第25話 幸せになるために
東京の会社で秘書として働いた。WEB広告などを扱う会社だったが、そこの社長が私の生い立ちを知って色々と面倒を見てくれた。
面接の時に家族について聞かれた。未成年だから親の承諾が欲しいと言われた。初めは適当に誤魔化そうとしたが、何故か嘘はつけなかった。この人になら少し信じられるかもしれないと思った。私に関することを全て正直に話した。話を聞くとすぐに住む家の手配や給料が入るまでの生活費も用意してくれた。おかげで卒業後はすぐに東京で生活ができた。また人と接するのが怖い私に少しずつ人と向き合えるよう助けてくれた。
そこで初めて人の優しさに触れた。しかしその優しさに慣れていない私は社長を完全には信じることが出来なかった。好意に甘えてはいても、心を開くことはなかった。社長はそれに気付いていたが、何も言うことなく、私に優しくしてくれた。その社長が紹介してくれたのが和彦さんだ。
取引先との交流会に付き添った時に紹介された。和彦さんは私より4歳年上で弁護士をしていた。当時DV被害者を救済する団体で手伝いをしていたそうだ。自身の勉強のためにも私の話を聞きたいと言ってきた。社長の勧めもあって、彼と関わるようになった。初めこそ警戒していたが、私の話を親身に聞いてくれた。カウンセラーを紹介してくれたり、色々なアドバイスをしてくれた。また言葉遣いや距離感など私の生い立ちを知ってか、適度な距離を保ってくれていた。
私が彼に心を開くのに、そう時間は掛からなかった。私は仕事を辞め、彼と人生を共にすることを誓った。幸せな家庭を築こうと言ってくれたのだ。社長に報告すると自分のことのように喜び祝福してくれた。盛大な挙式を行うことはなかったが、社長が小さな教会を貸し切ってくれて、ささやかなパーティーをした。二人で毎日楽しく暮らしていた。そして私には雫という可愛い可愛い天使を授かった。私の世界は段々と色づき始めた。
雫はとても甘えん坊で優しい子だった。私の目を真っ直ぐに澄んだ瞳で見つめてくれる。彼は私がいないと生きていけない。彼は私の人生に使命を、生きる意味を与えてくれた。頭も良く、利口な子だった。勉強もスポーツも音楽も教えれば何でも吸収する子だった。この子をしっかりと育てることが私の使命だと思った。雫を幸せにしてやりたい。私のみたいな惨めな生活を送らなくていいようにしなくてはならない。雫の幸せは私の幸せ。私の幸せは雫の幸せ。そう信じ続けていた。それが私の人生を狂わせたのかもしれない。
人より何でもこなしてしまう雫に期待し過ぎてしまった。必要以上に色々なことをさせてしまった。もしかするとそうすることで私を見捨てた母を、蔑ろにした父と兄を見返そうとしたのかもしれない。それでも雫は文句も言わずにやり遂げ、期待に応えてくれた。そんな矢先にあの子が生まれてしまった。嬉しさと共に恐怖に包まれた。この子が生まれたら私の家族は壊れてしまう。昔の私みたいに家庭を壊してしまう。そんな恐怖が私を襲ってきた。私はこの子を堕ろそうとした。しかし雫を見るとこの子を自分の手で殺めたくはなかった。そこで和彦さんに相談した。私のことに理解がある彼は色々な方法を考えてくれた。何度も何度も話し合い、子供が出来ず困っていた彼の妹夫婦に子供を渡すことにした。
幼い雫には私のお腹が大きかったことなどすぐに忘れてしまうだろう。あと半年程、我慢すればいい。適当な嘘でやり過ごしてきた。子供を産んですぐ、彼女らに預けたかった。顔を見たら情が湧いてしまいそうだったから。しかしそう上手くはいかない。退院までは私の母乳で育てた。この手に抱かれるために顔が綻んでしまう。それでも雫の顔を思い浮かべて、留めた。いまある温もりではなく、雫の温もりを想像した。そして退院と同時に彼女達に預けた。もう二度と会うことはない、私の娘。
そこからは雫にだけ愛情を注いで過ごしていた。しかしそんな幸せもそう長くは続かなかった。風の噂で妹夫婦が離婚したことは聞いていた。子供は母親の方が引き取り、一人で育てると聞いた。あの日以降一切関わらないようにしていた私に、詳しいことは知らされなかった。だから何も気にすることもなかった。可哀想に、そう同情しながら、雫を抱きしめた。私達だけは幸せに暮らしましょうと願いながら。
そんな想いと裏腹に、あの子がまたここに戻ってくるとは誰が想像できただろう。真波と育てられたその子は私にすごく似ていた。私に似たその瞳、忘れ去ってやりたいあの人に似た口元。それらを合わせる姿はそこはかとなく雫に似ている。ずっとしまい続けてきた暗い思い出が今、解き放たれようとしているようだ。身体中に痣をつくり、膝を抱えて縮こまる姿が脳裏をかすめる。身体を殴る鈍い音、窓ガラスが割れる嫌な音、夏の暑さと交わるゴミ溜め場の匂いが蘇ってきた。今すぐにでも握り潰してやりたい。この子が脅威にしか思えなかった。私の築き上げた幸せが崩れる気がした。
だから私はあの子を庭の物置に押し込めた。そうしないと私が崩れ落ちる気がして仕方なかった。最初は一緒に食事をして、共に生活するつもりでいた。今度はちゃんと四人で暮らそうと思った。けれど、あの子を見ていると私はどんどんまともではいられなくなった。雫の目に触れさせないよう閉じ込めないと。そう思えて仕方なかった。こうするしか方法が無かったのだ。
丁度仕事が忙しかった和彦さんはそれを黙認した。誰も私を止めることはなかった。この脅威に蓋をして、頑丈な鍵を掛けた。これで大丈夫。私の幸せは元通りだ。
和彦さんが私のいない所で彼女にご飯を渡すなどの世話をしていたのは気付いていた。しかしそれについて問い正すこともなかった。私達の目に触れることがないなら何でもいい。この幸せさえ守ってくれれば。だから互いに黙認していた。彼にしてみれば、優秀な跡取りである雫がいるなら何でもよかったのかもしれない。
そうして偽りの幸せが形成された。雫も彼女の存在を知ってはいたが、さほど気にしていなかった。自分のやることで精一杯だったのかもしれない。それとも私達がそれを望まないことを悟っていたのかもしれない。それでもいい。雫は本当に優秀な子だ。雫さえいてくれれば。
雫はその後も私達の期待に応えて続けてくれた。和彦さんの母校でもある私立白鷺高校の特進科に首席で入った。部活でもテストでも常に上位を獲り続け、私の人生は明るかった。同級生の親や先生からも雫くんはできがいい、雫くんが羨ましい、そう言って貰えた。私の雫は素晴らしい。雫が褒められると私も認められたような心地だった。私はようやく幸せになれた。誰もが羨む幸せな家庭を築き上げた。あの子がいない限りずっとそれは続くと確信した。もう何も恐れることはない。
それなのに、あの日病院から電話が来た。雫が事故にあったと聞き、血の気が引いた。急いで病院に向かった。目の前に現れたのは包帯を巻き、ベッドに寝たきりの雫だった。私の人生は真っ暗になった。もう私の幸せは崩れてしまったのだ。医者の制止も聞かず、ずっと側にいた。目が覚めた時、すぐに私が居なければ。雫の手をずっと握り締めていた。
何日も病院にいた。和彦さんも出来るだけ居てくれた。自分がいるからと私に休むように言ったが、聞くことなく居座った。そしてあの日、雫は目を覚ました。
幸いなことに命に別状はないものの、目が覚めた雫は自分のことすら覚えていなかった。それでも私の宝物が生きていたことを神に感謝した。記憶は戻らなくても、雫は私の子であることに変わりはない。また三人でゆっくり歩めればいい、そう思っていた。
退院した雫はどこか他人行儀だった。それでも沢山のことを話した。早く記憶が戻るようにと。一緒に食卓を囲んむ時は雫の好きだった料理を作った。アルバムも見返した。なかなか上手くはいかなかった。しかし些細な仕草が変わらなかった。何度言ってもやめない、チョコとピーナッツクリーム。やっぱり雫なのだ。もう大丈夫、私達はまた幸せになれると思った。
だけど、これは何だ。雫の目に光は無かった。私のことを冷たく見つめる。わたしの可愛い天使は地に落ちてしまったのかもしれない。雫は本当に全てを思い出してしまったのか。目の前にいるのは本当にあの雫なのか。
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