第18話

【秋野サチ】


 私の人生において最期の不幸中の幸いは秋葉さんと霧島さんに出会えたことでしょう。

 彼らは何の見返りもなく、ただのお荷物である私を救ってくださった上にまで聞いてくださいました。


「ダメなお姉ちゃんで本当にごめんね……」


 私は変わり果てた姿の妹――秋野美咲を抱き抱えながら謝ります。

 秋葉さんと霧島さんが音楽室から立ち去る前、私は土下座をして頼み込みました。

 妹を――美咲を音楽室に連れて来て欲しいと。もちろん生死は問わない。もう一度だけ抱きしめたいと懇願したのです。


 秋葉さんは感情の読み取れない表情を浮かべたあと、何も聞かずに承諾してくださりました。本当に感謝しかありません。

 その中でも特に嬉しかったのは彼の心遣いです。


 歩く死体となってしまった妹と音楽室に残りたい。

 一体どこの世界にそんなふざけたことを口にする人間がいるでしょうか。

 しかし秋葉さんは美咲をどうするつもりなのか、音楽室に残って何をするつもりなのか、これから先をどう考えているのか、そういったことを一切聞かずにお願いだけを聞いてくださりました。


 この部屋には私たち姉妹だけが残ることになりました。

 美咲は感染者になってしまったあと、籠城する前に霧島さんに供養してもらっていたそうです。頭部こそ視界に入れるのは勇気がいりますが、ちゃんと首も繋がっています。


 数時間前まで息をし、ちゃんと会話することのできる存在だったことを思うと涙を抑えるのは困難でした。

 ゾンビ映画のような事態になってしまってすぐ。私は妹の教室に駆けつけました。美咲は私のたった一人の妹、いえ家族です。気が付けば彼女の元に足が向かっていました。


 感動したのは妹も同じ想いを抱いてくれていたことです。私たちは階段の踊り場で再会することになりました。私の脳内に少し明るい未来がよぎりました。このまま二人でどこか遠いところに行こうと、そう思ったからです。


 私たちの両親はいわゆる毒親です。父はDV、母はアルコール中毒とうつ病により入退院を繰り返していました。父は世間体だけは気にしていたのか、殴る場所は制服を着れば分からないところばかりでした。妹とは高校を卒業して一緒に家を出よう。二人で働ければなんとかなるよ、と励ましあっていました。


 私たちにとって明るい未来を話し合うことは生きる意味であり、生きがいだったのです。

 だからこそこの絶望的な状況でも妹の手を握った瞬間、思わず笑みが漏れてしまいました。

 これで今日からあの家に帰らなくてもいい。殺したくなる父親と目も当てられない母親に会わなくて済むと、そう思いました。それはきっと美咲も一緒だったと思います。


 二人ならなんとかなる。二人でならやっていける。

 信じてやまなかったそれは再会してすぐに終わりを迎えました。

 脱出を試みる途中、私は廊下で転けてしまったのです。背後には大勢の感染者。逃すまいと手を伸ばして来ます。やがてそれは私の脚に触れられる距離にまで迫ります。


 私は恐怖で立ち上がることも、逃げることもできなくなってしまいました。

 けれど妹は、美咲だけは明るい未来を捨てきれなかったようです。

 本当は人一倍おばけやホラーが苦手な美咲。なのに私を庇うためだけに近くに落ちていたほうきを振り回しながら彼らを追い払おうとしてくれました。


 私は何度も何度も、泣きながら叫びました。

 やめなさいと。私を置いて一人で逃げなさいと。

 けれど妹は私の言うことなんて一つも聞いてくれない。


 美咲はいつもそう。私のことになると目の前のことが見えなくなってしまう。

 やがて美咲の腕や脚、首筋に毒牙が迫ります。

 私は泣いて叫びました。自分の命はどうなってもいい。腕でも両目でも心臓でも何でもいい。全てを差し出すから妹だけは――美咲だけは助けて欲しいと。


 神様に何度もお願いしました。

 けれど残酷にも現実は――私から妹さえも奪っていきました。

 廊下に響き渡る美咲の恐怖と痛みの悲鳴。けれど、必死に痛みを堪えて私を睨め付けます。


 彼女の遺言はただ一つ。

「立って!ここから逃げてお姉ちゃん……立てって言ってるでしょバカ姉‼︎」

 その言葉を最期に美咲の姿は感染者に覆われて見えなくなってしまいました。


 耳を塞ぎたくなる妹の悲鳴。皮と肉を切り裂く酷たらしい音。

 ついさっきまで血の通っていた――体温を感じ取れていた妹は感染者に貪られて命を落としました。本当なら私もそこで死んでおくべきだったんです。


 けれど本能が――生への執着が私を立たせてその場から後にさせました。

 私は最低な姉です。自分を庇ってくれた妹ですら守れずに逃げ回っていたんですから。

 廊下を走っているときの気持ちを忘れることはないでしょう。死にたくない。ただそれだけでした。


 運良く生き長らえることができた私ですが、時間が立つに連れて後悔と喪失感が襲ってきました。世界で一番大切だった妹を失ってまで生きる理由があるのか。そこにどんな意味があるのか。考えれば考えるほど私の中に虚無感が広がっていきました。


 気が付けば私は美咲と逸れた場所にもう一度足が向かっていました。

 会ってどうするかなんて自分でもわかりません。

 けれど妹をこの学校に置いたまま私だけが逃げるという選択肢はもう無くなっていました。


 そんなときです。踊り場で感染者に襲われかけて秋葉さんに助けてもらったのは。

 秋葉さんの目を見たとき確信しました。

 自分でもその理由は分からないのですが、美咲と再会するためには彼にお願いするしかないと、本能がそう告げてきました。


 私のことなど微塵も興味がないような瞳。達観した雰囲気。

 まるで波の立たない水面のような冷静沈着な言動。

 情で訴えかけたところで引き受けてくれる可能性は低いと思いました。いえ、確信に近い部分で承諾してくれないだろうと思っていました。


 けれど美咲のことを諦めきれなかった私は彼の目を見据えます。

 妹に再会できるならこの身など性的だろうが物理的だろうが捧げる覚悟でした。

 結果、私はこの賭けに勝利しました。駆け引きも何もない私のお願いでも何か響くものがあったということでしょう。


 彼の姓は秋葉でした。その名前を聞いて何も思い付かない女子生徒はこの高校では少ないでしょう。彼の兄、秋葉傑さんは超が付くほどの有名人ですから。

 少しくさいかもしれませんが姉妹の絆、という目に見えないものに何かを感じてくださったのでしょうか。今となっては分からないことですが。


 秋葉傑さんの噂はよく聞きますが弟である瑛太さんとはこれが初めての会話となりました。

 結論から言って瑛太さんはすごい人でした。

 状況が状況だけに詳しく聞くことは憚られましたが、なんと彼は事前に一人救出し、どこか拠点を設けた上に遠隔地からオペレートをできる環境を整えていると言います。


 漫画や映画のようなお話ですが、本当のことなんだなと信じるまでに時間はかかりませんでした。どこか遠くから現場を見ているかのように的確かつ迅速に図書館に向かって行けたからです。まだ感染者が見えていない状況で腰のバールを手に持ち、数十秒後に彼の足元に息絶えた感染者が倒れる、ということもありました。


 彼、いえ彼らならこの世界でもきっと生き延びていけるでしょう。彼らの進む道が明るいものであることを願うばかりです。


 私は自分の上履きを脱いだあと、美咲のそれも脱がせます。

 どうやら片足はどこかで脱げてしまっていたようです。

 妹の特徴の丸い字を見て色々と思い出します。これからたくさん書くことになるであろう履歴書には当然綺麗な字の方が受け手としては気持ちがいいはずです。何度も何度も注意したのですが……。


 私は冷たくなった美咲の身体を抱えながら音楽室の窓を開きます。高さはそこそこ。落下地点にはコンクリートでできた花壇があります。

 ……多分苦しまずに妹の後を追うことができるでしょう。

 再会してすぐに妹と手を握ったときの高揚感が戻ってきます。


 二人でどこか遠いところへ。

 今となってはその行き先は一つしかないでしょう。

 きっと美咲も待ってくれているはずです。


 私は何一つ躊躇うことなく音楽室の窓から美咲と一緒に飛び降りました。

 きっと幻覚や錯覚でしょう。美咲が抱きしめながら、声をかけてくれている気がしました。

「もう。お姉ちゃんって本当に私のこと好きだよね。姉妹で百合とか世間体とか考えてよね」


「知らなかった?私って美咲のこと大好きなんだよ?」

 その言葉を最後に私の意識は途絶えました。


 ☆


 俺と霧島先輩は音楽室を出てOA室に向かっていた。

 音楽室から感染者を退けるため、瀬奈には一階下の警報機を鳴らしてもらっていた。

 この音に誘われた奴らは階段を降りて行ったのだろう。大群が嘘のように引いていた。音楽室を出た後は、霧島先輩が薙ぎ払った死体しかいなかったほどだ。


 とはいえ、いよいよ感染も本格的になってきているせいでOA室に戻るだけでも一苦労だった。奴らの数が爆発的に増え始めていたからだ。


 遠回りをする中で廊下を走っているとふと俺は足が止まってしまう。

 窓の外に何かを感じたからだ。

 すぐに確認する。視界に入ってきたのは二人組で心中しているところだった。


 感染が広がってから自ら命を断つ者はいた。すでに十人近くは目にしてきただろう。

 基本的に他人に興味がない俺はそれを目撃してもあまり思うところはなかったのだが、今回ばかりはそうはいかなった。なぜならその二人組の一人はさっきまで一緒にいた人物だったからだ。


 名を秋野サチという。

 彼女の後生のお願いというのは妹を音楽室に連れて来て欲しい。そして二人だけにして欲しいというものだった。頭を上げたときにしていた目は俺に図書室まで連れて行って欲しいとお願いしたときのそれと同じだった。俺の中で断るという選択肢はなかった。


 もちろん真意は頭によぎった。協力者である霧島先輩も勘付いていたことだろう。

 しかし、根掘り葉掘り聞くのは違うと思った。もしも断れば秋野は一人でその危険を犯すだろう。ならばせめて思い残すことなく旅立てるようにだけは完璧にやってあげたかった。


 しかしこうして彼女の結末を見てしまうとどうしても感情が湧いてしまう。

 怒るな。自分の不甲斐なさに落ち込むな。感情を抱くな。生き延びるためにそれらは不要なものだ。


 だが俺はどうしても壁を拳で殴らずにはいられなかった。

 秋野サチと美咲。彼女たち二人がどんな人生を歩んで来たのか知らない。

 けれど姉の言動で硬い絆で結ばれていたことだけは裏付けを取らなくてもわかる。


 きっと言語ではとうてい言い表せない。

「……くそっ」

 そう呟く俺に霧島先輩も歩みを止める。


 すぐに状況を理解したのだろう。霧島先輩はただ短くこう言った。

「君のやったことは正しい。胸を張って前を向け」

 涙を流すことなど何年ぶりだろうか。くそっ、くそっ、くそっ……!


 ずっと感情を殺してきたのに……!

 こんな、こんな嫌な思いをしなくていいように無関心を決めてきたのに――。


「どうやら私の目に狂いはなかったようだ。君は優しい少年だな秋葉」

 俺には一生涯忘れることのできない女が一人いる。

 名前は秋野サチ。俺に感情を抱かせた優しい少女だ。

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