~84~ 月の光、退所
同じ頃、佐知恵は羽琉を迎えに行く準備をし終えていた。月の光からそのまま成田空港へ羽琉を送り届けなければならないため、早めに羽琉を迎えに行きたい。羽琉との別れを惜しむ時間も考えると、もうそろそろ家を出た方が良いだろう。
「仕事じゃなかったら、僕も羽琉くんと会いたかった」
玄関先で佐知恵を見送る誠也が残念そうに、そして寂しそうに苦笑する。
月の光で何度も会ってはいるが、羽琉が誠也に心を開いていないことはよく分かっていた。他人行儀で距離が全く縮まらなかったことも。
それでも月の光を出た後、羽琉を家に迎え入れることは誠也の中では決定事項だった。自分なりに考え、そのための環境も整えていた。
だが花村家に来たところで羽琉はなおさら心を閉ざしてしまうのではないだろうかという懸念も抱いていた。自分たちに心配させないよう表面上は明るく振舞いつつ、1人疎外感を感じてしまうのではないだろうかと。
そこをどうケアしていくのかが、誠也の課題になっていた。
「一緒に暮らすことを僕が望んでいたことは……結局、羽琉くんには伝わらなかったなぁ……」
靴を履き終えた佐知恵が振り返りつつ立ち上がると、誠也の左手をそっと手に取った。
「羽琉は私たちのことを1番に考えてくれてた。だからこそ羽琉に誠也の気持ちはちゃんと伝わってると思う。ただ羽琉は私たちに頼ろうとは思ってなかったんじゃないかしら。羽琉は来年20歳になる。子供じゃないから自立して、1人で生活していこうと考えてたんだと思う」
それでも羽琉と暮らすことが出来なかった誠也は「そうか」と寂しそうに呟く。
羽琉とエクトルのことは、佐知恵から聞いていた。同性同士ということにかなり動揺があったのは事実だが、2人の様子を見ていた佐知恵の話から、わりと受け入れるのは早かった。
正直に話した佐知恵に説得されたような感じではあるが、羽琉の幸せを願っているのは誠也も同じだ。その羽琉が選んだのなら、誠也は黙って見守るだけだ。
「だけど羽琉の帰る場所は、いつでも
佐知恵の言葉に微笑んだ誠也は「うん」と言って肯いた。
「じゃあ、行ってくるわね」
購入していた菓子折りを持って誠也に手を振る。
「行ってらっしゃい」と言う誠也の見送りを受け、家を出た佐知恵が月の光に到着したのは9時前だった。
月の光に入り受付で名前を書くとそのまま羽琉の部屋へと向かい、ノックをして「はい」という羽琉の返事を聞いてからドアを開けた。
「おはよう」
「おはよう。母さん」
にっこりと微笑んで迎えた羽琉に、佐知恵も微笑み返す。
「今日はそのまま私が羽琉を成田空港まで連れてくわね」
「うん。ありがとう」
部屋を見回して「行く準備は出来てるみたいね」と訊ねると、「荷物もそんなになかったから、だいぶ楽だったよ」と羽琉が苦笑して言った。
「じゃあ、エクトルさんを待たせるといけないから行きましょうか」
「うん」
先に部屋を出た佐知恵の後に続いた羽琉だったが、部屋を出る前にぴたりと足を止めると、これまで世話になった自分の部屋を振り返った。
優月との思い出や笹原たちと過ごした日々が走馬灯のように脳裏に駆け巡る。たくさんの人たちに支えられ、助けられ、ここまで心の回復が出来たことを噛み締めつつ、羽琉は込み上げるものを抑え込むように大きく息を吸った。そして約1年半お世話になった部屋に深々と一礼して部屋を出た。
受付に行くと笹原が笑顔で待っていた。
「羽琉くん。元気でね。何でも1人で抱え込んじゃ駄目よ。あなたの周りにはたくさん聞いてくれる人がいるんだから時には甘えなさいね。あと落ち着いたらまた月の光に遊びに来てくれると嬉しいわ」
「はい。本当にお世話になりました。ここで笹原さんたちに出会えて本当に良かったと思っています。月の光には感謝しかありません。また遊びに来ます。今までありがとうございました」
笹原の言葉に笑顔でそう返した羽琉は、佐知恵と共に感謝の気持ちを表すように深く頭を下げた。
「私も羽琉くんや優月くんに癒されてたわよ。お陰でここでの仕事が楽しかったもの」
笹原がにこっと笑って言うと、佐知恵も羽琉も頭を上げた。
「私に手話を教えてくれてありがとう。今度優月くんと会う時のために、手話ももっと頑張ってみるわ。だから羽琉くんも、環境が変わって最初は戸惑うことがあると思うけど、少しずつで良いから頑張ってみて。応援してる」
先程とは違う柔らかい笑みで背中を押してくれる笹原に、これまで世話になったことも思い出され、目に涙を溜めた羽琉は、涙が頬を伝う前に満面の笑みを見せ「はい」と肯いた。
「本当にお世話になりました」
佐知恵が羽琉と共に深く頭を下げると、笹原と受付のスタッフも同じように頭を下げる。
そのまま笹原たちに見送られながら月の光を後にした佐知恵と羽琉は、駐車場に停めていた車に乗り込んだ。
ゆっくりと発進した佐知恵の車に向かって最後まで手を振ってくれる笹原たちに、羽琉も手を振り返しながら「ありがとうございました」と礼を言い、頭を下げる。そうして笹原たちが見えなくなるまで羽琉も手を振り続けた。
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