3_DRAW THE SEA
ゲームを始める前の私は絵を描いていた。誰も必要としない絵を、いつか必要とされると信じながら。
その悪足掻きのような行為は、一度の屈折を経て2度目の屈折を迎えようとしていた。
これは、その記憶の途中報告。
私は朝起きるとこの街で一番高い建物に上る。一体何の建物なのかは知らないけど、外壁に張り付いたおまけみたいな非常階段を使えば、誰でも屋上に辿り着く。でも、今のところ私以外に、この屋上へ足を運ぶ人を見たことは無い。当たり前だ。
屋上には何のコンテンツも無い。何の目的も無い移動をする人なんて、今のコンテンツ社会には居ない。過程を楽しむコンテンツは当の昔に廃れた。
私は薄暗い中、金属製の踏板を足早に叩く。急がないと間に合わなくなってしまう。
七階分の階段を上りきると、既に顔を出した陽光が眼鏡越しに直撃した。
「眩しっ……」
私は慌てていつもの位置にイーゼルを立てると、そこにキャンバスをセットする。ペットボトルの口を開けて地面に置き、パレットに色を置いた。ここまでは予定通り。
筆を目の前に立ててイメージをする。陽の光に照らされて輝く筆の先には、いつの日からか存在する立方体が見える。黒くて大きくて、遥か沖の更に向こうにあるはずなのに、酷く目立つ。それが、見渡す限り何もない、平原のように凪いだ海に浮かんでいるからなおさらだ。箱の周囲の景色は、箱の性質で歪んでいるように見えて遠近感がおかしくなりそうだが、ここら辺の建物よりもずっと高い。それくらいコロッセオは異常なものだ。異常なものだったのだ。
でも、いつしか私たちはコロッセオを特別なものだとは思わなくなっていた。
なんの前触れもなく海中から浮上したこの箱は、私達人類にゲームという形で
そうして、私達は
勿論、最初は戸惑ったし、葛藤もあった。
しかし、状況が状況なだけあって、私達が悩んだのはコロッセオが海中から現れてたったの2週間くらいだった。
箱は私達の世界の偉い人達を何人かを自分の中に招待し、自己紹介をしたらしい。
それから1週間、上の方でごたごたと無駄な会議を繰り返した。
それから3日間で安全調査を済ませ、残りの4日で貪欲な私達の日常へ食われた。
この辺りの海に粒々と浮かぶ籠は残らず全て、普遍に沈み込んで埋もれてしまった。
それでも、海を描こうとする度に私の目の前に現れて、邪魔をする。
「よしっ」
イメージを固めた私は筆に色をべったりと付けると、キャンバスに押し付けて筆を動かす。しかし、最初の気合はあっという間にどこかに吹き飛んで行って、筆を動かすペースとテンションはどんどん落ちていった。日の出から数分の間、海は朝日を浴びて七色に輝く。この瞬間の海を描きたいから私は筆を取ったのに……。
最終的に使った色は青と黒だけだった。
「はぁー……」
時間切れだ。海はいつもの単調な青色に変わって、空との境界を曖昧にしていった。
私は大きい溜息をつく。やっぱり題材が悪い。私は海を描きたいのだ。海を沢山の色で描きたい。地球が出来た直後の溶岩の海。生命が誕生した頃の塩水で出来た海。
そして、海水が奪われた今の海でさえもだ。
私が今まさに描きたいのは『サンドボックス』が朝日を分光して七色に輝く海だ。それなのに、360度どこを見たってコロッセオが目に入る。嫌なくらい目立つから無視して書こうとしてもキャンバスに入り込んでくる。おかげでバランスが悪くなる。コロッセオの黒色に引っ張られて全体が悪夢みたいな色になるのだ。
「もうっ!」
私は今日もコロッセオに負けた。昨日も、その前もだ。私はコロッセオに負け続けている。でも、一回くらいは勝ちたい。だからズルズルと勝ち目の無い戦いに挑み続けている。これは意地だ。私の。画家としての小さな矜持だ。
「覚えてろよ!」
屋上は誰も立ち入らないのを良いことに、私は画材を屋上の片隅に置いている。何度も往復するたびにこれらを運ぶのは、正直なところ大変だったのだ。
いつもの定位置へ、いそいそと片づけを済ませた私。つまり、
絵の具で汚れたジャージのまま家に帰ると、そのまま玄関に倒れ込む。気分は床を通り越して更に沈んでいくようだった。暫くは動きたくない。長い長い溜息とも呻き声ともいえない音を私は出した。
「ああぁぁぁー……」
「五月蠅いぞー」
「わっ!?」
慌てて跳び起きると、私の部屋を占領している黒い人影がこちらを覗いていた。伸ばせば地面に届くくらい長い髪を後ろでまとめた小さな人影だ。どうして暗いのに、姿かたちがはっきりと分かるのかと言えば、なんてことはない。私は声を聞いた段階で、人影の正体を知ったからだ。それに、この独特なお香みたいな匂いは間違いない。
「なんだ、
「その様子だとまた負けたんだねー、
「……普通に話を続けられても誤魔化せないから。不法侵入によるプライバシーの侵害は重罪ですよ、
鍵なんて渡してない。つまり、違法な手を使ってこの部屋に侵入したんだろう。人よりも頭一つ抜けて行動力があるからピッキングくらいやりかねない。それに、私の住んでいるアパートは建っていることが不思議なくらいボロボロで、そうとうな年季が入っている。ここの鍵なら簡単だ。
「そんな他人行儀になられると傷つくなー。まだ悪い事してないじゃないのさ」
「するつもりだったんでしょ……。というか電気点けてよ」
「照明。壊れてるよー。それに、家の鍵はちゃんとかけないとだめだからね。女の子なんだから余計に気を付けないと。まったく」
「えっ……。あはは」
どうやら、鍵に関しては私の不始末だったらしい。
「これだから禊ちゃんはー、目が離せないんだよねー」
そう言いながら蓮花は近づいてきた。そして、私よりも沢山の色で汚れた小さい手を差し出す。その絵の具塗れの手を暫く眺めてから、もう一度ため息をついて握った。そうして立ち上がると、蓮花は私を見上げるようになる。眠そうにしているが、強い芯を感じる眼差しが眩しい。
彼女は
……何を言っているのか分からないだろうけど、本当だ。私は彼女に絵を教えてもらい、彼女は私のお世話をする。これでwin-winとなっている。
彼女は大の世話好きで、捨て猫を放って置けず、むしろ探しに向かう性分なのだ。きっと剃髪の件が無ければいい住職になっていただろう。
そんなこんなで、彼女のことを思い返すと同時に自分のダメさ加減も思い出してきた。つらい……。
「おーい。なんだか目から光が無くなっていってるよー」
「気にしないで……。いつものことだから」
「そうだ! 久しぶりに食事でもどう? 良い店見つけたんだー」
「……また毒食?」
「そぅ!」
「うーん……。まあ、蓮花が行きたいなら」
「やったー」
蓮花に振り回されて、私のペースなんてどこかに飛んでいてしまうような日々。それでも悪い気はしなかった。
これがコロッセオでゲームを始める前の私の日常だった。
この日から暫くして、鉦吾蓮花はロストした。長い間、無理をして絵を描いていたそうだ。
最後に描いた彼女の絵は一切筆が付けられていない、真っ白な絵だった。
私は彼女の悲鳴に気付くことが出来なかった。
彼女のロストを機に、私は絵を描くことを辞めた。
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