第9話 元勝ち組女子の前進
「よし、そろそろ次の段階に進んでもいい頃合いよね!?」
自分に問いかける。
優しい弟のおかげで、家庭内での気分は上々。
だから冬子はさらに踏み込んでみることにした。
「ハードル高いけど、うん、いまがその時ってものよ!」
実は前から虎視眈々と狙っていたのだ。
なにがと問われれば、ずばりお弁当。
自分の分はすでに毎日作っているので、これまた手間的にはあまり増えるわけではない。
今度は朝食分と合わせて、まるっと千円を頂戴しようと思っているのだが。
「だ、大丈夫、よね」
さすがに少々不安になった。
とはいえ、材料費がないことには作れるものも作れない。
なんとか怒らないでもらえるといいのだけれど。
そんなわけで初日はやっぱりそわそわしてしまう。
「彩りも考えた。きれいに出来てるはず。量だって、わたしの二倍。中身も得意なモノばっかりで作ったから美味しい、……はず!」
持って行ってくれますように!
もうこんなに祈ったことはないくらいに祈った。
なんなら合格発表並みに。
果たしてそっと台所に行ってきれいに平らげられた朝食と、なくなっている弁当箱を見た瞬間に冬子は喝采を叫んだ。
ちなみに栄えある弟との会話第二弾は、その日の内に実現した。
うっかりばったり、家に帰ってきた弟と顔を合わせてしまった際、空っぽになった弁当箱を突き出されながらの、
「足りねえんだけど」
……すでにそれも自分の二倍なんですが?
朝食をあれだけ食べているのだからと油断した自分が悪かったのか。
思いながら、量を増やして臨んだ次の日。
やっぱり「足りねえんだけど」と言われた。
「うそでしょ!?」
思わず悲鳴のような声を上げた冬子を責められる者はいないだろう。
頭上からふっと息の抜けるような声がして、冬子は慌てて顔を上げる。
「あんた、その顔。はは」
ちょっと目をかっぴらいてしまったけど、それも一瞬のこと。
冬子もつられて笑う。
泣き笑いになっていたことはバレてないと思いたい。
――そんな心温まるエピソードは別にして、実際問題、冬子が心に刻んだことは『侮りがたし、成長期男子の食欲』。
食べてくれるのは嬉しい。だが反面困ったことにもなった。
予算内であの量を毎日用意しなければならないとなると正直かなりつらい。
「ぜったいに言わないけど! なんとかするけど!!」
そもそも朝食も弁当もあれだけ食べるのだ、今までの秋人は食事がぜんぜん足りなかったのでは? と思うと何とかしなければという使命感に燃える。
うんうんと頭を悩ませて、冬子はかさ増し方法を必死で探すようになった。
それにしても『深山遥』はよく母の料理を手伝っていたが、いまのところ全然生かせる場面がない。
あの頃使っていた食材一つで一日分の予算が吹っ飛んでしまうのだ、然も在りなん。
自分の知識ではどうにもならないことを認めた冬子は、こうなったら他人の知恵を借りようと、学校で堂々と放課後の家庭科室の扉を叩いた。
「たのもーう!」
優華直伝の仲良くなりたいアピールは全然通じなかったが、結果オーライ。
最初は相撲取りが看板を取りに来たと右往左往していた部員たちも、冬子が真剣だとわかるとかなり親身になって色々と教えてくれたり、一緒に悩み考えてくれた。
こうしていい人ばかりの集団に感激した冬子は「料理部」なる部活に所属することになったのだ。
活動内容的には、かつての深山遥が作っていたような上品な料理を作る部活だったらしいので、そもそも冬子の悩みに関しては誰もが門外漢。
しかし彼らが自分たちの母や祖母に聞き込みをしてくれたおかげでかなり助かった。
目から鱗、本には書いてないことばかりが出てくる出てくる。
庶民の知恵。主婦の工夫。祖母の伝統。
冬子はうれしい悲鳴を上げた。
やはり頼りにするべきは現場の人間。
世の中のお母さん方には頭が下がる思いだ。
§ § §
冬子のそんな努力の成果か、弟の態度も随分と柔らかくなった。
冬子と秋人の朝のスケジュールはきっちりと決まっている。
まずは秋人が起きて、早朝トレーニングに出ていくのを合図に冬子が起きだし、朝食とお弁当を完成させて再び寝る。
自己錬から帰ってきた弟は軽くシャワーを浴び、朝食を平らげてから学校へ。
そのころに冬子は本格的に起き出すのだが、弟は最近出かけの際、冬子の部屋のふすまをぼすぼすと鳴らす。
寝ぼけ眼で耳を澄ませば「っそーさん」と、ぶっきらぼうな声が聞こえてくるのだ。
冬子はこの不器用で不愛想で無口な弟が大好きになった。
そんな冬子が最近凝っているのは洗濯物。
これもやはり以前は個人で自分の洗い物のためだけに洗濯機を回していたのだが。……正直、部活後の成長期男子の服は洗わないとやってられない匂いがする。
本人も自覚しているのか、帰ってきてそのまま来ていた服を放り込み即行洗濯機を回す。
が! 着回し量が多くない鈴代家故に! 貧乏故に!
干して一晩、そのままハンガーにかかっているものを着て出て行ったりするのだ。
天気の良くない日など、生乾き臭がする。あれはキツイ。姉でもキツイのだから、周囲の被害たるや、と思わず頭を抱えた。
弟がそれでいじめられてやしないかと姉としては心底心配だ。
「いや、あの体格の弟に突っかかっていける猛者がいたら逆にみてみたいけども!」
それはソレ、これはコレだ。
「まって、まって、ちょっとソレを着てくのは待って!」
そんな声を上げて。朝、出ていく弟とすれ違った時に、思わず高速で振り返りむんずと彼のTシャツを掴んでしまった日から、主に洗濯は冬子が担っている。
男はともかく、女子には絶対にモテないだろう。
ただでさえ男女そろって繊細な年頃だというのに。
強面なだけでハードルが爆上がりな上、クサいとか。クサいとか!(大事なことなのでry)
「百年の恋も冷めるわ!」
思わずテーブルを拳で叩いてしまった。
家族として放っておいていい案件ではないだろう。
自分でやらねばならなかった環境のせいで、秋人はあの年の男子にしてはかなりの量の家事ができる。
「でもお姉ちゃん、最近わかってきたのよ!?」
さては、貴様! ……大雑把だな!?
そういうことである。
そんなわけでいそいそと世話焼きをしていたのだが。
もうこうなったら一人や二人同じだろうと。もう一人の家族にもついでに手をかけることにした。
きっかけはある日、夜中トイレに起きたら玄関で屍のようになっている母を見つけたことだ。
家に辿り着いたところで力尽きて寝てしまったのだろう。
できれば、布団まで連れて行ってあげたい。
だが忙しさにかまけて夜だけになってしまったランニングでもそれなりにダイエット効果があるのか、冬子の体はだいぶ縮小してしまっている。
もうデブというよりはぽっちゃりと言って差し支えない。
安定した体重は失われてしまった。背幅も同時になくなった。今ではとてもじゃないが人を背負えない。
仕方なしに熟睡している弟を叩き起こして頼み込んだ。
寝ているところを起こされたのだ、最初は不機嫌だったが、恐る恐る要件を伝えれば素直に協力してくれた。
母を背負った秋人はうっかり「かる!」と呟いて、ちらと冬子をみたけれど、大人な冬子は彼の太ももに蹴りを放つに止めてあげた。ちなみに秋人はびくともしなかった。
簡単に母を運ぶ力はやっぱり男の子だ。
「ありがとう」と伝えたら「おう」と短く返事が戻って、くあと獣のようなあくびをして自分の巣にのそのそと帰って行った。……あれでいて、別に怒ってはいないらしい。
さて、と死んだように眠る母を見つめる。
運ばれても、布団に下ろされても、まったく起きる気配がなかった。
顔にかかる乱れた髪を何となくよけてみる。
顔色は悪い。
触れた髪の毛はぱさぱさ。
栄養と休養が足りてないのだろうと推測はついた。
「……子どもって、こういうことなのね」
大人って、こういうことなんだな。
深山家では感じたことがなかった。自分が被保護者なのだという自覚。
必死に、守ってくれてたんだろう。
深山の両親も。身を削る、この母も。
眠る母の目尻には小じわが目立って、実年齢よりずいぶんと年を取って見える。
このままだと冗談ではなく、いつか帰らぬ人になりそうだ。
過労で。
「なにか出来ること、ないかなあ」
そもそも、ちゃんと食事をしているのだろうか、この人は。
家にある彼女の飲食類は、缶ビールとカップ麺しか見たことがない。
なんだか、弟と同じ匂いがした。たぶん同類だ。
冬子は腰に手を当てて唸りながらしばし瞑目した。
それから「てい!」と寝ている彼女の額にポストイットを張り付けておく。
『朝ごはん、食べていってください』
どうせ目が覚めてしまったので、そのまま寝る前に三人分の朝食を用意しておくことにする。
レンチンすれば食べられるものと、冷めてもおいしいもので作った。
ラップをかけて名前を書いておけばすぐにわかるだろう。
出来上がった三人分の食事がテーブルに並んでいるのを見て、冬子は少し嬉しくなった。
まるで家族の食卓だ。
翌朝はいつもより少し遅い起床になったが、母はメモにちゃんと気づいてくれたようで、冬子の朝食だけがきちんと残っていた。
テーブルには、
『朝ごはん、食べて行ってください』と昨日書いたメモの下に『ありがとう』と読みやすい字で一言。
角ばって勢いのいい、どちらかといえば男らしい文字に彼女の
ちゃんと食器が洗ってあるところに母なりの気遣いを感じて、冬子は誰もいないダイニングキッチンで小さく忍び笑いをした。
「別にいいのに。いっしょに洗った方が効率的だし」
その日から、夜は外で食べているのか食べていないのかわからないが、どちらにせよ入るくらいのちょっとした夜食を、母に用意することにした。
基本おにぎりを握っておくだけなので大した手間でもない。
それから軽い朝食も。こちらも、彼女は冬子に輪をかけて小食(秋人に比べれば)らしいので冬子の分を取り分けておくだけでいい。
それからいつも一言のメモを書いておく。
日記なんて大仰なものではないけど、なんとなく始めて、なんとなく日課になった。
食器は浸けておいてくれればいい。なんて連絡から、その日学校であった他愛のないことだったり、明日の予定を聞いたり。翌日の献立を書き込んだり。
母は学校の日誌に一言を書き込む教師のように、毎日生真面目に返してくれる。
子供二人を一人で育てるのは、とても大変なことなのだ。
こうして稼ぐので精一杯な人がいるくらいに。
深山遥の時は、考えたこともなかった。親に対して感謝が全然足りてなかったといまさら思う。
だからこれから、いまできることを、いまできる人に返していこう。
冬子はそう、思うのだ。
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