類友はカルマに従う

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~0~ 類友はカルマに従う


『こんにちは。君は今何をしてるんですか?』

 英語だ。だがネイティブではない。どこか訛りがあるように感じる。

 二人掛けのベンチに座り、公園の湖面を眺めていた小田桐おだぎり羽琉はるは、スケッチしていた手を止めた。

 チラリと横目を流したが、男性の全貌は拝めない。そのまま顔の方へと視線を上げると、まず眩しいほどの金髪が目に入ってきた。それからあまりお目に掛かれない綺麗な碧眼。そして自分の見上げる角度でかなりの長身だということが分かる。明らかに日本人ではない男性が優美な微笑みを湛え、羽琉を見下ろしていた。

『絵を描いてるんですか?』

「日本語で話して下さい」

『え?』

 日本語が分からない男性はきょとんとした表情で小首を傾げる。瞬きを数回繰り返し、どうしようかと思案しているようだ。

 羽琉の無愛想な態度から何か反感を買ったようだと気付いた男性は、しばらくしてから無言でその場を後にした。

 再び訪れた静寂に安堵した羽琉は視線を湖面へと戻す。じっと見つめた後、鉛筆を動かそうとしたが、背後に人の気配を感じ、また手を止めた。小さく振り返ると、さっきの男性が息を切らしこちらに戻ってきている。

『邪魔をしてすみません。君と話がしてみたくて』

 今度は違う言語で話し掛けられた。言葉のニュアンスからして、フランスとかイタリア……ヨーロッパ圏の言語だろうか。

 羽琉は溜息を吐いた。そしてさっきと同じ言葉を返そうとして口を開き掛けた時、何故か日本語に訳された言葉が耳に入ってきた。よく見ると男性の後ろにもう一人誰か立っている。どうやら日本語が話せる通訳らしき人を連れて戻ってきたようだ。

『私はフランスからビジネスのため日本に来ました』

 男性の言葉を後ろの男性が同時通訳していく。

『近くのホテルに宿泊しているのですが、公園の紅葉がとても綺麗だったので散歩をしていたんです』

 そこでベンチに座り風景をスケッチしている羽琉を見つけ、話し掛けてみたということらしい。

『絵を見せてもらっても良いですか?』

 特に絵に自信があるわけではないが、別に隠すようなものでもない。羽琉はスケッチブックを男性に手渡した。

 にっこりと笑い、ペコリと軽く頭を下げた男性はスケッチブックを受け取ると、神妙な面持ちで羽琉の描いた絵を見つめた。

 男性から湖面へと視線を戻した羽琉の耳に、スケッチブックを捲る音が聴こえる。

 このスケッチブックに描かれているのは今いる公園の他に、一面コスモスで覆われている草原や、人や車の動きが激しい街の風景、山中にひっそりと佇む朽ち果てた廃墟や幻想的な景色に映える白い教会など、テレビや観光誌で羽琉が目にしたもので、どれも写実的だ。それは行ったこともないのにその場にいるような錯覚を起こさせるほど緻密で正確だった。

『君は絵の才能があるようですね』

 しばらくして感嘆の溜息と共に男性が呟くように言う。

 本当に感動しているのだろうが、羽琉には分かっていた。

「選ばれるような才能ではありません」

 選ばれたいと思っているわけでもないが、羽琉はつっけんどんに言い返す。

 スケッチブックから目を離した男性は、視線を湖面に向けたままの羽琉を見つめた。

『……確かに。君はこの道の厳しさをよく知っているようです』

 肯定する男性に羽琉は少し好感を覚える。

 羽琉は耳障りの良い言葉があまり好きではない。

 期待させるだけさせておいて最後の最後に落とされるなんてことは、この世の中に溢れている。自信を持っていればいるほど、その絶望感は半端ないものだろう。期待させた者にも悪気はないのかもしれない。本心でそう思っていたかもしれない。だが才能がないと言ってくれることも必要なのだ。君には無理なのだと。

 しかしそこまで深く力説するほど、羽琉は画家になりたいと思っているわけではなかった。美術学校に行ってもいないので絵に関しては全くの無知だ。美術館に飾られている絵画を綺麗だと思うことはあっても、自分もこういうふうに描いてみたいなどと思ったことはなかった。ただ単純に自分の思うまま風景を描くのが好きなだけだ。

『でも君の絵を選ぶ人もいるかもしれない』

 不意に聴こえた男性の声に、羽琉は視線を向けた。

『今の私のように』

 人懐っこい笑顔を浮かべる男性に、羽琉は怪訝気な表情になる。

『私の名前はエクトル・ド・ダンヴィエール。エクトルと呼んで下さい。君の名前を教えてもらえませんか?』

 先に名乗られてしまっては、名乗らない方が失礼にあたる。そう思った羽琉は不承不承ながらも「小田桐 羽琉です」と答えた。

『えっと……フランク。日本人のファーストネームはどれだっけ?』

 エクトルが囁くように後ろに控えていた通訳士のフランクに訊ねる。そして教えられたエクトルが、案の定『ハルと呼んでも良いですか?』と伺いを立ててくる。

 羽琉は眉根を寄せ、小さく溜息を吐いた。

 最初にファーストネームで呼んでくれとエクトルが言っている時点で、羽琉も合わせなくてはならない状況になっている。ついさっき出会ったばかりの見知らぬ外国人に、何故こんなにもフレンドリーに扱われるのか正直分からなかった。

 羽琉の性格はどちらかというと日本人に対してもあまり良い印象は与えない。実際にそれで人間関係を良好に築けず、険悪になったこともあった。それに以前、感情が読みづらいと言われたこともある。元々あまり表情に表すことがないからそう思われるのかもしれないが、羽琉もそうしたくてしているわけではない。いや。最近になってその傾向が強くなっているきらいがある。それは、過去自分の身に振りかかった災難が強く影響しているのかもしれない。そしてそこまで自己分析出来ているのに直せないところが、自分の一番嫌いなところでもあった。

『あの、ダメですか?』

 改めて訊ねるエクトルに、ハッと我に返った羽琉は半ば諦めたように「どう呼んでもらっても構いません」と答えた。

 すると不安そうだったエクトルの表情が、見る見るうちに満面の笑みへと変わっていく。

『嬉しいです。ありがとうございます』

 何故か礼を言われた。羽琉と親しくなれたとでも思ったのだろうか。

 自分には出来ない素直な反応を返すエクトルを、羽琉は羨ましげに見つめた。

『私は今回初めて来日したのですが、歩いているとどこか遠巻きに避けられているような気がします。たまに話し掛けても逃げられたり……。日本の方はシャイなのですね。話し掛けられるのは苦手なのでしょうか?』

 確かに国民性の問題もあるだろうが、一概に苦手とは言えない。エクトルのようにフレンドリーな日本人もいるだろう。

 だがそれよりも羽琉には気になることがあった。

「英語で、ですか?」

 その質問に『ウィ』と当然のように肯くエクトルに、羽琉は若干キツい眼差しを向けた。

「何故、英語で話し掛けるのが普通だと思っているのか僕には分かりません」

 英語が世界共通語であることは知っている。余程の秘境でもない限り、英語が話せれば取り敢えず言葉の壁を感じることはないはずだ。だから英語が母国語でない国の人はまず英語から習得したいと思うだろう。しかし羽琉にはそこが理解出来なかった。

「ここは日本です。観光にしろ仕事にしろ、完璧ではなくても、まずは日本語で話し掛けるのが筋であり礼儀だと思います」

「……」

 フランクは絶句した。羽琉の言葉をそのまま伝えて良いものか悩んでしまう。

 取りようによっては今の言葉は喧嘩を売っているようにも聴こえる。それに通訳の仕方次第ではエクトルが気分を害することもあり得る。

 どう訳せば良いのか黙考していると、エクトルが早く訳せと目で急かしてきた。フランクは困惑しつつも、羽琉の言葉をそのままエクトルに伝えることにした。

『……』

 それを聞いたエクトルは瞠目した後、口を半開きにしたまま羽琉をじっと凝視してきた。

 その視線に、羽琉は多少の居心地の悪さを感じた。

 呆気に取られているのだろうか? それとも世間のことを知らないような童顔な年下の羽琉に生意気なことを言われ、心中で怒りがフツフツと沸き上がっている最中なのだろうか?

 どちらにしても羽琉は本心を伝えている。それによってエクトルに好かれようが嫌われようが知ったことではなかった。

 相手が大統領のような大物なら、世辞の一つや二つ言ったかもしれない。だが目の前にいるエクトルは確かにモデル系のイケメンではあるが、ただそれだけだ。たかが一日本人の言ったことで国際問題になることはないだろう。

『ハル。もしかして君は英語が話せるのですか?』

 何故かそう思ったエクトルは羽琉に訊ねてみた。

「日常会話なら分かります」

 飄々と返した羽琉に、エクトルが憤慨しないかとフランクは肝を冷やす。

 それもそうだろう。この言い分だと、最初にエクトルが話した言葉も羽琉は理解していたことになる。英語が分からない振りをしていた、つまりエクトルを騙していたということだ。

 仕事上、長い付き合いがあるため、フランクはエクトルの容赦ない性格をよく知っている。ビジネスの駆け引きを持ち掛けるのはいつもエクトルの方で、相手が誰であろうと自分が優位に立つ方法を心得ている。追い詰める手を緩めることは決してしないし、歯向かう者に対しては徹底的に潰しにかかる。手の内を相手に悟らせない手腕も見事ではあるが、身内だから心強く頼りになるのであって、相手側の立場だったらと考えると途轍もなく恐ろしい。

 その辣腕を知っているからこそハラハラしていたフランクだったが、その憂慮は杞憂に終わる。

 エクトルが面白そうに羽琉を見つめていたのだ。

『英語以外も出来るのでは?』

「……」

 羽琉は怪訝そうな表情を浮かべる。だがエクトルが確信をもって訊ねていることが分かったため、名乗った時と同じように不承不承答えた。

「……韓国語とポルトガル語なら何とか。中国語も少し話せますが、発音が難しいので他の言語と比べるとかなり劣ります」

『その国々に行ったことがあるのですか?』

 被せるように質問してくるエクトルに羽琉は若干引き気味になったが、答えるまで目を逸らさないという無言の威圧を感じ、困惑しながらも流れで話し始めた。

「……いえ。幼い頃から母に連れられて海外には行ったことありますが、ポルトガルはありません。ただどの国に関しても、現地で独自にアレンジされたものは不得手です」

 エクトルの目が優しく細められる。羽琉との会話が楽しいようだ。

『ハルはフランスに興味はありませんか? フランス語を覚えたいと思ったことは?』

「興味というより、今はその必要性がありません」

 きっぱりと言われてもエクトルは気にせず、にこにこと微笑んでいる。

『ハルにとっての必要性とは、どういうものでしょう?』

 続く質問に、羽琉は少し目を伏せ考えた。

 どう説明すれば良いのか。人付き合いの苦手な羽琉は、湖面を見つめながらその答え方を考える。そして少し整理してから「僕は」と口を開いた。

「旅行する時、その国の言葉を出来るだけ理解するように心掛けています。言葉を通して、その国の文化や歴史を知ることが好きだから」

 訳されるのを考慮し、話の間を空ける。そしてフランクの訳している言葉が止まってから羽琉はまた話を続けた。

「そこには外から見て初めて分かる、その国の良いところと悪いところがあります。それと比較することで、自分の国の良いところと悪いところも分かります。これまで隠れていて見つけられなかった部分を教えてもらえるのは、すごく貴重ですごく新鮮で……」

 しばらく間を置いた羽琉は再び口を開く。

「でもそういう大切なものを、ずっと自分の国にいると忘れてしまうんです。きっとそれが当たり前だから。だから僕は旅行先の言語を少しでも勉強してから行きます。そうすることで、その国の文化や歴史に触れる瞬間が増えるから。まぁ僕の場合、語学を学ぶのは好きなので言語を覚えるのは半分趣味みたいなものですけど」

 最後まで湖面を見つめたまま話し終えた羽琉に、エクトルは慈しむような眼差しを向けつつ『シュエット(素晴らしい)』と返した。

『ハルの考え方、とても素敵です。私は感銘を受けました』

 羽琉の言葉の何が琴線に触れたのか分からないが、エクトルは感激したように潤んだ目をして急に手を握ってきた。

「……」

 思いのほかギュッと握り締められ、羽琉は困惑気味に眉根を寄せる。握られた手から伝わる好意を振り解くことが出来ず戸惑うばかりだ。

『私がハルにとっての必要性を作ることはダメでしょうか? 邸に招待したらハルは来てくれますか?』

「招待?」

 話の展開がころころと変わるので、羽琉は気後れを感じた。

 何故こんな話になっているのだろう?

 見知らぬ外国人になにやら気に入られたようだが、こんな世の中だからか逆に怖さが芽生える。表情や仕草から悪い人ではないのだろうが、人は見た目だけでは分からないことが多い。何に巻き込まれるか分からないし、招待される謂れもないため、ここは断った方が良い。

 そう判断した羽琉が首を横に振ると、エクトルは残念そうに表情を曇らせた。

『ハルは旅行が好きなのですよね? フランスはダメですか?』

「あ、いえ、フランスが駄目なのではなく……。何て言えば……」

 そろそろ手を離して欲しいのだが、エクトルの握る強さがそれを許してくれない。

「内戦などがある治安の悪い国は怖くて行けませんが、フランスはいずれ行きたいと思う地域ではあります。でも……今は……」

 目を伏せ言葉を濁す羽琉に、何か事情があるのだと察したエクトルはそれ以上追求することはしなかった。だが相変わらず手は握ったままだ。

『それでは、また会う約束をしてもらうことは出来ませんか?』

「え?」

『私はハルのことが好きになりました。明日の午後にはフランスに帰国しなければなりませんが、半年後、仕事でもう一度来日します。その時、またハルに会いたい。私と会う時間を作ってもらうことは出来ませんか?』

 何でこんなに好かれてるんだ?

 羽琉は不思議でならなかった。ここまでの会話で嫌われる要素はあったとしても、好かれる要素は全くなかったように思う。エクトルが何でも良い方に捉えるポジティブな性格だったとしても、この短時間でここまで好かれる意味が分からない。

「あの、この人は本気なんでしょうか?」

 困惑表情で通訳士のフランクに訊ねてみる。

 癖でエクトルに通訳しようとしたフランクに、羽琉は「あなたに訊ねています」と慌てて付言した。

「エクトルはビジネス上でアポイトメントを取ることはありますが、友人でもない方に、個人的に事前約束をしたことはありません。もちろん私の知る限りですが」

 フランクはさほど考えることもなく答える。

 二人がどんな会話をしているのか気になるエクトルは、フランクに通訳しろと急かしてきた。そして通訳された言葉を聞いて、『私の本気を疑ったのですか?』と言いクスクスと笑う。

『もちろん本気です。この数分で私の心はとても安らぎ、そして潤いました。日本に来て初めてビジネスから解放され、癒された心地がしたのです。だからハルともっと話がしたい。今回は時間が取れませんが、次はちゃんとハルとの時間を考え、調整して来日します。ハルの時間に合わせられるようにします。だからハル、私と会うと約束してくれませんか?』

 エクトルの背後でフランクは微かに瞠目した。

 これまでエクトルが相手に日程を合わせることがなかったからだ。

 ビジネスではないからと言ってしまえば特に何の疑問もないのだろうが、エクトルはビジネスだけでなくプライベートにおいても容赦ない人だった。理想が高いというか、自分の意に沿わない相手だと途端に冷たくなる。恋愛でも、顔やスタイルなどに拘りはないようだが、常に尊敬出来る相手を求めているようなところがあった。

 34歳のエクトルが未だ独身であるということは、それはある意味、理想が高いということなのかもしれない。

「申し訳ありませんが、約束なんて出来ません」

『……え?』

 もしかしたらエクトルは断られると思っていなかったのかもしれない。驚きがその表情に表れていた。

 そんな怪訝そうなエクトルを尻目に、羽琉は握られていた自分の手を取り返す。そしてエクトルが持っていたスケッチブックも取り返すと、そのまま帰り支度を始めた。慌てるわけでもなく淡々とペンケースなどをバックに直し、忘れ物がないか身の回りを確認する。そしてエクトルとフランクに軽く頭を下げた羽琉はその場を離れようとした。

『待って下さい。ハル』

 去ろうとする羽琉の右手首をエクトルが慌てて引き留めるように掴む。

 ビクリと肩を震わせた羽琉は反射的に振り向いてしまった。

『私と会うのは嫌ですか? 私はハルに不快な思いをさせてしまいましたか?』

 不安そうに訊ねるエクトルに、羽琉は首を横に振る。

『約束が無理なら連絡先を教えてもらうことは出来ませんか? そうしたらハルがどこにいても私が会いに行きます』

 懇願するような表情で食い下がるエクトルに、羽琉は困惑気味に小さく息を吐くと、どう言えば良いのか頭の中で模索した。

 羽琉だって別にエクトルのことを傷つけたいわけではない。仕事であれ観光であれ、こうして日本に来てくれたのなら滞在中は気持ちよく過ごしてもらいたいという思いはある。

 だが人付き合いが苦手な羽琉は人と接することが好きではなかった。話を広げたくないため、自分のことでさえも言うことを制限している。エクトルに話したのはその範囲内のことだ。ただここまで過剰に反応されたのは予想外だった。大抵は何の感慨もなく「へぇ~」や「ふ~ん」で返されることが多い。いや、それならまだ良い。時には自慢していると取られることもある。訊いておきながら、答えたら途端に冷めた目で見られ距離を置かれる。そんなことはしょっちゅうだった。

 段々思考が深くなり鼓動が速くなったのを感じ始めた頃、羽琉の耳に「羽琉くん」と自分を呼ぶ声が聴こえた。

「もうそろそろお部屋に戻りましょうか」

 公園の入り口で羽琉を呼んだのは看護師である笹原ささはらだった。羽琉が入所している施設、【月の光】の看護師だ。

『……ハル。もしかして君は病院に入院しているのですか?』

 白衣姿の笹原を見て、瞠目したエクトルが訊ねてきた。どこが悪いのかと聞きたそうにしている。

 こうなる前に帰りたかった。

 後悔してももう遅い。エクトルは羽琉をジッと凝視し、返事を待っている。

 長時間初対面の相手と接していたためか羽琉はだいぶ疲れていた。呼吸が浅くなり始め、次第にエクトルの質問に答えることが煩わしくなる。

『どこが悪いのですか?』

 痺れを切らしたのかエクトルが直接訪ねた時、羽琉の中で何かが弾けた。

『Mind your own business.!(あなたには関係ない!)』

 そう英語で言い放ち、『Curiosity killed the cat.(好奇心は猫を殺す)』と続ける。

『……』

 エクトルは目を丸くした。

 その反応に羽琉はバツが悪そうに眉根を寄せて目を伏せる。

 昂った感情と鼓動を落ち着かせるために一度深い深呼吸をした羽琉は、『Please leave me alone.(ほっといて下さい)』と英語で付け足すと自分でも気づかないうちに苦し気に眉根を寄せていた。

 言い方を失敗してしまったことに羽琉はすぐ気付いた。

 エクトルは多分、羽琉のことを心配しただけだ。もう少し違う言い方も出来たはずだ。

 羽琉はそんな後悔をずっと引きずってしまう。何日もずっと――。それなら最初から人と関わらない方が良い。

 そうやって羽琉は独自の回避方法をこれまでずっと貫いていた。しかしエクトルという人物と出会ったことで調子が狂い、今日は接する時間が長くなり過ぎた。相手を思いやれない自分の言動に、ほとほと嫌気がさしてくる。

『大丈夫ですよ。ハル』

 羽琉の前に中腰になったエクトルが、苦し気に顔を歪める羽琉を覗き込みつつ微笑んだ。

『言わせたのは私です。君が傷つくことはない。ハルの気持ちを考えず、不躾に詮索してしまってすみませんでした』

 そう言って頭を下げるエクトルを、羽琉は驚きの表情で見つめる。

 思考を読まれたのだろうかと思った。それほどエクトルは羽琉の心の声に的確に答えを返した。

『約束はしなくても良いです。でももし半年後、ハルが私のことを憶えていたら、またここでお会いしましょう。ハルに会えることを心から願っています』

 笹原の方にちらりと視線を流したエクトルは、それ以上羽琉を引き留めることはせず、『では、また』と優美な微笑を浮かべたまま羽琉から手を離した。

 自由になった羽琉は二人に再度頭を下げ、振り向くことなく笹原の元へと走っていった。

「素敵な方ね。羽琉くんの知り合いなの?」

 公園入口で待っていた笹原が、羽琉と一緒にいたエクトルを見て微かに頬を染め訊ねてきた。

 笹原は新婚である。その笹原ですら虜にしてしまうエクトルの美貌に、羽琉は感心してしまった。

「いえ。偶然会っただけです」

「……大丈夫?」

 気遣うように訊ねる笹原に、「はい」と取り合えず無難な答えを返す。

 鼓動は少し落ち着いていた。呼吸の方も深呼吸をしたおかげで過呼吸にならずにすんだ。

 ただ先程の後悔はまだ尾を引いている。笹原にそのことを話すにはまだ時間の経過が足りなさ過ぎた。

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