~50~ 渡仏①

「次々と難題を突き付けるようで心苦しいのですが、ハルには私とのこれからのことを考えて欲しいのです」

「これからの、こと?」

 肯いたエクトルは「単刀直入に言います」と真剣な表情で前置きをした。

「ハル。私と一緒にフランスに来てもらえませんか?」

「……」

 羽琉は瞠目し息を呑んだ。そのままエクトルを凝視してしまう。

「悩ませることになるのは重々承知の上で、今一度ハルに考えて欲しいのです。私と共にフランスで暮らすことを」

 無言で瞬きだけを返す羽琉に、エクトルは訥々と話し始めた。

「ハルは私を恋人にしてくれました。本当はそれだけで満足しなければならないのかもしれません。でも、やっぱり、いつでも1番そばにハルがいて欲しい」

 そこで言葉を切ったエクトルは羽琉から目を逸らし、切な気に目を伏せた。

「今まで気付きませんでしたが、私はかなり欲張りだったようです。でもここまで欲深くなるほど誰かを求めたことはありません。大切な恋人を悩ませると分かっていても、離れたくないと強く思ってしまう私をどうか許して下さい」

 俯くエクトルの表情は、背が小さい羽琉でも下から覗き込まないと分からない。だが自分の身勝手な想いを羽琉にぶつけてしまっているという自責の念を、その低く小さな声音から羽琉は感じ取った。

「……」

 許しを請うエクトルの金髪が風に揺らされ、羽琉の目の前でキラキラと光っている。サラサラと左右に揺れる金髪に目を細めた羽琉は、無意識にその髪に触れていた。見た目通りの柔らかな髪質に感動しつつその感触を堪能していると、「……ハル?」と少し困惑したようなエクトルの声が聴こえた。

「!」

 我に返った羽琉は「すみません!」と言い、エクトルの髪から手を離す。自分でも何をしていたのかと慌てふためいてしまった。

 そんな羽琉の様子を上目遣いで見ていたエクトルがふっと吹き出す。

「ハルから触れてもらえるなんて思っていませんでした」

 そう言いながらエクトルは顔を上げた。そして自分の行動に動揺している羽琉の髪を、今度はエクトルが優しく撫でる。

「恋人なのだから、いつでも触れて構わないのですよ」

「……」

 湧き水漂う澄んだ湖のようなエクトルの碧眼を間近に見つめ、羽琉は目が離せなかった。

 綺麗だと思う。

 陽を受けて光る金髪も、映る青空も霞むような碧の瞳も、スッと高く伸びる鼻梁も、頭上舞う桜を思わせる花唇も……その全てがエクトルに相応しいもので、目だけでなく全神経を奪われる。

 以前も思った。世界遺産を見ているようだと。

 今も同じ感覚がある。だが恋人という立場になったからか、エクトルからの熱も感じ取れ、羽琉は不思議な心地でエクトルに見惚れていた。

 そしてエクトルを見つめながら「少し、考えてはいました」と口を開く。

「エクトルさんはフランスに戻られるんですよね。そうなると、その……遠距離恋愛になるのかなって。でも僕は人付き合い以上に恋愛は苦手で未熟なので、そうなった場合、今の気持ちを維持し続ける自信がありません」

 正直に打ち明ける羽琉に、エクトルは肯くことで理解を示した。

 それはエクトルも危惧していたことだったからだ。羽琉の心にやっと芽生えた恋愛感情を薄れさせる状況にすることはエクトルだってしたくない。

「携帯電話もないし、施設内に一台あるパソコンは共同のものだし。連絡手段として個人的なやり取りをするには少し難しいのかなって」

 羽琉はエクトルと付き合うにあたって、すでにこれからのことを考えていた。それはエクトルの帰国を予め知っていたからなのだが、自分の状況も鑑みると頻繁に連絡を取るのは無理だし、もし会いたいと思ってもフランスと日本ではすぐに会うことは出来ない。自分がやっと導き出した赤子のような感情を抱えたまま離れることに不安がないわけではなかった。

「ハルは私と暮らすことに抵抗がありますか?」

「えっ、と……」

 正面から訊ねるエクトルに羽琉は困惑してしまう。

 エクトルと暮らす=同棲になるだろうことは察しがついた。しかも恋人同士という関係を築いた上でだ。多少なりとも抵抗に近い感情を抱いても仕方ないだろう。同時に恥ずかしさのような戸惑いも生じる。

 ――いや。それも考え方次第なのかもしれない。それこそルームシェアだとでも思えばそこまで難しく考えるようなものでもないような気がする。

 だが生来の人付き合いの苦手さと相まって、誰かと一緒に暮らすこと自体に気疲れしてしまうだろうことが羽琉には目に見えていた。

 どう答えようかと黙考していると、ふいに「すみません」とエクトルが苦笑しながら謝ってきた。

「いろいろと段階を踏まなければならないことは分かっているのですが、ハルの言ったように、遠距離になって私への気持ちが離れてしまうのも怖いのです。ハルはまだ自分の気持ちに確定的なものを出していないですよね?」

 羽琉は微かに瞠目し、息を呑んだ。

 エクトルは羽琉の中にある、まだ決めつけられない心情を悟っている。

 ここで誤魔化してもしょうがないと思い、羽琉が正直に一つ肯き返すと、エクトルは楽しそうににっこりと微笑んだ。

「今回はゆっくり考えて下さい。ハルの一生を決める大事な問題になります。私の帰国に合わせようとしなくても良いので、この件は熟慮して答えを出して下さい」

 その言葉に重みを感じた羽琉はエクトルから少し視線を逸らした。

 自分の一生を決める問題――。

 エクトルの言うことは理解していた。

 フランスに住むということはフランス国籍を取得し、日本から離れるということになる。もしこのままエクトルとの関係が続けば、いずれは同性婚の認められているフランスに永住するのが自然な成り行きだろう。

 だがそれを今の段階で決めることが自分に出来るだろうか?

 芽生えたばかりの気持ちさえも持て余している状態なのに?

 いや。それ以前に、羽琉には一番の問題があった。


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