第6話
俺はよく授業をサボる。
その避難先になるが、保健室、屋上、非常用の階段だ。
理想は保健室のベッドで仮眠を取ることなのだが、あそこにはもう一人天才がいる。
彼女のことは嫌いじゃない、というより興味深い人物だ。名前を
端的に表現すれば変人だ。
学校医という職業上、他人の心を読むことに長けており、それは俺に対しても例外じゃない。
さすがの俺も他人に土足で侵入されるのは抵抗がある。
普通と呼ぶにはあまりに異質な環境で育ってきた。
人間誰しも踏み込まれたくないことの一つや二つあるものだが、彼女は容易く俺の硬く閉ざした心の壁をこじ開けてくる。
俺の中で彼女は心理における天才ハッカーだ。
そういった事情により第3避難先である非常用階段でそよ風に撫でられながら青空を眺めていたときだ。
「うぎゃああああああああああっー‼︎」
校門で響き渡る男の悲鳴。あれは体育教師の高橋だろう。
目を凝らせば不審者と揉めている。
どうやら腕を噛み付かれたらしい。他の教師に通報するよう忙しなく指示をしている。
俺は事態を把握するため、すかさずスマホの双眼鏡アプリを起動する。
そこから画面越しに見る光景は地獄だった。
高橋は噛み付いてきた不審者(細身の高齢者。性別は男)を蹴り飛ばす。
そこに蹴られた相手を心配してか、女教師の榎戸が歩みよっていく。
あろうことか彼女は仰向けで倒れた不審者の背中に手を回し、高橋を睨みつけながら騒いでいる。
まあ、ご老人を蹴り飛ばすという行動の是非はある。まして教師という立場もある。
老人というのはたいていが経済を回すために労働という形で貢献してきた人間だ。労わるべき存在だろう。
安否確認のために駆け寄ることは大人の対応とも言える。
――が。
危機管理能力が欠如していると言わざるを得ない。
教師という立場の人間が老人を蹴り飛ばすことは誰がどう考えたって異常である。
そんなことは高橋自身わかっているはずだ。子どもたちの模範として行動することが望まれる職業を何十年とこなしてきたのだ。わかっていないはずがない。
つまり高橋は教師という立場を失うことになろうとも、もしくはそれすらも考えられないような襲われた方をあの不審者にされたということだ。
危険人物の可能性が高いことはこの光景を目にすれば瞬時に判断できる。
双眼鏡アプリで高橋の噛み付かれた腕にズームする。
それを見た俺の心臓は一度だけ跳ねた。
――出血。それも彼が着用している青のジャージを真っ赤に染めるほどの出血だ。
もしかして不審者はピラニアか何かか。そんな冗談が頭によぎった瞬間だった。
俺は一気に現実に引き戻されることになった。
「いぎゃああああああああああああああっー‼︎」
ご老人が女性教師を襲った。性的に、ではなく物理的に。なんと白い首筋に齧り付き、プシャーと滝のような血飛沫が空を舞う。
考える。教師たちのドッキリかサプライズの可能性を。
今は授業中。この光景を目撃できる生徒は窓際の生徒たち。ごく少数の人間だけ。しかも教室からじゃ遠目過ぎる。仮にも教壇に立つことができる知能を持った大人たちだ。
センスが無さすぎる。却下。
次にドラマや映画の撮影という可能性。これは十分にありえそうだ。
双眼鏡アプリで周辺を見渡してみる。カメラマン、音響、スタッフ、演者・役者、ロケバスetc……。
――いない。なぜいない。いくら技術が発達しているとはいえ撮影時に不在にできるものなのか? 否、無理だ。遠隔撮影にしたってその最たるドローンですら飛んでいない環境だ。
却下。これはもう撮影とは呼べないレベルだ。
となると。
脳裏によぎる最後の選択肢。現実離れも現実離れ。あまりにも非日常。
しかしこれ以外に今の俺に考えられるものがなかった。
《バイオハザード》
日本語訳で生物学的危害。
人間を化け物にさせる謎のウイルス。動物界の頂点に君臨する人間はいとも容易く感染者にその座を奪われる。文明は崩壊。廃墟と化す街。
おそらく政府機関は警察や自衛隊にこの危機を収束させようと躍起になるだろう。だが待っているのは壊滅、いや全滅の方がしっくりくるか。国としての機能が停止するのも時間の問題だろう。
俺は再びアプリで悲惨な現実を再確認する。
そこには榎戸を押し倒し、栄養が詰まった内臓を堪能するご老人――否、人ではない何か。
返り血で顔を真っ赤にして、念願の食事にありつけて満足している様子。
決まりだ。地上の猛者が人間から別の生物に切り替わった。まさしく革命の瞬間を目撃してしまった。
さて、こうなってくるとこれからの立ち振る舞いが重要になってくるわけだが――。
俺は無意識のうちに口の端を持ち上げていた。
これから秩序のない世界がやってくる。終末世界。
生存こそが善であり、感染が悪である。
すなわち生き延びるためなら手段を選ぶ必要などない。いや、選んでなどいられない。
気が付けば俺はすでにこの絶望的状況で活路を見出していた。
なにより考えるより早く選民が終わっていた。俺が引き連れて行きたい、背中を預けてもいいと思う人間が三人いた。
瀬奈美月、霧島彩綾、そして村雨静。
そうだな。これから俺は自由だ。何をやっても許される。
だからこそゾンビ程度に怯えながら、ビクビク生活するのはごめんだ。
これまでよりも楽しくて、快適で、刺激的な生活を送ってやる。
皮肉にも感染者の誕生は俺の視界から消えていた色を蘇らせてくれた瞬間だった。
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