Case.3 三日目 八月十五日
──日常が遠ざかるとき、妙に生暖かく、そして湿っている。それだけでも十分不快なのだが、鉄サビの……生理的に受け入れがたい臭いと感触が混じっている。
私の意識は、暴風雨が窓を叩く音によって急速に覚醒した──。
「……今、何時だろう……」
ベッド側に置いたスマホで確認すると、午前六時……いつもよりやや早いといったところか。
「唯愛を起こさないようにしないと、な」
スースーと気持ちよさそうな寝息を立てる従妹が横のベッドにいることを確認して、私は起き上がる。
見苦しくないように恰好を整え、とりあえずモーニングコーヒーでも飲もうかと、コーヒーメーカーがある食堂へと向かう。
二階の宿泊室から一階の食堂の間、薄暗い廊下には雨の音と私の足音しか聞こえなかった。
階段を下りるとそこは談話室になっており、そこから左に行けば玄関、右に行けば食堂へと続いている。ちなみに食堂のキッチンから職員以外立ち入り禁止エリア、管理人室へと続く道があるが……これは完全に蛇足だ。
探偵の性で、たつなみペンションの建物構造を覚えてしまっただけだ。
他に他意はない。
「静かだな……」
食堂に入ると昨日の穏やかで賑やかな空間が幻であったかのように、静まり返っている。
私は外の暴風雨のバックミュージックにコーヒーメーカーを起動させる。コポコポという機械音の後は、カップを受け取り、指先から熱を感じた。
「はぁ、目が覚める……」
一応、起きているのだが、頭の中までスッキリとなると、水分を補給しないと始まらないと思っている。
そして、今日の気分からコーヒーを選んだ。
コーヒー独特の匂いと苦みが、臭覚と味蕾を刺激する。
「ふぅ。それにしてもこの雨で、町に行けるか? いや、吊り橋さえ渡れるかどうか……」
ふと、食堂の窓から吊り橋を見る。
木製のソレはひどく雨風に揺れていた。
予想はしていたが、あれでは人が渡るのは無理そうだ。
「今日のイベントは中止だな」
お盆シーズンのため、夢寐委素町島では船を出したがる人間はそういない。定期船の船長だって、渋顔であった。この悪天候なら、なおさらだろう。
信心深い人の中には、水そのものを避ける傾向もあるからと、雨天中止と最初からポスターには書かれていたしな。
「まぁ。こちらは中止だろうが、給金は頂くけどね」
週間予報を信じているわけではないが、今日は……というかこの一週間は晴れの日が続くと言っていた。だが、大自然はやはり気まぐれというべきか。
こんな嵐になるものなのか。
「……あ」
吊り橋が、壊れた。
暴風にあおられ、踊るかのように激しく動き、限界を迎えたらしいロープが、木々が、糸が切れたようにバラバラとなり……崖の下へと落ちていく。
「わぁ……自然の力はすごいなぁ……」
と、感心するだけでは済まされない。
オーナー代理の津久井さんがこの場にいない今、私は持っているスマホで速やかに警察に電話する。
基地局の方は無事らしく、あっさりと繋がった。
しかし、あまりの嵐で船もヘリコプターも使えない。このまま嵐が収まるまで、待機してくれということだった。
「……これが、ミステリーならクローズドシナリオ発生ってところだな」
ミステリー小説は好きだ。だが、あれはフィクションであって、実際に起こってほしいものではない。
特に、殺された死体とは出会いたくないものだ。
探偵という仕事柄もあって、全く無縁ではない。
たしかに、私はお宝探偵と称されるぐらいなので、骨とう品やら金銀財宝の捜索の方に回されることが多いが、スナッフ写真とは、いくらかご対面している。
この手の変態に売れるからと、盗品と一緒に持ち歩く奴がいる。
初めて見てしまった時は血の気が引いたものだ。
いや、今でも見てしまった時は気分が悪くなる。すぐ忘れるように努力しているが、大量の出血で染まっている死体を忘れるのはほぼ不可能だろう。
その目には光はない。ただ恨めしそうに、こちらを覗き、睨みつけるのだ。
そういう風に見えるアングルで撮られていると頭では理解しているが、心はついていけていない。
「はぁ……憂鬱だな。でも、沙良とゆっくりしゃべれると思えば嬉しいかな……いや、唯愛がいるんだ。それに今年は羽伸ばしに夢寐委素に来ているわけじゃない。仕事で来ているんだ。期限までは、キッチリしないと」
コーヒーを飲み干すと、私は気持ちを新たにするため、ほほを叩き、気合を入れる。
よし。
次やるべきことは、吊り橋が嵐によって落ちたことを津久井さんに伝えることだ。
直接の雇い主は夢寐委素町島観光協会の人たちだけど、観光協会事務所の電話が通じるのは八時半から。それに警察に救助要請し終わったから、時間が来るまで放置しても問題ないだろう。
さて、どのタイミングにするか……と考えているときだった、
「ん。もう起きている奴がいたか」
食堂に関口さんが来た。
お互い軽くあいさつをすると、黙り込む。
吊り橋が落ちたことをただの宿泊者に言っても、混乱するだけだろうし。気がついていないのなら、オーナー代理の津久井さんが朝の食卓時にでも改めて伝えたほうが、私の手間が省ける。
沈黙は金、ということだ。
私は黙って、津久井さんが起きてキッチンに来るまで待つことにした。
──静かな時間だった。
だが、それは関口さんが目を大きく見開いたところで終わる。
「……お前、たしか探偵だよな」
何かに気がついたのか、関口さんは私に問う。
「そうですが……どうしましたか?」
しかも、彼は顔をしかめていた。もともと強面なのだか、より険しくなる。並の人間なら臆するだろうが、私はそれ以上に彼から発せられる使命感に満ちた想いに応えたくなる。
「なら、一緒にこい。耐性がありそうだからな」
真剣な表情だった。
関口さんがいったい何に気づいたのかわからないが、これは尋常ではないのだろう。
その気迫に押される形で、私は黙ってうなづき、ついていくしかと思った。
向かった先は中庭。
小さな祠がある以外は特に変わったものはなかったはずだ。
しいて言えば、祠の扉が強風で壊れたらしく、適当な板で応急処置をしていたぐらいか。
この嵐ではまた吹き飛ばされるだろう。むしろ、祠全体が破壊されていそうである。
案の定、あの小さな祠はもちろんのこと、鳥居や神社にありそうなものは一通り揃っていた中庭は、自然の力によって破壊尽くされたのだろう、見るも無残な姿になっていた。
「うっ……」
ソレは中心部にあった。
胸元がパックリと割れ、肋骨より内側はえぐり取られたのかほとんど空洞。長時間雨風に晒され続けた結果、血が流されつくされたのだろうか、完全に青白くなってしまった皮膚に青紫色の唇。
桜井英長の遺体が打ち捨てられていた。
「こ、これは……」
写真なんかと比較にならないぐらい克明なソレに、悲惨だと、心が叫ぶ。
恐怖のために全身堅くひきしまったが、成人男性というプライドと目の前の現実を信じたくないと思う気持ちが、私に悲鳴を上げさせることを許さなかった。
「……証拠保全のため現場保存したいところだが、この大嵐の中では難しいだろう。写真を撮れ、探偵」
「わ、わかりました……」
私は関口さんに言われるまま、ポケットの中に入れたスマホを取り出し、撮影する。
「あと、現場指揮は俺に任せろ……俺はこういう者なんでね」
関口さんは警察手帳を取り出し、身分を明かす。
警察署捜査一課の刑事。
この手の事件が専門の刑事が居合わせていたとは……一種のパラドックスさえ感じてしまうが、そこは不幸中の幸いと考え、今すべきことに集中する。
残量はかなりある。関口刑事が指示した写真は余裕で撮れた。
「一通り撮り終えたな。あとは……仏さんを室内に持っていくしかないな」
暴風がより強くならないとは限らない。
これは必要な行為なのだと自分自身に言い聞かせ、私は桜井先生の足のほうを持つ。
ぬるり、と。
雨を吸い込んだ死体と服は思った以上に重く、そして冷たかった。
吐かなかったのは、奇跡に近い。
「とりあえず……ここに」
一時的に先生をペンションと中庭に通じる道へと持ってきた。屋根があるだけ、あのまま放置よりはマシだろう。
「あとは、津久井さんに協力を願い出るしかねぇな。仙崎、津久井への説得、頼めるか」
「はい」
関口刑事に死体を任せ、私はオーナー代理の津久井さんを探す。
津久井さんとはそこのすぐ近くの廊下で出会い、びしょ濡れの姿に驚かれたが、起きてしまった殺人事件を告げたときには悲嘆へと塗り替えられる。
心臓をえぐり取られ、死んだ桜井英長。
たつなみペンション一帯が恐怖と不安に充ちるのに、そう時間が掛からなかった……。
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