ある放課後
南雲
ある放課後
一学期も終わりかけの、ある日のことだった。
僕はクーラーのきいた部屋に朝から一人こもり、机の上の書類に目を通した。どれも、今日カウンセリング予定の生徒が書いたアンケートだったが、いまいち目を通す気になれない。僕はあくびをしつつ、何とか書類の表裏をそろえるくらいはしたが、すぐに飽きて机に付してしまった。
聞こえてきたのは、エアコンの音だけである。連日猛暑が続いているにもかかわらず、この学校にエアコンは二台しかない。職員室とココだけだ。わずかに芽生えたありがたみを心に感じながら、身体ではまるで心臓をわしづかみにされるような冷たい冷気を目いっぱい感じていた。生徒たちはこの瞬間もべったりと染みつくような湿気や汗を堪えながら、やれ積分だの墾田永年私財法だのとやっているに違いないのだ。本当にご苦労なことだ。
窓から外をのぞくと、いつも体育の授業らしき生徒たちが体を動かしているのが見えたし、トイレから戻る道で家庭科室をのぞくと、ほぼ毎日裁縫やら料理やらをやっているようで、そうでない日は新任の女の先生が一生懸命テレビを使って授業をしているのだが、生徒はほとんど居眠りをしていた。高校時代は僕も同じような生活を送っていたはずなのだが、三十を過ぎて急に襲ってきた体の不調がそれらの記憶を全部押し流してしまった。それどころか、その頃から僕は、なぜだか僕の体の隅々にあって、僕の心の中心にあったしなやかさを急激に失ってしまったようだった。
「先生、起きてください」
聞きなれない女性の声が僕を呼んでいた。目を覚ますとじっとりと熱く、シャツが汗で背中に張り付いているのが分かった。
僕は眠ってしまったらしい。目を覚ますと、僕を起こしたらしい猫背の女生徒がこちらを見ていた。「ごめんね、眠ってたよ」腕をまくり上げて時計を見ると五時だった。どうやら3時間も眠りこけていたらしい。僕は焦りながらクリップボードに留めたカルテを取り出し「いやー失敬失敬。いつも早くから起きなきゃいけなくてね。なんにせよ、朝が早いから。ほら、こんな田舎の学校だし」突っ立ったままの生徒をすすめて椅子に座らせた。
「そんなに田舎ですか」
「うん?だってそうだろ。ここマックとかあったか?近くに」
「ないです」
「だろ?電車もないんだよ。先生、遠くからきてるから」
「はあ…」彼女はそれきり黙った。僕は校長室から譲り受けた革張りのソファーに腰を下ろし、理科室の座り心地の悪そうな椅子に腰かけた彼女を見た。彼女も相談に来る生徒の例にもれず、椅子に座ると落ち着きが無かった。
「私、なんか先生が嫌われてる理由分かる気がします」
「君とは初対面のはずなんだけど」
「私これ今日何番目に入ってました?」
「カウンセリング?」僕はカルテをパラパラとめくった。
「うーんとね、あ、三番」そういえば、先の二人はどうしたのだろう。
「前の二人帰ったみたいです」
「帰った?もしかして、これ僕やっちまった?」
「やっちまいました」
彼女はそのときにはもう、蔑むような目線で僕を見ていた。
「ありゃりゃ、悪いことしちゃったな」
「目印とか出しておかなかったんですか、部屋の前とか」
「そんなんいる?時間になったら勝手に来るでしょ」
「このご時世、そんな図太い奴は相談に来ないと思いますよ」
「いや来る人ばっかだよ、普通にそうしてるし」
彼女は一言ふーんとだけ言った。たまたまその瞬間会話が途切れたのを境にして、彼女は椅子の上に正座した。そして、突然それを物凄い速さで回し始めた。巻き起こったいい匂いのする風が僕の顔をかすめた。
僕はその時どうすることもできず、彼女のいかにもつまらなさそうな顔が何度も何度も僕の前に現れては消え、消えては現れるのをただ見つめていた。僕は次にその顔が急に笑いだしたり、泣き出したりするのを想像したが、彼女の顔色は何一つ変わらず回転は止まってしまった。
その様子だと元気そうだな。そんな言葉が出かかるのを抑えて、話を本題に戻そうとした。
本当は、僕は彼女にずっと回っていてほしかったし、僕は回る女子生徒をずっと、許されるなら永遠にみていたかった。なぜなら、未だかつて自分の前で回り出した生徒など、独りもいなかったからだ。
「もう本題に入りますか」ややあって彼女は無機質に答えた。僕は彼女がそんな返答をしたのを内心がっかりしたのかもしれないが、本当にそう思ったかを自分に問いかける勇気はなかったし、することもできなかった。自分の中のそれをする機関は時がたつにつれて廃墟になっていたから。僕はほぼ無意識にうなづいていた。
彼女は椅子に座り直し、顔にかかった髪の毛を払いのけながらまっすぐ僕に向き直った。
「実は…」彼女の息が若干あがった気がした。
―――――――――――――――――――
「ありがとうございました」
「うん、またね」
僕は彼女を夕日がさす廊下で見送った。
「先生は私と同じですね。良くも悪くも」
「悪くもって何だよ。気になるなあ」
彼女は髪を思いっきりかきあげた。それは僕が彼女と会話している中で何度も見ている行為だった。
彼女が髪をかき上げると、そのたび僕はなぜだか不安な気持ちになった。彼女はそれをするたびに目線を外へ向け、ため息をつく。そのことについて尋ねたが、彼女は「なんでもない」とだけ言って「どうすればいいですかね」と話を戻そうとした。
僕にはその理由が分かった。でも、どうすることもできなかった。僕は凝り固まった観念に身を沈めて脱出の機会を見つめていたはずだった。いつのまにか、その泥は固まってしまって、僕の顔だけがそこに残されていたからだ。
下校を促す放送が流れている。
「今日は…」僕が言いかけたとき、彼女は廊下を駆け出し、走り去ってしまった。
振り返ると、ドアにへたくそな字で書かれた紙が貼ってあるのに気づいた。
それは、彼女の字だった。
「本日はお休みですカウンセラーはいません」
僕にはもう若さも、しなやかさも、何もかも残っていなかった。
ある放課後 南雲 @peternoiz
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