第11話 元勝ち組女子の疾走



 その日、例の客はこなかった。

 だから安心してバイト終わりの手伝いを納得するまでさせてもらい、感謝の言葉を気分よく受け取り帰途に就いた。


 いつもよりちょっと遅くなった帰り道は、確かに一気に人通りが減って物悲しくなる。――なんて考えながら明るめの道を選んで歩いたのは、一応の警戒心のなせる業。


 幾人かいた同じ道を歩く者は一人減り、二人減り、最後には男が一人だけになった。

 角を曲がるたびに少しずつ近くなる影。

 男性の足は速い、そのうち抜かされるだろうと最初は気にも留めていなかった。


 つけられている、と確信したのはかなり足音が近づいたせい。


 近すぎない? と思ったのは最初だけ。

 すぐにおかしいと気付く。

 ……近すぎるくせに遠くならない。


 経験上、女性が一人で歩いていたら、自然男性はかなり気を使ってくれるものなのだ。

 距離を空けたり、わざと物音を立てて怖がらせないように自己主張しつつ足早に追い抜いたり。

 だが後ろの足音にはそんな配慮が一切ない。

 ただ、ぴったりとあとをついてくるだけ。


 むしろ足音としては随分と小さい。

 例えるなら、――まるで忍び寄るような。


 そんな音が、こんな近くで聞こえる意味は?


 ……やばい。

 肌が粟立つ。


 暗い夜道に女が一人。

 明るい道を選んで家に帰ると、逆に最後だけは細道に入らなければならなくなる。

 冬子の他にすでに人影はない。


 深山遥と違って今はそう美人ではないから大丈夫。なんてずっと言い聞かせていたけど現実から目を背けたって始まらない。

 油断してた。そんな事には絶対に無縁だと、最初に思い込んだせい。


 自分というものは結局本人が一番見えてないものだ。客観性を保つのが最も難しいのがまさに「自己」。灯台下暗しに通ずる話だろう。


 冬子がいい例だった。自身の変化に実に疎かった。

 外見がそれなりに魅力的になっていることを冬子はまったく理解していなかったのだ。


 残念ながらいまの冬子をブスなどというものはいない。

 深山遥が十人中九人振り向く華奢な美人だとするなら、鈴代冬子は十人中七人は振り向く健康的な美人。

 ほどよい肉付きは女性らしさをグラマラスに強調していたし、健康的な肌色は儚さとは無縁のハツラツとした印象を抱かせる。

 『愛嬌のある娘』だと定食屋の夫婦が言っていた通り、魅力ならば存分に持っていた。


 冬子には深山遥のスレンダーな体形の記憶が邪魔をして、自分のメリハリのきいた体形をデブと認識しているところがある。――このままだと一生思い込んでいそうだ。


 本来はキツめと評される顔立ちも、冬子相手ではマイナス要素にもならない。

 笑みを浮かべるとほころぶように柔らかくなる雰囲気は、何度見ても鮮やかに目を奪う。(実は鈴代姉弟の共通する特徴だったりする)

 最初は敬遠していた者ですら、微笑みを向けられた途端に簡単に警戒心を解いてしまう理由がそれだった。


 それを自分一人に向けられた特別な優しさだと勘違いするものもいるだろう。

 実際に優華などは最近冬子を事あるごとに「人たらし」といって憚らない。

 「もー、なにそれ!」と冗談だと思って流しているのは本人だけだ。


 つまりはそんな彼女に好意を寄せる者の一人や二人、いたっておかしくはないという話。

 アプローチの仕方は大いに間違っているが、元よりあり得る事態だったのだ。


 とはいえ、当の本人からしたらもちろん迷惑以外の何物でもない。


 後ろから知らない人がつけてくる、というのは想像以上に怖い。

 力にものを言わせれば抵抗できないのがわかっているから余計に。


 息が荒くなる。

 ――けど、この息は本当に自分のものなのだろうか。


 そう思った瞬間、冬子は走り出していた。

 いま、出来る限りの力でもっての、全力疾走。


 慌てたように後ろの足音も走り出す。


 いつもなら地面を蹴る足の裏が、なんだかぐにゃぐにゃとゴムのような感触を返してくる。

 ちゃんと走れているのだろうか。

 こんなに自分は走るのが遅かっただろうか。


 まるで道がぬかるみになってしまったような気分で、「細道を出られれば」と祈るように懸命に走った。

 無性に上がる息を唾と共に飲み込みながら、ぱっと細道から飛び出た先。

 ぽつぽつと照らす街灯の下。


 人影は一つだけあった。


 悠々と歩く広い背中と、高い背丈が救世主のように見える。

 力が抜けて、足を止めてしまいそうなくらいにほっとした。


「秋人!」


 ばすんと音が鳴る勢いで飛びついた。


「ああ゛!?」

 驚いただけなのだろうけど、我が弟ながらどすが聞いた声が実に怖い。


 だから大丈夫。強くて、大きくて、怖いから。

 わたしが怖がるモノも、きっと逃げていく。


 突然飛び込んできた女が冬子だと認識した秋人が、自分の腕に必死にぶら下がったまま震えている冬子を見て、ひょいと後ろを振り向いた。


 慌てて去っていく足音だけを聞きながら、冬子は確認のために振り返ることもできず秋人の太い腕にこれでもかと強く縋る。

 いなくなった。もう、居ない。きっと大丈夫。


 でも、体が強張って腕が外せない。


 なんとか離れようと思うのだがうまくいかなかった。

 秋人が一つため息を吐いた。


「あ、ごめ」

「いいよ」


 そのままで。

 思いのほか、優しげな声にぱっと顔を上げる。


「帰ろーぜ」


 ぽんぽんと叩かれた腕に、心底救われた気がした。

 じんわりとあふれ出し、ぐすぐすと流れる涙は秋人の服で拭いておく。


「おい!」


 鼻水もついでについたのがバレたらしい。

 焦ったような声がおかしくて、冬子は肩で笑った。




 §      §      §




 その夜はランニングはやめにした。

(結果的に)助けてくれた秋人のために、腕を振るって好物の豚カツを揚げる。


 冬子が胸焼けしそうな量を秋人はぺろりと平らげた。


 正面に座る冬子はその様子を眺め、ふとその肩に目が行く。

 最初会った時も驚くほど大きかったけど、なんだか彼のシルエットがさらに一回り大きくなっているような気がする。


「それ以上大きくなってどうするの?」


 少なくとも背と、筋肉量は確実に増している。

 がつがつと米を流し込む秋人に思わず呆れとも苦笑ともつかない声で聞く。

 この様子だとまだ成長期は終わっていないらしい。


 秋人は口にものを入れたままふがふがと答えていたようだけど、

「口にものをいれたまましゃべらない」と注意すれば、食事に集中してしまった。


 食後、台所で作業をする冬子を横目に、いつもならすぐに自室に引っ込む彼は珍しく寝るまで居間でテレビをみていた。

 「おやすみ」と声をかけてくれたのも初めてだったような気がする。


 明日の準備まできっちり終えて、冬子も続いて就寝時間。

 枕を抱えてドアを開ける。

 彼の部屋は冬子と違って洋室だ。


「あ゛!?」


 突然部屋に侵入されて驚いた声がしたけど、無視。


「おい!?」


 そのまま弟の背中にくっついて眠った。


 弟はもし何かあったって冬子まるごと隠れてしまうくらい大きいのだ。

 ここより安全なシェルターはない。


 一瞬にして熟睡した。




 翌朝のことである。

 普段なら起きてそのままランニングに出かける秋人が、わざわざ冬子が朝の準備をしている台所を覗きに来た。


「おい、今日は?」

「え?」

「だから、バイト。今日もあるのかよ」

「今日はないよ。明日と明後日」

「なら、今日の夜のランニングは俺が帰ってきてからにしろよ」

「……え?」


 冬子の「え」の意味は二つ。

 ランニングをしていたことをなぜ知っているのかという事と、なぜ秋人の帰りを待つのか、ということ。


「俺も夜走り込みしてるの知ってるだろ。たまにすれ違ってたんだぜ?」

「え、そうなの?」

「最初は牛でも歩いてんのかと思ってたけど、最近は随分ましになったみたいだし。たまには手のかかる姉貴に付き合ってやるよ」


 ひどいと罵ればいいのやら、ありがとうと礼を言えばいいのやら。

 選びかねて冬子は困った顔になった。


「明日と明後日は、……んん~、まあ少し待たせるかもしれないけど、バイト先で待ってろよ」


 部活終わりに迎えに行ってやるよ。

 そんなことをさらりと言うので、やっぱりお礼が正解だろう。


 冬子は言葉のかわりに滂沱の涙を流した。


「なんで泣くんだよ!!」


 秋人にはとても怒られた。



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