第10章 名前のない

 あれから、気づけば僕は部屋に戻って布団を被っていた。どうやって帰ったのかは覚えていない。ただ帰る時に辺りを見渡したが、あの人影らしきものの手掛かりは何もなかったのだけは覚えていた。人影とあの歌のことを考えているうちに、僕は夢の世界に入っていた。真っ暗な闇の中に一人佇む僕。段々と視界が開けてくる。大きな星空の下、目の前に立つ人。その人の顔は僕には見えない。その人を掴もうと右手を伸ばす。そこまで見て意識は覚醒した。


 窓から差す日差しは朝が来たことを知らせる。廊下に足音が響き、騒がしくなる。重い目蓋を開け、身体を起こす。頬がむず痒くて触ると、涙の後があった。どんな夢を見ていたのだろうか。そんなことを考える暇もなく、すぐに朝食を運ぶ音が近づいた。急いで横のテーブルを出して準備する。運ばれたトレーにはご飯に焼鮭、綺麗に巻かれた玉子焼き、緑色の和え物、デザートにはヨーグルトとオレンジがあった。豆腐とわかめの味噌汁からは湯気が出ていて食欲をそそる。朝から食べる和食は身体を目覚めさせるのに丁度よかった。優しい味が身体に染み渡る。

 朝食を終えると、最後の検査をした。検査と言っても大がかりなものではなく、健診に近いものだった。怪我の経過を見てもらい、記憶のことについても話し合った。怪我はほとんど完治しており、包帯やガーゼが外された。左手はまだ完治とまでは行かなかった。それでも順調に回復しているため、包帯が少し軽装になった。これだけなら家でも自分で対処できるし、動きやすくなった。

 記憶に関してはやはり何も進展がない。それでも何がキッカケになるかわからないから気長に待とう。焦らずに家族との時間を大事にするといいと言われた。何がキッカケになるかわからない。僕のキッカケとはなんだろうか。そんなことを考えているうちに検査は終わった。

部屋に戻ると薄い水色のワンピースを来た母がいた。僕の身の回りの整理をして待っていたのだ。

「雫、待っていたわよ」そう笑顔で僕を見つめる。少しずつ僕に近づき、頭を撫でた。

「ありがとう」僕も一緒に整理を手伝った。

 ほとんど物はないが、ゴミや汚れがないよう部屋を綺麗にした。母は先生と少し話があると部屋を出ていった。

ベッドの横にある台の下にカバンが置いてあるのを見つける。母のだろうか。そう思ったが母の格好には似合いそうにない。ナイロンの紺色の斜め掛けバックだった。側面にはメーカーのロゴが入っており、スポーツメーカーだとわかった。いつの間にこんな所に置いてあったのか。気付かなかった。これは僕のではないか。見覚えはないが直感的に僕のだと思った。いつも綺麗に着飾る母には似合わないこのカバン。つまりは僕のだ。カバンをベッドに載せ、恐る恐る開ける。左手をファスナーに伸ばした時、何かがその手を止めた。左手に熱が籠る。

ドシャ。思わずカバンわ落としてしまった。急いでそれを拾い上げる。そのタイミングで母が戻ってきた。台の上にある本が目に付いた。

 そうだ、本を返さないと。漫画の最新刊とあの写真集が重ねて置いてあった。僕はそれを手に取り部屋を出る。母に本を返してくると説明して、本棚に向かう。


 そこには春田さんの姿があった。

「あの……」春田さんが振り返る。

「あら、どうしたの?」

「僕、今日退院するんです。それでこれを返そうと思って」左手に持つ本を見せる。

「あら、そうなのね。じゃあ受け取るわ」僕の手から本を取る。上に重ねてある漫画を棚に戻し、一番最後に写真集を戻そうとした。その写真集を見て春田さんは一瞬止まった。

「これ、どうだった?」

「とても素敵でした。どの写真もすごく綺麗で、この夜空にまるで引き込まれるかのようでした」

「そしたら、これあげるわ」写真集を僕の前に差し出す。

「えっ。でもこれ、ここのじゃ……」

「これは誰かがここに置いたものなのよ。ほら、裏を見て。何も書いてないでしょ。ここの本は全部病院の名前が入っているのよ」近くにある本を取り出し、裏を見せる。確かにその本にはマジックで病院の名前があるのに、写真集にはなかった。

「だからあげるわ。気に入ってくれた人が持っていた方が作者も喜ぶわ。こんなところで埃を被るより全然いいわよ」

「でも、それなら春田さんが持っていた方が……」

春田さんだってこの本が好きと言っていた。僕が読む前からこの写真集を知っている。僕が持つよりもずっといいじゃないか。

「私はあなたに持っていて欲しいのよ」もう一度本を差し出した。

「それじゃあ、ありがとうございます」僕は引き下がるしかなく本を受け取った。春田さんは少し微笑み頷いた。

「それじゃあ、お大事にね」

春田さんはそう言って去って行った。僕は彼女が見えなくなるまでお辞儀をした。彼女が角を曲がるとき、一瞬だけ昨日の影と重なった。


 「雫くん、何しているの。お母さん待っているわよ」白衣姿でない梨奈さんがこちらに向かってくる。黒いTシャツにジーパン姿の彼女はパッと見、誰かわからなかった。

「え、梨奈さんどうしてここに?」

梨奈さんは今日の明け方までの勤務で、とっくに退社している時間だった。だから昨日の夜、最後にと会いに来てくれたのだ。今はもう十時過ぎだからここにいるはずがない。

「ふふ。私がいて驚いているわね?」梨奈さんはまた、いたずらに笑う。僕は頷いた。

「明け方に急患が入ってね。まあ、大したことはなかったんだけど。それでどうせなら雫くんを見送ろうかなって。でも部屋に行ったらいないし、お母さん達が本棚に行ったきり戻らないって心配していたから迎えに来たのよ」

「そうだったんですね。ありがとうございます」二人で部屋に向かう。

「あれ、その本は?」

「さっき春田さんがくれました。病院のじゃないし、気に入ってるならって。もらっても大丈夫ですかね?」申し訳なさそうに尋ねる。

「春田さんが。珍しいわね。まあ大丈夫よ。あそこに何があるなんて誰も気にしてないしね。貰っておきなさい」梨奈さんはウインクして言った。それならと本を大事に胸に抱いた。そういえば、

「昨日の夜勤って梨奈の他に誰かいました?」

「えーっと、田中さんと東條さんと吾妻さんかな。どうして?」梨奈さんが不思議そうに尋ねる。

「いや、昨日の夜、春田さんを見た気がして……」

「えっ、気のせいじゃない?昨日は春田さんお休みだったわよ」

「そうですか……」

やはり昨日の人影は春田さんじゃないのか。その後他の人の特徴を聞いたが、三人共ふっくらした体型で背が低いらしい。僕の見た人影とは違う気がする。誰なのだろう。その疑問を胸に僕らは部屋に戻った。

 部屋に着くと母と医者が二人で話していた。心配する母に謝り、僕らは先生達にお礼を言った。ベッドの上にはあのカバンが置かれていた。母は白い皮のハンドバッグを腕に掛けている。これは僕ので間違いない。急いでカバンの中に写真集を仕舞った。カバンを肩に掛け、病室を離れる。

 梨奈さんはせっかくだからと玄関まで送ると言ってくれた。僕と母と梨奈さんで玄関に向かった。玄関を抜けた所で、梨奈さんにお礼を言って、ここで別れた。タクシー乗り場に向かう。三台ほど並ぶ緑色のタクシー。一番前のタクシーがドアを開けた。僕らは二人横並びで乗り込む。母が行き先を伝え、タクシーは走り出す。後ろの窓から梨奈さんが手を振っているのが見えた。僕らはそれに振り返す。家に向かった。タクシーは病院を抜けると大通りに向かった。そしてどんどん進んでいく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る