~20~ 夢見心地の類友

 夢のようなひとときだった。

 どうやってホテルに帰り着いたのかエクトルはよく覚えていない。フワフワしていてちゃんと歩いていたのかも怪しい。

 ホテルの部屋で待っていたフランクから「良かったですね」という言葉を掛けられたことで、エクトルは我に返った。

「コーヒーでよろしいですか?」

「……あぁ」

 嬉しさで体が震えるという経験を初めてしたエクトルは、身を沈めるようにソファーに腰を下ろすと羽琉と過ごした幸せな時間を回想した。

 真面目で純粋な羽琉の性格にエクトルの心は癒され、控えめに微笑む表情に胸を鷲掴みされた。本当は自分に興味を持ってもらえるように羽琉とどんな会話をするかいろいろ考えてもいたのだが、羽琉の姿を見た途端全てが吹き飛んでしまった。頭が真っ白になる、そんな経験もエクトルは初めてだった。

「フランク。どうしてだろうね?」

 エクトルの前にコーヒーを置いたフランクに、エクトルが遠い目をしながら訊ねる。

「君相手だと出来ることが、ハルを前にすると出来なくなる。振り向かせようと考えていた思惑が全て無になって停止してしまうんだ。どれもハルには通用しないような気がして……すごく弱くなっている気がする」

 ぼんやりと呟くように言うエクトルに、フランクは心底呆れた表情を浮かべた。そして「恋愛をナメているんですか?」と、怒気を含んだ声音で強く言い放つ。

「そうなるのは当然でしょう。それが本気の恋というものです。私も友莉ゆり相手ではそうなります」

 面食らったエクトルは呆気にとられた表情でフランクを見上げた。

「本気で人を好きになれば人は弱くなりますし、嫌われたくないから臆病にもなります。ですが互いに心から愛し、支え合うことが出来るなら、それは強さに変わります。エクトルにとって小田桐さんがそういう相手に成り得るのなら、諦めてはいけない相手なのではないでしょうか」

「……」

 愛妻家であるフランクの言葉には説得力があり、エクトルの心に深く突き刺さる。

 今まで自分は強いと思っていた。そうあるように努力をしていたし、会社でもそれが認められて役職が与えられたと思っている。

 だが羽琉相手にだけ弱くなることをエクトルは自覚した。それだけ羽琉に心惹かれている証拠だ。34歳になってエクトルは本気の恋を初めてした。

「そうか……。これが、恋愛か」

 小さく呟いたエクトルは、自分がこれまで付き合ってきた女性たちのことを思った。羽琉に対する気持ちが本当の恋なのだとすると、気持ちがないまま付き合っていた自分は、あまりにも彼女たちに不誠実だったのではと良心が咎めた。

「気になさることはありません」

 表情を暗くしたエクトルの心中を的確に察した有能なメンターは、きっぱりと言い切る。そして「似た者は集まる」と言葉を続けた。

「これはフランスの諺ですが、同じ意味を持つ諺が日本にもあります。『類は友を呼ぶ』。これまではエクトルが本気で恋愛相手を捜していなかったから、エクトルの肩書きや金銭、またはルックス目当ての女性しか寄ってこなかった。例えるなら、高級品を身に着け、周りに自慢することで優越感を味わえる装飾品と同じです」

 その言葉の裏を返せば、これまでエクトルもそういう女性しか相手にしていなかったことになる。エクトルにそういうつもりはなかったのだが、気持ちがない時点で同じようなものなのかもしれない。

 棘のある辛辣な言葉に、フランクがこれまでのエクトルの恋愛観に辟易していたことが窺えた。

 若干傷付いたエクトルは微妙に顔を歪める。

「ですが、今のエクトルは違います。心を癒し合ったり、互いを尊敬し合いながら、人生を共に歩んで行きたいと思う相手を求めておられる。だからこそ小田桐さんと巡り合うことが出来たのです」

 フランクの言葉に、エクトルは「……そうかもしれない」と噛み締めるように肯定した。

「ハルといると自分が優しくなれている気がする。ハルの存在が心に余裕を与えてくれるからだろうね。それが多分私には弱さに感じられたんだろうが、フランクの言葉を聞いた今ではもっと尊いものに感じられる。ありがとう、フランク。君はやっぱり頼もしいメンターだ」

 褒められたことにフランクは面映ゆくなる。

 部下の言葉も柔軟に吸収し、知らないものや新しいものを取り入れる姿勢はエクトルの長所の一つだろう。だからこそフランクも歯に衣着せぬ言葉を遣うことが出来るし、本音を言うことが出来る。

「それで小田桐さんからのお返事は?」

「保留中。もう少し私を知ってからきちんと考えて返事を出したいって。その言葉だけで私は舞い上がりそうだった」

「なるほど。小田桐さんの生真面目な性格が窺えますね」

「日本に滞在中の午前の時間はハルのために空けることにしている。スケジュールは大丈夫だろう?」

 当然のように訊ねるエクトルに、同じく当然だと言わんばかりに「はい」とフランクが即答する。

「そのためにエクトルが前倒しで仕事を処理されていますからね。急な要件が入らない限り、午前中どころか夕方まで何もありませんよ」

 そんなフランクにエクトルはニッと笑った。

「私が無理をしないよう余裕をもってスケジュール調整していたんだろう? そうでなければ、こんなに多く余分な時間が取れるわけがない」

「その通りですが……理由は違います」

「へぇ。じゃあ余暇を作った理由は?」

「実地調査です。日本の観光に時間を充てていました。日本人のニーズにあった事業を展開していく必要がありますので、リフレッシュも兼ねて観光地を巡り、多くの日本人と接することで事業に活かして頂こうと思っておりました」

「なるほど。さすがだね。その時間が今はハルとの時間になろうとしているわけだが……それについて何か言うことはないのか? せっかく君が今回の案件のために観光時間を作ってくれたのだろう?」

 それについても「特にありません」とフランクは即答する。

「それによってエクトルの仕事効率が下がるようならもちろん容赦なく抗議させて頂きますが、やるべき仕事を全てこなした上で小田桐さんとの時間を作っておられるので抗議する理由がありません」

「その点は心配しなくても大丈夫だろう。ハルは私が仕事で来日していることを忘れていない。一番に私の仕事に差し障りない時間帯を聞いてくれた。理解してくれている証拠だ」

「そうですね。小田桐さんはそんな方だと思いました」

「君は見ただけで性格が分かるのか?」

「エクトルもそうなのでは?」

 即座に聞き返され不意を突かれたが、エクトルは笑みを深めたことでフランクの言葉を肯定した。

「ハルは純粋で綺麗だ」

「同感ですね」

 フランクの返しに微妙に顔を顰めたエクトルは「譲らないぞ」といらない牽制をする。

 それにまたフランクは呆れた。

「エクトルの隣にいる相手として異論はないという意味です。ご存知の通り私には最愛の妻、友莉がいます。友莉意外は眼中にありません」

 フランクは惜し気もなく愛妻家ぶりを披露する。

 フランクが妻を溺愛していることは、エクトルだけでなく社内でも周知の事実だ。その一途さが好感に繋がり、結婚した後の方がモテたほどだ。だがそこでも一途さを発揮したフランクに徐々にその数も減っていき、今では穏やかな環境の中で仕事に集中することが出来ている。

 幸せそうなフランクを見る度に、結婚は良いものだと認識させられていたエクトルは、自分にもそんな相手が現れるだろうかと夢見るような心地で願っていた時期もあった。だが仕事にのめり込むうちに、半分諦めるようになっていた。肩書きが付いたせいで、理想の相手ではなく、遊びで近づいてくる女性が増えたのだ。エクトル自身も今が楽しければそれで良いと思っていた。今思うと、それ以外を求めることを完全に諦めていたのかもしれない。

 そんな時、羽琉と出会った。

 最初は気軽に声を掛けただけだった。何か用があったわけでもない。その場には羽琉以外にも何人かいたはずだが、エクトルが声を掛けようと思ったのはベンチに座って湖面を見つめていた羽琉だった。警戒色を滲ませた羽琉の眼差しに日本人特有のものを感じ取ったが、フランクの報告でそれだけでないことを知ったエクトルは、それでも純粋さを失っていない羽琉の心の綺麗さに惹かれた。

「自分が理想とする夫婦が目の前にいるんだ。ハルともそういう関係を築けたらと思っている」

 微笑むエクトルに、フランクも物思うように目を伏せる。

「そうなるよう、努力しなければなりませんね。そのための第一歩を踏み出したのですから」

 保留の返事はそう悪いことではない。羽琉がエクトルのことを意識したという意思表示だ。

「日本に滞在中の9日間で出来る限りのことをしてみるさ」

「小田桐さんには何も考えず接した方が良いのではないでしょうか。その時その時の想いを素直に伝えれば、良い返事をもらえることに繋がると思います」

「それはメンターとしての意見かな?」

「いいえ。1人の男としてのアドバイスです」

 フランクはそうやって妻を口説いたのだろう。誰にも当てはまるものではないかもしれないが、その結果が今の幸せそうな2人の姿に繋がっているのなら、かなり参考に出来る助言だと思った。

 フランクの言葉に納得するように肯くとエクトルは、羽琉から連絡がくる楽しみに浸ることにした。

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