第28話 偽りの幸せ
太陽は高くのぼり、日差しが部屋に伸びてきた。外は活気立ち、子供の声が聞こえる。人々がみな一方向に歩き出し、空では鳥が飛び交う。そんな賑やかな生活の中でこの部屋だけは静かに時が進み、空気が停滞する。そしてここだけ影が落ちているようだ。
二人は真波についての経緯を話した。僕の知らないそれぞれの過去についても知った。思えば親戚付き合いがあまりない家だった。このレベルの家なら、定期的に親族の集まりがあってもおかしくないはずだ。父方の両親には会ったことがあるが、母の方はなかった。辞書にあるいとこやはとこの存在は珍しいものだと思っていた。僕は今まで不思議に思ったことがなかったのだ。そんなことはどうでもいいと、興味すらなかった。
彼らの話を聞いていくと途中何度もイラついて、殴りかかろうと思った。彼らの話は経験なんてちゃんとしたものではない。ただ自分のしてきたことを正当化する言い訳だった。それを知ってか知らずか、彼らは話続ける。自分は悪くない、仕方なかったのだとでも言うように。しかし二人の言っていることを全て否定しようとは思わなかった。違う、思えなかったのだ。
目を合わせることなく、ただ黙々と話をする二人の手は震え、その目には涙が浮かんでいた。この人達はこの人達なりに一生懸命だったのかもしれない。それぞれが自分の理想のために必死に生き抜いていたのだ。
僕らの幸せは偽物だったのか。目の前で涙を流す母。その隣でこの世の終わりのように落胆する父。僕らはもう壊れてしまった。修復もできないほどに。いや、初めから壊れていたのかもしれない。
僕は両親机の上にあるカバンを開ける。そして淡々とあの本と写真を二人の前に広げた。
「これが真波の唯一の夢です」二人は恐る恐る顔を上げて見る。まるで理解できていないようだが、どうにか僕の意図を読み取ろうとしているみたいだった。
「これは?」写真を手に取り、父が訪ねた。
「真波は星が大好きだったんだ。そしていつかこの星空を観たい。それが私の夢だって僕に教えてくれた」物置の前でそう語る彼女の顔を思い出す。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
母が泣きながら呟く。本が涙で滲む。それでも何度も何度も謝り続けた。父はその背中を摩りながら黙り込む。
「もう一度やり直そう」
父はそう言って立ち上がる。そして庭に向かって歩き出した。僕と母はそれを目で追う。窓を開けて庭に降り立つ。そして物置の扉を開けた。しかし中は物の抜け殻だ。父は驚き、その場で停止する。そしてすぐにこちらを振り返る。母はこちらを見る父を不審に思い、物置に向かった。母もそれを見て驚いていた。
「真波はそこにはもういないよ」僕は小さく呟いた。二人は驚いて何も言えないようだった。互いに顔を合わせる。何も言っていないの、息を合わせて僕の目の前に戻ってくる。
「どういうこと……」母は言った。僕の腕を強く掴んで。
「真波はもういないんだ。そこに。もうこの世界にいない。だって僕が殺してしまったんだから」
両手にはまたあの感触が思い出された。真波の細い首に回ったこの手を。最後の力を振り絞るかのようにぴくぴくと打つ脈を。全てを奪い去ってしまったこの手を見つめる。
「どういうこと。どういうことなのよ雫」母が今日初めて大きな声を出した。
「嘘よね、嘘だと言ってちょうだい」涙を浮かべながら僕の腕にすがる。
「本当だよ。真波に頼まれたんだ。もう終わらせてほしいって。それが願いだって言われて僕は断れなかった。それが僕の贖罪であり、使命なんだって思った」
目の前で泣き崩れる母、頭を抱え、膝をつく父。僕の目の前に広がる光景。二人のそれは何に対するものなのか。真波を殺した僕に対してか、それとも僕が殺した真波に対してなのか。そんなことはもうどうでもいい。思わず笑ってしまった。乾いた笑いが部屋に響く。だって面白いだろう。僕らが一生懸命守り続けてきた幸せな家庭はいとも簡単に、あっさりと崩れてしまった。僕らはこんなにも弱かったのか。気づけば日は真上を通り過ぎていった。
僕らは誰もその場から動かなかった。何度目かの時計の金が鳴る。誰かのお腹の音が聞こえた。時計を見ればお昼の時間はとっくに過ぎていた。
何を思い立ったか急に立ち上がる母。あまりにも突然で驚く僕らは顔を上げた。母は僕らに見向きもせずおぼつかない足取りでキッチンへと向かった。おもむろに冷蔵庫を開け、何かを取り出す。引き出しから包丁を出し、トントントンと音を立てた。僕らはその後ろ姿をただ見つめるだけだった。
しばらくして美味しそうな匂いが鼻をかすめる。トンッとダイニングの机に並べられるお皿。三人分のお皿が置かれた。僕と父さんは顔を見合わせた。そして何を言うでもなく、席につく。目の前に置かれたオムライス。黄色い薄焼き玉子の上にかけられた、赤いケチャップ。
「いただきます」
誰かの号令でスプーンを手に取る。玉子を割って入れば、オレンジに色付けされたご飯が顔を出す。玉ねぎとピーマン、ソーセージの入ったそれを口に運ぶ。一口頬張ればケチャップの酸味を玉子の甘味が包み込む。さっきまでの重い雰囲気を忘れるかのように進むスプーン。顔を上げれば二人もただ黙々と手を進めた。無言のまま三人で囲む食卓。
オムライスを食べ終え、お皿を流しに置く。僕はまたソファへと戻った。父もお皿を置き、ソファではなく、ダイニングに戻った。少しして食べ終えた母が席を立つ。流しに置かれた食器を洗い始めた。水の流れる音だけが部屋に響き渡る。
母は洗い終えるとお皿を布巾で拭いて戸棚に閉まった。そして父と同じくダイニングに戻る。
「真波はどこにいるんだい?」唐突に父が口を開いた。
「どうしてそんなことを聞くの。父さん達は真波なんかいらないって思ってたんだろ。だからこんなことをしたんだろ」
物置を指差しながら冷たく放つ。さっき食べたオムライスが僕の全身に伝わる。パワーを与えるかのように熱が身体に行き渡る。なぜそんなことを聞くのか。今さらどうにもならないのだ。それとも自分がすっきりするための、ただの偽善のつもりなのか。
「それでも会いたいんだ。そして彼女に謝りたい。だからどこにいるのか教えてくれ」
「どうして急に?そんなのただの偽善じゃないか」
「そう思われてもいい。それでも謝りたい。許して貰おうなんて、そんなおこがましいことは思わない。ただ謝らせてくれ。真波に会いたいんだ」
立ち上がり、僕の目の前に来た。それでも僕が黙っていると、膝を折った。手を前に出し、頭を下げる。あの父が僕に頭を下げた。
「どうか教えてくれ。別に雫を責めようとも思ってない。責める資格すらもない。会わせてくれ、僕の娘に……」
プライドの高い父がこんなにもみっともない姿を見せるのか。とても弱々しい。そんな姿は見たくなかった。
「じゃあみんなで会いに行く?真波はここにいるよ」
目の前にある写真をコンコンと指で叩く。父は顔を上げた。ダイニングにいる母の方を振り返る。母は何をするでもなく、こちら側ただ見ている。
「ああ、そうしよう」
父は立ち上がり、母の元へ近づく。母の目は父を捉えていない。どこを見ているのかもわからない。何もない空間を見つめているだけだ。そんな座ったままの母の肩を支えながら立ち上がらせる。二人は寝室に向かう。しばらく待てば着替え終わった二人が降りてきた。白いフリルのワンピースを着た母。まるで人形のように佇んでいる。それを横で支える父は黒いTシャツに細身のジーンズを履いていた。普段のスーツ姿からは想像できないラフな姿だった。僕と目が合うと。母を支えたまま玄関に向かう。下駄箱から二人分の靴を取り出す。自分のスニーカーを履き、母の前には黒いヒールを出し、履かせる。抵抗することもなく流れに身を委ねていた。下駄箱の上にあるケース。白い四角い箱のガラスの蓋を開ける。いつだか僕があげた、青い服を着たクマのキーホルダーがついた鍵を取り出す。
その姿をただ見つめながら追いかける。二人の後ろ姿はちょっとの衝撃を与えたら、今にも壊れてしまいそうだ。僅かな気力だけでその形を保っているように見える。僕はリビングに戻った。机に広げらたままの本と写真を仕舞おうと手を伸ばした。本を手にした時、バサッと音を立てて落としてしまった。その拍子に表紙が外れ中身が落ちた。表紙だけが残る。あっ。中身を拾い、元に戻そうと手に取る。一瞬それに気を取られた。玄関から扉を開ける音が聞こえ、急いでカバンにしまう。カバンを肩に掛けて玄関に向かおうと部屋を出ようとした時、何かに肩を掴まれた。キッチンが目に入る。さっきまで母がいたそこに寄る。そしてスマホを開いた。そのまま彼らの元へ急ぐ。
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