第11章 帰る場所
「親子ですか?」運転手が話しかけてきた。
「そうなのよ。息子がずっと入院していてね。今日がやっと退院なのよ」
「それは良かったですね。息子さんが帰ってきて嬉しいでしょ」
「ええ。とても嬉しいわ。雫は私の自慢の子なのよ。事故に遭ったって聞いた時は、本当に心臓が止まると思ったわ」
「事故に遭ったのか。それは可哀想に。でも無事でよかったですね。坊ちゃんも、もうお母さんに心配掛けちゃ駄目だよ」
「はい……」その後も二人は会話を続けていた。運転手には孫が生まれて、それが可愛くて仕方ない。そんな話がされていた。
タクシーはうるさい大通りを抜け、閑静な住宅街に入る。さっきとはまるで世界が異なるようだ。どっしりと構えた門があちらこちらにあり、その先には大きな家が見える。
その通りをさらに奥に行く。ラジオではニュースが流れていた。自分の子供を育児放棄、ネグレクトして捕まった若い両親のニュース。実の子にどうしてそんなことをするのか。自分の孫の話でここまで盛り上がるこの人達はそんなことしないんだろうな。やっぱり世界が違うのか。そんなことを心で思った。
タクシーはさらに進む。なだらかな坂の先には、先程より二倍ほど大きな家がまばらに並ぶ。
その中でも一際大きな白い二階建ての家の前でタクシーは止まった。お金を払い、お礼を言う。母が先に降りて進む。その後ろに続いた。そしてその家の門を開けた。門を開けると綺麗に手入れされた庭が広がる。中には家の前まで続くレンガの道があった。途中には鳥の水飲み場や物置が置いてある。レンガの道に掛かる薔薇のアーチを三つほど潜り、玄関に辿り着く。重い扉が開けられる。
母が扉を開けて待ってくれているので、僕は控えめに扉をくぐり、靴を脱いだ。靴箱の先にスリッパを四足ほど入れるケースがあった。母は靴を揃える僕を抜いて、先に家に上る。ケースのニ番目の所からベージュ色のスリッパを出し、履いた。そして三番目から青いスリッパを目の前に出す。僕用のスリッパなのか。それに足を通す。
「雫、おかえりなさい」母は涙を浮かべながら振り返り、両手を広げる。その中にすっぽりと収まる。母の温もりが僕に伝わってくる。
「ただいま」僕を抱き締めるその身に応えるように、僕の体温を渡す。しばらくの間そのまま過ごした。二人の纏う空気は混ざり合い、一体となる。
その後、母は部屋の案内をしてくれた。長い廊下にはいくつか扉がある。トイレやお風呂場、書斎などだった。そしてその先に広いリビングがあった。
全面に広がる窓が明かりを届ける。窓の前には大きな革張りのソファがあった。その近くには暖炉があり、上に写真立てが並んでいる。幸せそうな家族が写っている。壁には花束の絵が描かれた絵が飾られている。物が多いがそれぞれの主張は激しくなく、綺麗に整頓されていた。
そして階段を上がり、二階を案内された。そこにもいくつかの扉があり、廊下の一番奥の木目調の扉の前に来た。ローマ字でSHIZUKUと書かれた水色のボードがぶら下がる、僕の部屋であろう場所に導かれた。母は気を使ったのか、肩にポンと手を置いて、階段を降りていく。
大きく息を吐き、扉に手を掛ける。僕の世界はどんなところだろうか。期待と不安を胸に扉を押す。
部屋の中にはベッドと勉強机、そして様々な参考書が並ぶ本棚があった。カバンを肩から下ろす。そして机に置き、本が所狭しと並ぶそれに近づく。小説や英語で描かれた本、図鑑のような分厚い本、医学書みたいな本までも並んでいた。パッと見ただけでわかる、年齢にそぐわない難しそうな本ばかりだ。振り返りベッドの方を見ると、真っ白な壁があった。画鋲を挿したような小さな穴が四箇所に広がる。まるでポスターか何かが貼られていたような大きさだった。
僕はベッドに寝転ぶ。僕の部屋なのに、どこか落ち着かない。まるで他人の家にいるようだ。天井を見上げた時、はっと僕は立ち上がる。
カバンから今日貰った本を取り出した。この部屋からは星が見えるだろうか。そんな期待を胸にまた本を開く。その時ヒラッと紙が床に落ちた。二つ折りにされたそれを拾い上げ、広げてみる。写真集のような星空が広がった。所々折れていたり、汚れているがちゃんとしたポスターだった。ポスターにしては少し小さいこのサイズはどこかで見たことがある。振り返るとあの穴が目に入る。これだ。ベッドに乗りそこに合わせる。ぴったりと合った。ここに貼ってあったのだ。机の上を探す。引き出しを何段か開けた時、見つけた。透明のケースから画鋲を四つ取り出した。そして穴に合わしてポスターを貼る。僕は満足げにそれを見つめる。
「雫、降りてきて」
下から母が僕を呼んだ。下に降りてリビングに行くが母の姿は見えない。振り返りダイニングを見ると母がキッチンの前にいた。いい匂いがする。ぐぅっとお腹が鳴った。そういえばもうそんな時間か、どうりでお腹が空くのか。真ん中に花が一輪飾られた机の上に食事が二人分用意されていた。これはどうすればいいのか。僕がどちらに座るか迷っていると、それを察するかのように
「これが雫の分ね」と手前の席にお皿を置いた。僕はその席に座る。目の前にはトマトソースのパスタとサラダ、それにスープが並べられていた。匂いの正体はこれだったのか。母も自分の分を持って席に着き、向かい合う。
「いただきます」両手を合わせる。スープを一口飲むと優しい味がした。今度はパスタを口に入れる。トマトの酸味と野菜の甘味が口いっぱいに広がる。
「美味しい?」
「はい。とても美味しいです」
「それならよかった。これは雫が大好きだったパスタなのよ。いつもこれを食べると喜んでね」母はとても嬉しそうに話す。その姿をみると未だに何も思い出せないことが心苦しい。その後も母の得意料理や僕の好きなご飯の話をしながら、食べ進める。
あっという間に全て平らげてしまった。お腹が十分に満たされたので、食器をまとめる。母の後に続き、お皿を流しに置く。
「そうだ、どうせなら雫のアルバムでも見ない?何か思い出すかもしれないわ」両手を叩き、閃いたとでもいうように話し出す。僕の返事を待たずに母はリビングに掛けていく。
ソファに腰掛け、母を待つ。両手いっぱいにアルバムを持ち、笑顔でこちらに来た。僕の横に座りアルバムを一つ膝に広げた。生まれたばかりの子どもがページいっぱいに写る。
泣いているものやカメラをじっと見つめるもの、大きく口を開き笑う写真もあった。似たよう写真が沢山並ぶ。
「雫は本当に甘えん坊でね。私が抱っこしないとすぐ泣いていたのよ」
そう言い、一枚の写真を指差す。若い男の人に抱かれながら泣いている子どもを笑って見る、今よりも若い母の姿があった。
「これはお父さんですか?」そこに写る男を指差す。
「そうよ。そういえばまだ会えてないわよね。雫が目を覚ます直前まではずっといたのよ。その後も来てはいたんだけど、雫が寝ていたり、検査のタイミングだったからね……。でも今日は早く帰って来るって言っていたわ」
「そうなんですね。何をしている方なんですか?」
「弁護士よ」
母はページをめくりながら答える。弁護士か。まだ見ぬ父に期待を抱く。こんな幸せそうな家族を築き上げたのはどんな人だろうか。暖炉の上の家族写真が思い起こされる。
生まれた時だけで三冊もあるアルバムを一緒に見ていく。どの歳のものも少なくても一冊はあるのに、幼稚園に入る直前辺りのものがあまりない。
「この辺の写真は少ないんですね……」
「この時は小学校のお受験で忙しかったのよ」申し訳なさそうに答える。そうなのか。僕は小学校の受験をしていたのか。
「でも見て、これは港南大学附属の小学校の入学式よ。雫はすごく頑張って第一志望に受かったのよ」
母は目の前に重ねてあるアルバムから新しいものを取り出す。そこには制服を着て誇らし気な子どもが写っていた。校門の前で撮られた写真。そこには港南大学付属小学校の文字があった。どのアルバムにも沢山の思い出が詰まっている。それをとても愛しく見つめて話す母。僕は本当に愛されて育ったのだろう。それを実感したからか、右手が少し熱を帯びた気がする。
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