夫は独り狼

黒沢夕

「狼は家族を大切にする生き物なんだ」

 朝、ベッドに腰掛けたわたしを、後ろから包み込むように両腕で抱きしめながら、ルーは言った。なら、昨晩あれほど乱暴な逢瀬を強いられたわたしは、まだ家族じゃないんだ。

 わたしがツンとしてそういえば、ルーは困ったように笑う。顔は見えないけど、どんな困った表情をしているか、わたしの頭にはくっきりと浮かんでいた。

 それから何か閃いたようにあっと口を開けて、きっとこう続けるのだ。

 狼は――。

「狼は興奮すると我を忘れるんだ」

 随分と都合の良い生き物だ、とわたしは小さな息を吐いた。





「好きです!」

 顔を上げると、目の前にルー・ヴォールクが立っていた。

 冒険者ギルドのフリースペースにある机のひとつに座って、買ってきたばかりの中級魔術書を開きながら、コーヒーカップに伸ばした右手はカップの取っ手を掴んだまま止まった。

 あげた顔を周囲に目配せしても、近くにはわたし以外居なくて、遠くにギルドの受付嬢たちが野次馬の様に群がり、囃し立てていた。

「好きです! 一目惚れでした! 付き合って下さい!」

 顔を再度、ルー・ヴォールクに向けると、顔を真っ赤にさせ、それでも真っ直ぐにわたしを見ていた。

 わたしは暫し彼を見つめた後、コクリと頷いた。

 冒険者ギルドSランク最年少保持者は、満面の笑みで嬉しそうに笑った。





 “魔狼”、“魔喰い”、“黒犬”、“独狼”、“死神”。

 彼の呼び名は様々あった。

 中でもよく聞いた呼び名は“魔狼”で、魔狼がこの街に来ると聞いたのは一週間ほど前だったか。

 若くて、容姿も整った男性らしい。そんな噂がギルドの女性達の間で何度も行き交っていたが、冒険者ランクBのわたしには関わりの無いことだと聞き流した。

 知り合いの冒険者が一緒に見に行ってみようよと誘いに来た。けれど、魔狼が来ると言われている日は生憎と依頼で埋まっていた。それに、正直Sランクというのは雲の上過ぎて、何となく気が引けたのもある。

「Sランクだよ!? もし本当に若くて、もし本当にカッコよくて、もし付き合えたりなんてして、もし結婚まで出来たら、将来安泰よ!?」

 どれだけ仮定が重なることを前提にしているのだと、目の前の友人に呆れた表情を返す。

「リュコス、貴方そんなだと、行き遅れって言われるわよ!?」

 友人の言葉がグサリと胸を抉った。

 傷付いたわたしの心など知らんとばかりに、友人はさっさと去っていった。





 少し前。久々に実家へと寄ったわたしに、母は眉を寄せ、小難しい問題にあたったかのように顔を顰めて、言った。

「あなた、本当に結婚出来るのかしら?」

 実の母親の言葉が心を抉る。

 “結婚する気があるの?”ではなく、“結婚出来るの?”だ。

 それが娘に投げ掛ける質問か。確かにわたしは母のようにナイスバディでも無ければ、父と母のような幼馴染みと呼べる関係の男性も居ない。

 反論が思い浮かぶこともなく、わたしはムスッとした表情を返した。

「まったく。そんな顔しないの。もっと可愛く笑ってみなさいよ」

 と母の呆れた声。

 よくこの母からわたしのような女が生まれたものだと、わたしも思う。きっとわたしは突然変異種に違いない。

 その日、お風呂場でわたしは改めて己を客観視してみた。

 顔の全体的なパーツは悪くないはず。仮にもあのナイスバディな母の子である。問題なのは恐らく、イヤ、間違いなく、この気怠けな目だ。

 気怠けな目が、鏡の中の気怠けな目を憎々しく睨む。

 母の笑顔をイメージして微笑む。……ダメだ。友人までいなくなる。

 続いて全身を見る。小柄、貧乳。これはもうどうしようもない。成長期は当に過ぎている。諦めて受け入れるしかない。ナイスバディな母から生まれたと言っても、わたしは突然変異種。仕方がない。

 さて。

 “結婚出来るの?”。

 …………。

 お風呂からあがり、わたしは母に声をかけた。

「どうしたの?」

 可愛らしく小首を傾げた母に向かってわたしは言った。

「駄目かも」





 魔狼は照れたように顔赤くしながら、わたしの右手を握っていた。偶にすれ違う冒険者が、好奇心の宿った視線を向けてくる。

「魔狼と……隣のは誰だ?」

 そんな呟きは何度目か。隣の魔狼はまるで気にした様子はなく。わたしは気を紛らわせるため通りに並ぶ商品に目をやっていた。

 不意に、わたしの腕がぐいっと引かれる。魔狼が何かを嗅ぎ付けたようだ。

 彼はこのデート(?)中、見知らぬモノを見つける度、興味深そうにそれへ視線が釘付けになり、わたしの腕を引っ張るのだ。腕が引っ張られるのは、これで八回目。

「何か見つけた?」

「え?」

 わたしが問うと、魔狼はわたしへ視線を向けて、目を瞬かせる。それから「あっ」とわたしの腕を引き寄せていた事に気付いて、また顔を赤く染め、ごめんと謝った。

 魔狼は無意識にわたしの腕を引っ張ってしまうらしい。

 たぶん、わたしが居なければ駆けてその何かを見に行くのを、わたしが居るからと、ぐっと好奇心を堪えていて、その結果、わたしの腕だけを引っ張ってしまうのだろうと、勝手に考察した。

「わたしより興味を惹かれるものなの?」

 十度目に腕を引かれたとき、ふと聞いてみた。意地の悪い質問だと思った。

 わたしが彼と付き合う決心をしたのは、行き遅れ、結婚、Sランク、最年少、容姿端麗、将来安泰。完全に下心あってだというのに、彼にはわたしへの愛を確かめるのだ。

 何という女だろうと、自分でも思った。

 魔狼ルー・ヴォールクは困ったように右手で頬を掻く。

「ごめん。昔からの癖でどうしようもない、と言えばただの言い訳でしか無いんだけど……。で、でもっ、リュコスの事は本当に好きだし、一目惚れだったけど、本当に運命を感じたんだ! それに今だって一番惹かれているのはリュコスだ。リュコスが一番だ!」

 不器用なり気持ちを伝えようとして張り切っているのか、徐々に声量を上げていく彼の声に、ざわざわと野次馬が集まって来た。

「リュコスが好きなんだっ!」

「わ、わかったから。声、大きい……」

 わたしは慌てて彼の腕を引っ張って、野次馬の円が完全にできる前にその場から走り去った。





「一目惚れ?」

 冒険者ご用達の酒場で、向かいに座る友人が胡乱気な目でわたしを見る。わたしの気怠けな目はそれを真っ直ぐに見返して、コクリとひとつ頷いた。

「ないない」

 半笑いで、友人が笑った。彼女の目が胡乱気なものから嘲笑へと変わり、憐れみへと変わる様をわたしの気怠けな目はしっかりと見ていた。

 友人は諭すように言った。

「いい? 一目惚れって言うのは、ひと目見て、惚れる事を言うのよ?」

 言葉の意味をそのまま説明した友人に、でもとわたしは言い返す。

「顔じゃないって、言ってた」

 わたしがそう言えば、彼女の視線はわたしの気怠けな目から下へと落ちていき、胸元で止まる。可哀想なものを見る目をした後で、静かに首を振った。

「リュコス。一度服を脱いで、鏡の前に立って来なさい」

 それはもうやった。実家で確認した後、彼に告白された後でもう一度。残念なことに何も変化は無かった。ミリも、変化は無かった。

 それにしたって、目の前の友人は先程からわたしに対して辛辣ではないだろうか。自覚している事とは言え、こうもひとつひとつ確認していかれると、中々にくるものがある。

 こっちは初めてのお付合い――それも年下というオマケ付き――のアドバイスを頂こうと、昼食代まで支払っていると言うのに、だ。わたしは虐められて喜ぶ性癖は持っていない。

「……ねえ、アドバイスは?」

「鏡を見ることね」

 ジロリと友人を睨んだ。気怠けな目で、精一杯睨んだ。

 冗談よ、と友人は微笑んだ。とても冗談には聞こえなかったが、わたしは大人しく友人の言葉に耳を傾ける。

「でもまあ、貴方の何処に惹かれたのかもさっぱりだし、取り敢えずは互いのことをもっと知ることよね」

「どうやって?」

「適当に夕飯でも誘って、お酒を飲ませる。あとはそのまま一緒に宿にでも向かってセックスでもすれば良いのよ」

「……わたし、こんな気怠けな目でも、真面目に聞いてるんだけど?」

「私、至って真面目にアドバイスしているんだけど?」

 彼女の表情は確かに真面目なものだった。

 わたしと彼女の価値観の違いが、ここまで大きかったのかと愕然とした。それとも、彼女の言うことが世間一般の常識なのだろうか。魔狼も、彼女と同じ価値観なのだろうか。

 もしもそうだとするのなら、わたしは魔狼と、ルー・ヴォールクとは別れるしかない。だってそんなの、愛じゃない。などと下心で付き合い始めたわたしが考えるのもおこがましいけど。

 いやいや、それでも。それだからこそ、もっと段階を踏んで行きたいのだと、わたしは思う。

 友人が気を抜くようにふっ、と息を吐く。

「貴方たち冒険者なんだし、手頃な依頼でもひとつ一緒に受けてみたら? 冒険者パーティを組むのだって、相手をよく知る良い機会になるでしょうから」

 わたしは目の前の友人が、サキュバスからキューピットに変わった様な錯覚を起こしながら、素直にその提案を採用した。

 言われてみれば、冒険者パーティからそのまま結婚まで、という人達をよく見かける。わたしはさっそく、魔狼ルー・ヴォールクを冒険者パーティに誘う事にした。





「これにしよう」

 冒険者ギルド内にある依頼ボードの前に来ると、魔狼はすぐ様一枚の依頼書を手にした。依頼ボードの隅の隅に追いやられたその依頼書は、あっさりと魔狼の手中に入った。

 この二週間、一緒に依頼をこなしながら分かった事が幾つかある。

 ひとつ。魔狼は孤児院に恩がある。三日に一回は、依頼ボードの隅の隅に貼られる“割に合わない依頼”を受けるのだ。

 恩があるのなら寄付をすれば良いのではないかと聞くと、勿論、寄付は行っているそうだ。けれど、多額な寄付は行わないのだという。

 自分らで稼いだお金で、依頼を頼む。自分らで稼いだお金で、物を買う。何でもタダで貰えるような環境にしては駄目なんだと、魔狼は寂しそうに微笑んだ。

「昔、院長先生に怒られたんだ」

 そう言って依頼書を受付に持って行った彼の後ろ姿は、何故か無性に抱きしめてあげたくなった。

 ふたつ。魔狼は、狼は子供が好きらしい。

「狼は子供が好きなんだ。……子供が好きなんだ」

 二回言って、顔を少しだけ赤くしてわたしを見る。

 性癖ではなく。子供が欲しいと言う意味で言ったのだと思う。孤児院の子供らと楽しそうに遊んでいるのをみれば、何となくそれは分かった。

 でもそれは流石に、色々早いと思ったので、わたしはその意味に気付かない振りをした。

 みっつ。狼にアイスはお気に召さないらしい。

「お、おおかみは、つ、冷ひゃいの、は駄目にゃんだ……」

 口の中に放り込んだアイスを食べ切れず、でも吐き出そうとは絶対にせずに、彼は弱々しくそう口にした。

 弱った狼の横で、わたしがアイスを口に運んでいると、弱った狼がわたしをジッと見上げて来た。

「欲しい?」

 尋ねると首をぶんぶんっと横に振る。それからまたわたしを見つめた。

「リュコスはアイス食べてるとき、すごく幸せそう」

 そう言って微笑んだ狼に、何だか恥ずかしくてわたしは顔を逸した。





 約三ヶ月。わたしはルー・ヴォールクと共に冒険者ギルドで依頼を受け続けた。

 ルー・ヴォールクは決して推奨ランクB以上の依頼は受けようとしなかった。聞けば「リュコスを危険な目に合わせたくないから」と答えた。

「……それで。もうシタの?」

 友人はわたしが奢った夕食を食べ終えると、フォークを置いてわたしへ問いかけた。

「まだ」

 ふうん、と彼女は気の無い返答をする。

「それで、どうなのかな?」

「どう、って言われても。人それぞれだろうしね。わたしならもうシテるし。まだな人はまだ。結局は二人の気持ち次第だよね。彼はしたいって言ってるの?」

「言わないけど、その、したそうにしていると言うか……。むぅ……」

 狼は子供が好きなんだ。

 狼は家族を大事にするんだ。

 狼は寂しがり屋なんだ。

 一度、彼の部屋に泊まることになった事があったけど、その時の彼はわたしの為に色々と我慢してくれていた。

 わたしが寝てる横で、もぞもぞと動き始めて、そういう事されるのかな、と少しだけ固くなっていると、彼はベッドから降り、部屋を出て行った。

 少し経つと戻ってきて、また少し経つと出て行って。

 わたしはいつの間にか完全に寝てしまい、次の朝、もそりと起き上がったわたしに、目に小さな隈を作ったルー・ヴォールクがおはようと微笑んだ。

「貴方はどうなのよ」

「わたし?」

 わたしはきっと、彼を好きになったのだと思う。

 これまで男性とこれだけ毎日、殆どの時間を一緒にいた事もないから比較のしようもないけど、最近は彼といる時間が嬉しくもあるし、彼と別れて部屋に戻った後、次の日にまた彼に会うのを楽しみにしている。

 恥ずかしながら、夢に彼が出てきた事もある。目の前の友人にそれを言うと、「子供か」と返ってきた。でも、事実なのだからしょうがない。

「なら良いんじゃない?」

 投げやりな感じで彼女が言う。

「わ、わたしから言った方がい、良いよね?」

「貴方……、そんな初心な乙女みたいな性格だったっけ?」

 失敬な。これでも色々と頑張ってきているのだ。もう少しだけ暖かな目で見守って頂きたい。

「ま、良いんじゃないそれで。一応、貴方の方が四つ? 五つ? も歳上なんだしさ。落ち着いてね」

「わ、分かった」

 こうしてわたしは一大決心をして、その日は友人と別れ、自分の部屋へと帰った。





「狼は興奮すると我を忘れるんだ」

 随分と都合の良い生き物だ、とわたしは息を吐く。

 それから彼の胸にもたれ掛けていた背中をぐいっと少し強く押した。ルーはそんなわたしの頭に顔を埋めると、クンクンと匂いを嗅ぎ出す。

「リュコス。いい匂い」

 なんだか無性に恥ずかしくなり、押し付けた背を離そうとわたしはルーの腕の中でもぞもぞと身じろぎをしたけど、彼の腕でぎゅっと抱きとめられていたわたしに、それは叶わなかった。

「……リュコス。お話しても良い?」

 不意にルーが言った。わたしは首を縦に振って頷いた。

 ルーが言い躊躇う気配を感じた。

 わたしは一瞬だけ、不安になる。なんだろう。わたしとは身体の相性が合わなかったとでも言われるのだろうか。正直わたしの貧相な身体ではそう言われても仕方ないかとは思っていた。

 彼の躊躇いがわたしに伝わったように、わたしの不安もまた、彼に伝わったようで、彼は口を開く。

「違うんだ。僕の話。……少し長くなるけど」

 構わない、と頷く。

「ありがとう。リュコス」

 わたしを抱きしめる力が、少しだけ強くなった。




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