第27話 幸せな家庭を築くために
雫が生まれてから僕達の生活はより幸せなものになった。小さい雫を守るように、僕らは手を取り合った。初めは生まれたばかりの雫に手を焼くことが多かった。事前に母親父親学級に行ったり、本やネットで学んだ通りにはいかなかった。夏実だけに任せるのも大変だと、仕事を一時的に辞めた。元々そのつもりだったので、貯金はしていたし、仕事の引き継ぎも早めに終えた。職場には色々な文句を言われたが、それ以上に僕には守るものがあるからと断った。
実際のところ、雫はそこまで手のかかる子供ではなかった。夜泣きも少なく、ミルクもしっかりと飲み、すくすくと育っていった。また雫はよく笑う子だった。そのおかげか夏実もどんどん明るくなった。子育てが大変でも常に笑顔で、もう昔みたいな表情を浮かべることはなかった。その瞳は本当に輝き満ちていた。もう大丈夫だと、仕事に復帰した。守るものができた僕はより邁進した。家庭を優先しながらも、家族のために働いた。大きくなっていく雫に合わせ、家を建てた。みんなが帰って来る、僕の城を築いたのだ。閑静な住宅街で子育てにも良く、夏実も安心できる家だった。僕の理想の家族がここにある。
新しい家での生活が当たり前になった頃、雫に妹ができた。さらに賑やかになり、幸せな家庭が築けると思った。もっと仕事を頑張らなきゃと思った矢先、その夢は崩れた。
夏実はお腹の子と自分を重ねてしまったのだ。そこからの彼女は可笑しくなってしまった。顔から表情は消え、雫に依存するようになってしまった。急にヒステリックになることや、感情の起伏が激しくなることがあった。突然泣き叫ぶことや、物を投げることが増えた。そして夜になると、ごめんなさい、ごめんなさいと頭を抱えて蹲ってしまった。なんとか夏実を救おうと努力したが、僕の手にも負えなくなった。医者や両親に相談しようと思ったが辞めた。僕の家族だと、僕だけでどうにかしようとした。しかしどうにもできなかった。
正直なところ、僕は産んで欲しかった。両親のように二人の子供を育てたかったから。しかし、いつか雫に手を出すのではないか、そんな恐怖が僕を襲う。それだけはどうにか阻止しなくてはならない。ただお腹の子をこの手で殺したくはない。だから堕ろそうとする彼女の願いに応えることは出来なかった。天からの命を僕らの勝手で消してはいけないと思ったんだ。
ちょうどその頃、妹夫婦が自分たちには子供ができないという話を僕にしてきた。旦那さんの体質なのか、自然妊娠は難しいそうだ。人工的な妊娠を試みるも上手くいかず、何度もできる程費用も安くない。自分達の両親にもそのことを言えないと相談してきたのだ。もうこれしかない。これは神からのお導きかもしれないと思った。
そこで僕は妹夫婦に夏実のことを話した。お腹の中の子を育ててくれないかと。最初こそ断られた。しかし彼女達も子供が欲しいが故か、それとも僕の真剣さに気付いたからなのか、了承した。お兄さん達さえいいならと涙ながらに言ってきた。実際のところ戸籍やなんかは金でどうにかできる。金があれば案外簡単にそういうことができるのだ。弁護士会の知り合いを通じて、そういうことに詳しい人を紹介してもらった。医者にも協力してもらい、お腹の子は妹の実の子として育てることにした。このことは今後一切口にしない、僕らと妹夫婦が会うことはもう二度とない。それだけを約束した。そうして僕達は禁忌を犯したのだ。その方がみんな幸せになれる。そう信じて託した。
それなのにその幸せはすぐに崩れ落ちた。妹夫婦は離婚し、子供は妹が育てることになったと両親から聞いた。心配はしていたが、大丈夫だと思った。僕らが関わることは二度とない。そう安心していたはずなのに妹は働き過ぎたのか、倒れてしまった。そしてあろうことか、その命を落とした。娘を残したまま。子供は両親が預かることになった。しかしその直前になって、それが難しくなった。父が心臓の疾患で入院しなくてはならなかった。それに伴い、母も病院に行って看病をすることになった。それでも両親は娘を預かると言ってくれた。しかし明らかに負担が大きすぎると止めざるを得なかった。僕は両親にも辛い思いはさせたくない。夏実を説得して、僕も協力すれば大丈夫だろう。そうやって僕達で預かることになった。僕は安易に考え過ぎたのかもしれない。それは夏実を狂わせた。
最初こそ嫌がっていたものの、夏実は僕の願いを受け入れてくれた。もう大丈夫だと真波と名付けられた娘を引き取った。ところが真波が家に来て少し経った頃、夏実が叫び出した。とにかく雫の目に触れないよう僕らの部屋に連れて行った。そこで人が変わったかのように暴れ出した。それは僕が以前見たものよりも酷かった。今度こそ本当に止めることはできない。僕達にはどうしようもなかった。夏実はどういうわけか急に物置を用意した。そしてあの子を物置に閉じ込めてしまったのだ。
最初はそれを止めたが、もうそうするしかなかった。夏実が落ち着くまでの間だけここにいてもらおう。そうすれば雫にも影響はないだろう。何がなんだかわからない真波には、少しの間だけここで生活して欲しい。妻がまだ状況を整理出来ていないから、それが終わるまでここにいてくれとお願いした。こんな馬鹿げたお願いを聞くわけないと思った。しかし真波はすんなりと受け入れた。あろうことか、自分を預かってくれてありがとうとお礼まで言ったのだ。
そこから僕は夏実のいない所であの子に食べ物や洋服を与えた。夏実は三人分しか作らないから、その余やコンビニで買ったパンを渡すようにした。本当に申し訳ない、落ち着いたら君を助けるからそれまで待っていてくれ。食べ物を与える度にそう伝えた。あまりにも申し訳なさそうに言ったからなのか、真波はここを自分の部屋だと思って使うと言ってきた。きっと気を遣って言ったのだろう。それでもこの言葉は僕を救ってくれた。僕のやっていることを正当化させてしまった。もうこれでいいのだと一瞬だけ思ってしまった。
夏実の中であの子はいないものになってしまった。機嫌の良い日に合わせて真波の話をすると夏実はすぐに発狂した。もう無理だ。夏実にこれは受け入れられないことなのだ。そしてこの話をすればするほど、夏実どんどん雫に依存するようになった。だからもう少し、もう少しだけ様子を見てみよう。真波もまだ耐えてくれる。そうすればきっといつか家族四人で幸せに暮らせる日が来ると信じた。
この生活に慣れた頃、仕事が忙しくなって家に帰ることが少なくなった。仕事のことを考える間はあの子のことを考えなくていい気がした。あの子は物置を自分の部屋と言った。それならいいじゃないか。そう思うと心が楽になって、仕事も上手くいくようになった。僕の助けを待っている人はこの世に沢山いる。もっと困っている人がいるなら、その人達を助けないと。僕にはまだやることが沢山ある。
勿論、家族のことは忘れていない。僕達三人は世界で一番幸せな家庭なのだから。
ある日、雫が事故にあったという連絡が職場に来た。急いで病院に向かうと、ベッドで寝たきりの雫と隣で泣き崩れる夏実がいた。命に別状はないが意識が戻らない。僕の幸せな家庭は終わってしまった。ずっと側にいたいがそう上手くはいかない。それでも出来るだけ二人の側にいた。僕は父親だから、家族を支えなくてはいけないのだ。夏実は病室を肩時も離れなかった。そのせいで顔色はどんどん悪くなり、医者にも止められた。僕が代わりにいると言っても聞かなかった。体調が悪く、立つこともままならなくなっても、僕らの声は聞かずに雫の側に居続けた。
とても心配だが、仕事に戻らなくてはならない。そう長く仕事を休むことはできなかった。二人のことを医者と看護師に何度もお願いし、仕事に戻った。不安が募り、仕事もあまり手につかない日が続いた。
しかし思ったより早く、雫は意識を取り戻した。記憶を失ってはいるが、もう大丈夫だ。僕はできる限り病院に通った。しかしいつも雫が目を覚ますタイミングには居合わせなかった。検査の時や面会時間に間に合わず、雫に会うことができなかった。
だから雫が退院した日が初めて生きている雫を見た日だった。夏実とアルバムを見る姿に感動した。また三人で食卓を囲めることが嬉しかった。記憶がない雫はやはりどこか違っていた。僕はそこまで気にしていなかったが、夏実が僕に訴えてきた。またもや夏実が不安定になってしまう。大丈夫、気にしすぎだよ、そう声を掛けるしかなかった。雫よ、早く記憶を戻しておくれ、そう願った。
三人で朝の食卓を囲んだ時、雫は無意識にチョコとピーナッツクリームを塗った。行儀が悪いと何度も夏実に叱られた、見覚えのあるこのやり方。やはり雫は雫じゃないか。目の前の夏実は涙ぐんでいた。これで夏実も安心できるはずだ。
もう大丈夫だ。僕達はまた幸せになれる。三人で手を取り合って進んで行くことができるのだ。そう思っていた。
それなのにこの状態はなんだ。どうしてあの子の目はこんなにも冷たく僕らを見つめるのか。僕が苦労して手に入れた幸せのピースは崩れてしまった。パズルが音を立てて崩れていく。
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