご存知か」
「如何にも。それがし不才ながら、天下に名高い書物には、上は四国史から下は蟲蛇奇談まで、一通り目を通してござる」
そののち二人は大いに史書文学を論じ、気がつけばもはや酉の刻、陽は西に傾き、表には提灯が灯っていた。李鮮は陳遼の見識明らかなのに心底敬服し、ついには天を仰ぎ見、床にひれ伏して請うた。
「おお天よ、かくも允文允武の英傑が、この犬仁門におられたとは。義孝どの、まさに貴殿は稀代の名士。この李鮮に是非ともお力をお貸しくだされ」
陳遼もまた李鮮の聡明さに畏敬していたので、伏していたのを慌てて助け起こした。
「仲然どの何をなさる。それがしにお助けできる事あらば、何なりとお申し付けくだされ」
「我が懐刀になっていただきとうござる。どうか此処を出て、拙宅に参られますよう」
それを聞いた陳遼は大いに驚いたが、すぐに地に伏して答えた。
「我が君、この陳義孝、我が身を砕いてでも必ずや恩義に報いまする」
かくて李鮮は大刀を引っ提げた驍勇の士、陳遼を配下に加え、ようようと屋敷に帰っていった。
その二日後である。一方の冬隷もまた、ただ一騎馬を走らせ、茗台へと来ていた。茗台は所々に田畑のあるのどかな街で、見渡せば果てしなく低い屋根が立ち並び、たまに簡素な楼閣がその頭を覗かせていた。冬隷は道を歩いていく一人の農夫を見つけると、早速馬から降りて尋ねた。
「それがしは華都から参った者で、この街に当代の賢者がいると天の啓示を受け馳せ参じたのだが、いったい誰を指しているのだろうか」
すると農夫は北の方角を指して答えた。
「ここから北に参りますと、庭に梅の木が生えた家がござりまして、そこの主人
冬隷は彼に礼を言って、また馬に乗った。かくして走っていると、農夫の言った通り庭に梅の咲いた家が見えたから、再び馬から降りて門の前で主人を呼んだ。
「それがしは冬伯寧と申す者、于承どのを訪ねに参った」
すると中から一人の男が出てきた。
「貴殿が于承どのであられるか」
「左様でござる」
冬隷は喜んで家に入り、それから半刻ほど歴史や詩歌を論じたが、しばらくすると落胆した様子で門外に出た。それからぶらぶらと馬を引き小道を歩いていたが、またもや人に出くわしたのでこう問いかけた。
「突然だが、この街の賢者と言えば、誰を指すとお思いかね」
それは池で魚を獲ってあきなう漁夫であった。漁夫は持っていた釣り竿で東の方を指してこたえた。
「ここから少し東に行けば、松の木のある大層なお屋敷がござる。主人の
再び馬を引いて歩くと、たしかに松の木のある立派な屋敷が見える。これぞ学士の住む邸宅であろうと、冬隷は喜び勇んで門を叩いた。かくして出てきたのは上等の着物を着た、齢四十ほどの男であった。冬隷はその堂々たる風貌に感心し、拱手して深く拝礼した。
「貴殿が張棟どのであられるか」
「如何にも、それがしに何用ですかな」
かくて冬隷は随分と長い間張棟と語り合ったが、酉の刻に差し掛かった時、于承の時よろしくがくりと肩を落としてその屋敷を出て行った。もうすぐ陽も暮れて盗賊が湧くので、冬隷はひとまず今晩泊まる宿を探すことにした。見れば隣に一軒の小さな家が見える。これぞ天の助けと思い、その門の前で呼びかけた。
「失礼致す。それがしは賢人探訪のためこの地に参ったが、もう陽も暮れる故、一晩ここに泊めてはくれぬか」
戸が開いて中に招き入れたのは一人の若い男である。見れば背丈は五尺と五寸、生成りの粗末な着物を着て、右目は眼帯で隠し、束ねた黒髪のうちの一房は雪の様に白い。その風貌の珍しいのに驚き、囲炉裏に座ると早速名を問うた。
「それがし姓は
そうして冬隷は事のあらましを説明するに、
「仲孫翔どのの思う賢人とは、果たしてどなたであろうか」
「この街の賢人と言えば、于承どのは訪ねられましたかな」
「あの者はさほど賢くはのうござった」
「されば張棟どのなどは如何か」
「かれは博識だが、傲慢で人を見下しておる故断念した次第」
すると仲孫翔は残念そうに溜息をついた。
「さればほかの街を当たられませ。ここにはあの両名以外賢人はおりますまい」
その後、冬隷は仲孫翔と酒を酌み交わし、大いに歴史や詩歌を論じていたが、話しているうちに、この男の才覚と謙虚さにしみじみ感じ入っていった。
「しからば影晴どの、貴殿はどうであろう。貴殿の知謀は遥かそれがしを凌ぎ、清廉にしてまこと謙虚なお方。まさに当代一の名士と言うにふさわしゅうござる」
それを聞いた仲孫翔はすこぶる慌てた様子で言った。
「何を仰る、それがしなどは以ての外にござります。文も武も他の者に劣り、器もかように狭い輩です。どうかお戯れは程々になさりませ」
その夜、とうに明かりは消し二人とも床に就いていたが、冬隷は突然目が覚めた。暫く眠れる様子もないので、布団から半身起こしてきょろきょろとあたりを見回していたが、ふと奥の机に置いてある、一枚の紙に目がいった。手に取ってみると、これは詩文の書き損じである。ははあこれは影晴どのの書いたものに違いあるまいと、冬隷は燭台に火を灯し、よくよくそれを読んでみた。その詩に、
青青竹林朝霞露
河山如画人往路
遠望楼家烟細細
哎一声老友宅炉
郷里乎我何忘爾
河山は画の如く 人は路を往く
遠く楼を望み
郷里や 我
かれにはかねてより文学の心得があったから、それのまこと妙々たるをよく理解し、その文才に心底敬服したと同時に、この男こそまさに当代の名士であると悟ったのである。
「先生、お目覚めですか」
明くる日、仲孫翔が起きてみると、すぐ側に冬隷が床に額を擦り付けてひれ伏していた。
「伯寧どのお立ちあれ、なんの真似でござるか」
「影晴どのがこれ程までに見識深く、感性鮮やかに、才知のあるお方であったとは。この冬隷、御見逸れしました」
仲孫翔が慌ててすぐさま助け起こすと、なおも冬隷は手を組み頭を下げ、深く礼をしている。はてなんのことかと仲孫翔が思案していると、机に置かれた書き損じが目に入ったから、それを取って笑いながら言った。
「これは暇潰しに書いた駄文にござる。かようにお目苦しいものを、まったく粗相仕りました」
「駄文だとはご謙遜も過ぎまする、古の詩歌仙にも勝るとも劣らず、溢れる才知を感じまする」
すると再び地面にひれ伏して請うた。
「影晴どの、どうかそれがしの参謀役となって、我が身をお支え願いたく存じまする」
この仲孫翔は幼い時から、黒髪の中に一房の白髪という変わった容貌のために、周りから侮蔑され続けてきた。その上十六歳になった時、流行り病で右目を失ったため、人々はますます気味悪がって近寄らなくなった。かくして齢二十三になる今日、もはや街の誰にも相手にされなくなったから、この冬隷の姿勢には腰を抜かさんとばかりに驚いた。
「それがしのような不才の輩に、官人の従者などがどうして務まりましょうや。身分も卑しく、隻眼に白髪一房、かように見てくれも酷いとなれば、まさに貴殿は天下の笑い者となりましょうぞ」
されど冬隷は引き下がる気配を見せない。
「先生はまさに当代の賢人、才知は優れさかんにして、まさに溢れんばかり、清廉高潔なることは仙人の如し。王佐の才を持つ人を前にして、たかが外見など問題になりましょうか。かようなお人と出会うことが出来たのは、まさに天の計らいと言えましょうや」
その言葉に仲孫翔は感極まって覚えず涙し、自らもひれ伏して、声を絞り出すようにして答えた。
「さればこの仲孫影晴、非才ながら我が君の為とあらば、犬馬の労も厭わず働きまする」
こうして李鮮、冬隷の両名は、それぞれ陳遼、仲孫翔という名士を麾下に加えたが、時は
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