~36~ 悪夢の再来②
『はるくんだいじょうぶ?』
手話が出来ない笹原は優月と筆談でコミュニケーションを取る。
今も寝ている羽琉のベッドの横で泣きそうになりながら、スケッチブックにマジックペンで書いた文字を見せつつ笹原に羽琉の容体を訊ねていた。
「疲れたのかもしれないわね」
いつもの笑顔を見せつつ優月に説明している笹原も内心は羽琉のことをいつも以上に心配していた。
「すみません。公園でハルが倒れてしまいました。病院にと思ったのですが、こちらでお世話になっていると聞いていたので、取り急ぎこちらに連れて来ました」
外出時間ギリギリで月の光に現れたのは、汗を掻きつつ遅れたことを笹原に詫びる羽琉ではなく、金髪の外国人に抱き抱えられ、その腕の中でぐったりとしていた羽琉だった。
エクトルを羽琉の部屋へ案内するよう事務員に指示した笹原は、その間に近藤と連絡を取って対処を仰いだ。後に月の光に訪れた近藤が診察をし、今羽琉は規則的な寝息をたてて眠っている。
『元気になる?』
「さっき注射も打ったから、もう少し休ませてあげましょうね」
『……うん』
まだ心配気な優月と共に笹原は羽琉の部屋を退室した。そして廊下の長椅子に腰かけていたエクトルに歩み寄る。
「羽琉くんをここまで運んで下さってありがとうございました」
「いえ。それでハルは?」
「今は薬が効いてぐっすり眠っています。それで……羽琉くんが倒れた時の詳しい状況が知りたいのですが」
笹原の言葉に肯いたエクトルは「えぇ、説明します」と言うと、長椅子から腰を上げた。
その時。
「!」
立ち上がったエクトルの服がつんつんと引っ張られた。少し傾けた体勢で、引かれた袖を見つめると、優月がエクトルに見せるようにスケッチブックを掲げていた。
『エクトルさん。はるくんつれてきてくれてありがとう』
だがそこに書かれた文字を解せず苦笑したエクトルは、笹原をちらりと見やる。
察した笹原が日本語で通訳し、「どういたしまして」というエクトルの返事をスケッチブックに書いた。
小さく笑んだ優月は、笹原とエクトルに挨拶をすると自分の部屋へと戻っていった。
「こちらへどうぞ」
優月を見送った笹原は、エクトルを【相談室】と書れた部屋へ案内した。受付を通って真正面にある部屋だ。
笹原はエクトルを先に中へ促すと、入り口に使用中の札を付けバインダーを持って部屋へと入った。
相談室は2人掛けのソファーと1人掛けのソファーが2つ向かい合わせに置いてあり、その間にガラス張りのテーブルが置いてある。笹原は2人掛けのソファーにエクトルを座るよう促した。
「改めまして、小田桐羽琉くんを担当している看護師の笹原と言います。エクトルさんですよね? あなたのことは優月くんと羽琉くんから少し聞いています」
前日に羽琉がエクトルのことを笹原に話していたことで、エクトルは不審人物にならずに済んだことに胸を撫で下ろす。そして公園で羽琉の友人に会ったということを笹原に説明し始めた。
「それは高校の時の友人でしょうか?」
「さぁ、分かりません。どこか不安そうにしている様子ではありましたが……」
笹原は表情を曇らせた。
今の羽琉の様子からすると、やはり笹原が心配している高校時代の友人だろうということが容易に窺えたからだ。
羽琉は思い出してしまったのだ。死にたくなるほど苦しみ、絶望に落とされた時期のことを。
「私は話の邪魔になると思い、その場を少し離れていたので、どんな話をしていたのかは分かりません。ですが、その友人と話している時のハルの様子が遠目から見てもおかしかったので、話を切り上げられるように途中で私が声を掛けました」
「おかしかったとは?」
「肩の揺れが大きかったんです。呼吸を整えているような感じでした」
気持ちが沈む時にする行動だと知っている笹原は沈痛な面持ちになる。
「その後、友人と別れたハルは私の元に来たのですが、突然頭を抱え、崩れるように倒れました」
「そうですか。……羽琉くん、何か呟いたりとかしませんでしたか?」
エクトルは「いいえ、何も」と首を振った。
「救急車を呼ぶべきか迷いましたが、倒れた時上手く受け止められたことで外傷もなかったので、取り敢えず施設に運ぶことを優先しました」
月の光が病院系列の施設だということをユヅキから聞いていたこともエクトルは付言した。
「そうだったんですね。ありがとうございます」
笹原はそこで口を閉じる。
エクトルが羽琉のことをどこまで知っているのか分からないので、羽琉の過去について話すことが出来ない。ここまで羽琉を介抱してくれたエクトルに、この状況に至った経緯を説明出来ないという申し訳なさが募るが、羽琉の心の傷に触れることになるのでどうしても躊躇ってしまうし、看護師という立場上、守秘義務が生じるので笹原から教えることは出来ない。
「ハルは自分のことを私に話してはいません。なので私に説明は不要です」
笹原の表情からその心情を悟ったエクトルはにっこりと微笑む。
「本人の口から話してくれるまで待ちますので、大丈夫ですよ」
笹原はハッと目を瞠った。そして、気に病んでいるのだと分かった上でエクトルが言ってくれたのだと察すると笹原は苦笑を返した。
「あの、もう一度ハルの様子を見てから帰っても良いですか?」
「はい。しばらくは目を覚まさないと思いますけど。それと申し訳ないのですが、英語で構わないので面会者名簿に名前の記入をお願い致します。受付のカウンターにあるので帰る時にでも書いて下さい」
エクトルは軽く肯くと、笹原に見送られる形で相談室を後にした。それから羽琉の部屋へ真っ直ぐ向かう。
羽琉の部屋の前。ノックをすると起こすかもしれないと思い、静かに入室する。
薄暗い部屋の中で羽琉の規則正しい寝息が聴こえた。どうやら悪夢を見ることなく深い眠りに就いているようだ。
起こさないようにしつつ、エクトルはベッドの横にある四足の丸椅子に腰掛けた。
閉まっているカーテンは遮光ではないからか、小さな縫い目を縫って陽の光を部屋に運んでくる。
部屋が真っ暗にならないのはそのお陰かと内心で呟きながら、エクトルは沈鬱な表情で羽琉を見つめた。
「ハル……」
もう少し早く声を掛ければ良かった。羽琉が思い出す前に、倒れるほど苦しむ前に、どうして声を掛けなかったんだ。
後悔するエクトルの表情が次第に険しくなる。
事情を知っていたからこそ、もっと注視しなければならなかった。そうすれば羽琉の異変にもっと早く気付けたはずなのだ。
「すみません。ハル。私がもう少しハルのことを気に掛けていれば、こんなことには……」
そう思っても後の祭りだった。
羽琉の心はもう傷口を開けてしまった。必死で閉じ込めようとしていた最も思い出したくない過去の傷を……。
また苦しむことになる羽琉のことを思うと、エクトルは張り裂けるような胸の痛みを感じた。同時に羽琉を守れなかった自分にも腹立たしさと情けなさを感じ、悔しさにきゅっと唇を噛み締める。
だがエクトルという人間は、ここで落ち込んだままいつまでも後悔に耽るような玉ではない。
改めて羽琉の寝顔を見つめると「もう二度とこんな思いはさせません」と固く決心するように呟いた。
それから羽琉への書き置きを残し、笹原に言われていた面会者名簿に自分の名を記入してエクトルは滞在先のホテルへ戻った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます