~89~ 恋人らしいこと……
「さ、家に入ってゆっくりしましょう」
家の鍵を開け、エクトルは羽琉を中に促す。
サラというハウスキーパーが隔日で通っていることもあり、掃除が行き届いている部屋の中は清潔感が漂っていた。採光を取り入れやすくなっている間取りからか、電気を点けなくても部屋全体が明るく、温かみのある木目調の内装も羽琉はすごく気に入った。
「どうですか? 落ち着ける雰囲気がありますか?」
「……はい。この家の設計はエクトルさんがなさったんですか?」
「設計自体は建築士にお任せしましたが、かなり希望は出しました。こだわりとまではいきませんが、自分が一番落ち着ける場所にしたかったので間取りはもちろん、壁紙やフローリングの素材なども口は出しましたね。だから私が好きな空間になってるんです。ハルにも気に入ってもらえると嬉しいのですが」
一目見て気に入っていた羽琉は、微笑んで「はい」と肯く。
「ハルの部屋はこっちです」
そう言ってエクトルは羽琉の手を引いて、リビング横の一室へ。
「本当は廊下の突き当りにあるゲストルームの方が広いのですが、私ができるだけハルの近くにいたいと思って隣のこの部屋にしました。……どうでしょうか?」
そう訊ねられたが、もちろん羽琉に異論などあるわけがない。ここでは居候の身になるので、エクトルにあてがわれた部屋できちんと生活しようと思っていた。それにエクトルは広くないと思っているのかもしれないが、荷物の少ない羽琉にとっては十分過ぎるほどの広さがある。備え付けのクローゼットがあるが、その半分も埋めることはできないだろう。そして部屋の中には必要な家具が一式揃っていた。
「この部屋もゲストルームとしてたまに友人を泊まらせることもあったので、取り敢えずの物は揃っていると思います。ですが、これからはハルの部屋になるので、もし欲しい物があれば遠慮なく言って下さい」
これ以上必要なものがない羽琉は勢いよく首を横に振る。
「ハル」
エクトルからふいに手を握られ、羽琉は長身のエクトルを見上げた。
改めて向けられる優しい碧眼の眼差しに、羽琉は吸い込まれるように見惚れる。
「今日からハルがこの家にいてくれることにこの上ない幸せを感じています。これから何が起こっても、一緒に悩んで解決していきましょうね」
「……はい」
「それから」と少し間を置いてエクトルは話を続けた。
「1つ伝えておきたいのですが……。ハルの嫌がることは絶対にしません。絶対にしませんが……少しだけ恋人らしいことをしてもいいでしょうか?」
「えっと……恋人らしいこととはどんなことでしょうか?」
羽琉の問い掛けに、エクトルは握ったままになっていた羽琉の手に少しだけ力を入れる。
「これまでより多くハルに触れてしまうかもしれません。こうして手を繋いで、寄り添い合って……私はハルと恋人としての付き合いをしていきたいのです。ただ、ハルが嫌だと思う接触の仕方ならば、はっきりノンと言って下さい。ハルに我慢されることも私は嫌なので……」
エクトルは苦笑しているが、握っている手からはエクトルの羽琉に対する切実な想いが伝わってくる。
多分、僕が手を繋ぎたくないと言ったら一生握ってくることはないんだろうな。
そう確信出来る。
「えっと、戸惑うかもしれませんが……多分嫌ではないと思います」
「本当ですか?」と表情を明るくするエクトルに、羽琉は言いようのない気分になる。まだまだ恋愛に不慣れな羽琉だが、笑顔を見せるエクトルにどこか嬉しい気持ちになった。
「ハル。心から愛しています」
「!」
羽琉の肩がビクッと震える。
そのワードは羽琉が一番聞きたくなかった言葉だった。
成瀬が気持ち悪い吐息で何度も羽琉に言っていた言葉――。
瞬間的にこわばりを見せた羽琉に、エクトルは少し辛そうに目を細めた。
「ハルは『愛』が怖いですか?」
「……」
真っ直ぐに見つめられ、羽琉は瞠目し息を呑んだ。
自分に向けられる『愛している』という言葉は、どうしても成瀬を思い出してしまう。羽琉にとっては穢れた言葉として認識されているし、その言葉自体、信用出来ないものになっている。
エクトルが羽琉のことを探っていたと友莉から聞いた時点で、何もかもを知られてしまっていると思っている羽琉は、そういう心の機微に触れることまで確信があってエクトルが聞いているのだと分かった。
それは、今初めてエクトルから『愛してる』という言葉を聞いたからだ。
どこまでも羽琉を思いやるエクトルの心に触れ、どう答えようか考えていたが、その前にエクトルの言葉が続いた。
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