第24話 やるべきこと

 地面に転がる写真集を拾ってカバンに入れる。病院を出て家に急ぐ。辺りは明るくなり始めた。ジャージ姿で走るおじさんとすれ違う。もうすぐ夜は明ける。 

 ガレージに自転車を止め、玄関を静かに開けて入る。音を立てないようにそうっと。靴を脱ぎ、足を踏み入れるとパチッ、電気が付いた。

「どこに行っていたの?」薄い青の布が揺れた。

ワンピースのネグリジェを着た母が目の前にいる。その母の肩に手を置き、支えるように立つ父。彼も同じ素材のパジャマを着ていた。二人が僕を見下ろす。沈黙が僕らを包んだ。

 僕を問いただすような視線に怯んだが、それを僕が破る。

「父さん、母さん」顔を上げ、目を合わせる。二人は驚いたように目を見開き、互いを見合わせる。僕とお互いを交互に何度も見る。

「雫、あなたまさか……」手を口元に持っていき、その声は震えている。

父はそんな母の肩をより強く掴み、自分の方に寄せた。二人をすり抜けて進む。リビングにある一人用のソファに浅く腰掛けた。黒い革がひんやりと僕の体温を奪う。カバンを目の前ローテーブルに置く。


 二人が僕の後を追ってきた。ソファに座る僕を見て立ち止まる。僕が黙っているとこちらに近づいてきた。このソファは父の席なのだろう。二人は顔を見合わせ、広い方のソファに座った。

「雫、あなた記憶が戻ったの?」頷いて答えた。母は涙を流して顔を覆う。父が席を立ち、キッチンの方からティッシュの箱を持ってきた。母はそれを受け取り、涙を拭く。

「記憶が戻って本当によかった」泣いて何も言えない母の代わりに父が答えた。

「残念なことに全部戻ったよ」僕は皮肉を込めてそう放った。父の顔が一瞬歪んだ。

「残念なことに?」母は何のことだかわからないとでも言うように首を傾げた。

「思い出したんだよ全部。僕のことも、そしてあのことも」窓の向こうを指差す。ガタッと父が立ち上がり、僕の手を思いっ切り振り落とす。

「な、何を言っているんだ。あれはただの物置だ。まだ記憶が曖昧なんじゃないのか」強く言い放つ。母はさらに嗚咽を漏らし、父の服の裾を掴む。父の肩は上下する。

「雫、まさかあなた……」

「ああ。全部思い出したよ。この偽りの家族を」

「本当に全部思い出してしまったのね」母は顔を上げてこちらを見つめる。僕らは見つめ合う。父も冷静になったのかソファに座り込む。頭を抱えて項垂れる。それとは反対に母の目から涙が消える。なにかを決心したように僕を捉える。先に話し始めたのは母だった。


 「別にあの子が嫌いだったわけでも、憎いわけでもないの。ただあなたを守りたかっただけなのよ」


ー夏実sideー

 雫は私のかけがえのない宝物だった。


 元々田舎で生まれ育った私は就職を機に東京にやって来た。友達も知り合いもいない私は毎日職場と家の往復だけの生活をしていた。そんな私に唯一優しくしてくれたのが今の旦那である和彦さんだった。


 私の家庭はお世辞にも幸せとは言えないものだった。狭い路地にある、六畳の小さいなアパートに家族四人で住んでいた。周りには風俗やヤクザの事務所があった。この道だけは何があっても通ってはいけない。そう学校で教えられた通りに私の家はあった。常に誰かの怒号や鳴き声、窓ガラスの割れる音が聞こえる所だった。

 酒癖の悪い父は仕事にも行かず、毎日浴びるように酒を呑んでは暴力を振るう人だった。ギャンブルが好きで母から金を取り上げては、朝からパチンコに行っていた。そんな父が暴力を払うのは私と母にだけで、三つ上の兄のことは可愛いがっていた。暴力を与えないどころか、兄にだけお小遣いをあげ、新しい洋服やおもちゃを買い与えていた。お前は俺に似て優秀だ、そうやって笑顔でいつも頭を撫でていた。

 母はそれに耐えながら毎日夜遅くまで働いていた。しかし私が中学生に上がる頃、突然家を出て行ってしまった。ある朝学校に行く時にごめんね、って私を抱きしめた。そしてそこから母は帰って来なかった。涙を浮かべて謝る姿が私が最後に見た母だった。


 そこから父はより一層暴れるようになった。母に与えていた暴力の分も私に与えられた。何度も殺されると思ったし、死のうとも思った。それでも死にたくないとあと一歩が踏み出せなかった。だから生きるために耐え続けていた。それを知っているのに兄は私に見向きもせず、楽しそうに暮していた。

 何度も助けてと手を伸ばした。そうすると父がいない私だけの前で、いつか助けるからと言ってくれた。私は疑うことなく、その言葉を信じていた。いつ助けてくれるのだろう、そうなったら何をしようと考えながら耐え抜いた。しかしすぐにそれが嘘だと悟った。

 今思えば周りの大人に助けを求めれば良かったのかもしれない。先生でも警察でも、その辺に歩いている人でもよかった。でもあの閉ざされた空間が全てだった私に、そんな勇気はなかった。自分の周りに信じられる人がいないのに、赤の他人を信じられるほど私の心は綺麗じゃない。生きるためには耐えるしかないのだ。


 唯一の救いは学校に行けることだった。見栄っ張りの父は世間体を気にしていたのか、学校にだけは何があっても必ず行かせてくれた。受験をして高校まで行かせて貰えたのだ。少し遠くても給食が出る高校に進学した。おかげで家で食べれなくても給食で腹を満たせた。またどんなに暴力を振るっても、制服から見える所に傷は付けないでくれた。最低限の文房具も与えられていた。だから学校では普通を装って過ごした。目立つことなく地味に生活して、なんとかやり過ごしていた。そして私は必死に勉強した。友達なんかも作らず毎日毎日勉強した。高校を卒業するのと同時に東京にやって来た。あの牢獄から逃げ出すように。

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