道化芝居・ある殺人鬼の最後~本編開始約半年前~後編

 ──クリスマス・イブ。殺人当日。

 ここのところ桜井は連夜キャバクラ・マジェスパレスに来ていたので、祇慧瑠は彼の動向を予測できた。

 今日、律子は同業付き合いのため、午前三時まで家には帰れない。アフターは当然無理。

 そういう場合、人間付き合いを重んじる桜井はラストまで律子と語らった後、ほろ酔い状態で夜の街を歩いて帰る。

 冬だが、冬ゆえに澄んだ夜空とクリスマス用にライトアップされた街を一人気ままに散歩するのが、楽しいのだという。

 ロマンチストなのか、危機感が薄いのか。

 祇慧瑠としては都合がいいので、批判する気はない。

 桜井の後をつけ、狩るのに最適な場所に着たら、バックの中にある凶器を使えばいい。

 そう、この愛用のナタで。

 しかも、両刃。

 本来の用途は、枝打ち、枝払い、下草刈り、薪割り作業。

 山を手入れするときのお供に最適な道具なのであって、コンクリートジャングルではお呼びでないはず。

 だが、祇慧瑠がこれからすることには最高の唯一無二の相棒だ。

 頭を勝ち割るのも、腹を切りさくのも、そして脳髄やら臓物を飛び散らかせるのも、思いのまま。

 後は、前もって作ったクリスマスカードを添えて、盛大に演出しよう。

 殺される桜井もきっとハレルヤと喜んでくれるに違いない。

(桜井様は私より背が高いから、初めに頭をやるのは難しいわね……)

 もうすぐ六十歳に手が届く男性ではあるが、女の力で一撃で沈ませるのは困難だ。

(少し痛い目に合わせてしまうけど……太ももから狙うしかないわね)

 逃げ足を封じるのは、祇慧瑠には定番だった。ただ、大量出血で死なせることになるかもしれないと思うと、祇慧瑠の表情は少し暗くなる。

 逃げ切れないととっさにわかる人間は少ないのだ。だから、いらなく暴れたり、片足でも、脚がなくても匍匐前進で無駄に逃げようとする。

 祇慧瑠は、その芋虫のような動きが、生理的に苦手だった。

 生きるために必死になる人間の姿があまりにも無様で、面倒くさい。

 ここは、一刻も早く痛みから逃れようと、首を差し出してくれないものかといつも思っている。

 身勝手な女だ。

(いいえ、ダメね。私が楽をとってはいけないわ。これは桜井様のためを思ってすることでもあるのよ。簡単に命をとっては残虐性が薄れてしまうわ。時間をかけて、じわじわ削るのは、むしろ、惨殺らしくて、話のネタになるかもしれない)

 身勝手だからこそ、殺人衝動という悪魔の囁きを聞き入れる。

(んふふ。桜井様……私が今、きれいに、そしてクレイジーに殺してあげますね)

 祇慧瑠はナタを大きく振りかぶって、凍てつく風をのせ、後ろからほろ酔い状態の桜井の右太ももに狙いを定め、鋭い一撃を放つ。

 ザシュッ。

 かまいたちも真っ青な、躊躇のなくナタの刃が桜井の太ももに突き刺さった。


「……んっ?」

 桜井がまず思ったのは、強烈な違和感だった。

 熱い。

 寒いはずの外で、後ろ太ももが濡れている。

 暗がりで愉快犯によって何らかの液体をつけられたのか。

 クリスマス・イブでは子供はもちろんのこと、大人もはしゃぐものなのか。

 痛みが全身を駆け巡るころには、その考えは霧散する。

「なっ、なんで」

 太ももに自分の血がついた鋭い刃……ナタが突き刺さっているのを確認してしまった桜井の表情は恐怖で固まった。

 夢にしては生々しく。幻覚としては感覚がはっきりしすぎている。

「桜井様……」

 ナタの取っ手の部分には、クリスタルをのせた、かわいさと上品のバランスが取れたネイル。薄暗い場所でもわかるぐらい、瑞々しく、荒事とは無縁のしっとりとした指。

 その先には赤い指なし長手袋に白いファーがかわいらしく、そしてセクシーなキャミソール姿のサンタコスプレの女性。

 親密ではないが、数十分前行きつけのキャバクラ・マジェスパレスで一緒に酒を飲んでいたから、見覚えのある。

「シエル……君?」

「はい」

 殺人鬼は自分の名前にうなずいた。

「死んでください、桜井様。今、死ねば、あなた様はもっとも輝けます。そして、私も、ナンバースリーを守れます。私たち二人、幸せになれるのです」

 殺人鬼は女神のような清らかで慈悲深い微笑みを顔に浮かばせる。

 数メートル先の街道を彩っているだろう色とりどりのイルミネーションの光が、薄暗い路地裏のコンクリートジャングルにまで漏れてくる。

 場所が場所でなければ、厳格な教会の一室で、女神がステンドグラスの光を背で浴びながら、信心深い神父のもとに降臨したのではないかと思うぐらいの光景。

 ただし、現実は、深夜の夜の街。

 夜の蝶が不似合いな武骨なナタをもって、理不尽に人を殺そうとしている。

 全体的にすすけた暗闇のなかを、小さな光が、むき出しの刃が、せわしなく動き、桜井の肉体中心に残酷に照らす。

「うわぁぁあっ」

 熱い液体がまたどこかに付着する。

 どこを斬られた、どこについたなど、冷静に考える余裕はなかった。

「な、なぜだ……シエル君……なんで、君が、こんなことを……」

 桜井は息も絶え絶えに訴える。

 走るどころか立つことも困難になったのか、体が崩れ落ちる。

「なぜって。みんな幸せになれるからですよ。桜井様だって、有名人のまま、非業な最後を遂げたほうが、作品がもっと広まりますよ。悲劇は脳に焼き付くものですから」

 殺人鬼が桜井の上にまたがる。

 猫が生理的な要求を満たしてくれた喜びを、できるだけ持続させたいがために仕留めた獲物をもてあそぶように、殺人鬼は桜井というターゲットを自身の営利と快楽的な要求のために、いたぶり殺そうとしている。

「さぁ、桜井様、怖がらないで。みじめに死にましょうね」

 聞き分けのない幼子にやさしく諭すように。

 殺人鬼は細い腰をくねらせ、体を上下に揺らし、反動をつけて、ザクザクと桜井の肉体を傷つけていく。

 テンポよく、骨と血と肉が叩かれ、砕け、絶妙で残酷なハーモニーを奏でる。

「ひ……ひぃ……」

 曲の終盤に近づくころには桜井の顔には驚愕よりも、疑問と悲しみが色濃く出てくる。

(ああ、いい……)

 殺人鬼は満たされるのを感じた。

 この何も悪いことをしていないのに、地獄に叩き落されていると認識したときに見せる絶望的な表情こそが、なによりも好きなのだ。

 桜井の血や骨によって多少ナタが傷ついているが、フィナーレは一撃で終わらせよう。

 殺人鬼は、自分はとてもいいことをしているのだという、くもりなき笑顔でナタを桜井の心臓めがけて振り落とした。

「あっ……あ、あぁ……」

 桜井の口から大量の血が逆流してくる。

 斬りつけれらた血液のポンプによる誤作動。

 そして、体温が急激に冷たくなっていく……。

「桜井様……」

 殺人鬼はうっとりとした恍惚な表情で、もうすぐ終わる命の鼓動を最後まで愛でようと、心臓部を斬りつけたナタを外し、きれいに整えられた指先を押し込める。

「んふ……温かい……」

 運動したが、外は雪が降るぐらい寒いのだ。指先はとっくの昔に凍えている。

 夢中になって忘れていたが、温かい血肉に触れたことによって、自身が冬の夜の街にいることを思い出す。

「桜井様。温まったら、ちゃんと聖夜にふさわしくデコレーションしますからね。安心して、逝ってください」

 グチュリグチュリと生々しい音を立てながら、殺人鬼はさらに指を、手を、桜井の胸部に押し込み、一掴みすると、取り出す。

 それはふにゃふにゃとした、かろうじてまだ動いていた心臓だ。

 殺人鬼は一通り眺めると、あっさりと握りつぶす。

「んふ、んふふふふ!」

 ボタボタとこぼれる肉塊。

 その鮮血に触れているだけで、細胞の一粒一粒がプツプツと弾ける快感があった。

「桜井様の血、温かいわぁ」

 興奮に赤らむ頬に、潤む瞳。

 真っ赤に染まったばかりの手を見て、その鉄さびのような臭いに酔いしれながら、気分が高まった、殺人鬼は舌なめずりをする。

 淫靡で鮮やかな姿だった。

「あぁ、いい。本当に、いいのっ。この感覚、この快楽、すごくっ、いい……の!」

 全身から湧き出る快感に脳が洗われ、舌足らずになってしまった、殺人鬼。

 蕩けた笑みを浮かべつつ、出来たばかりの血の池をありとあらゆる感覚で堪能する。

 幸福の絶頂。

 至福のひととき。

 血生臭くても甘美な陶酔感に溺れていた。

 だが、長くはなかった。


「え……」

 なんともマヌケな声が祇慧瑠の口からもれた。

 そして、思考は、一瞬にて塗りつぶされる。

 ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、ありえない……。

「すまないね……。実は、私は探していたのだよ……不意にいなくなっても困らない人間を……」

 桜井が何を言っているのか、祇慧瑠には理解できなかった。

 それ以上に理解できないのは、桜井が動き回れること。

 血を流し、心臓の音どころか心臓そのものをちゃんと掴みとって、潰したのに、だ。

 しかも、桜井のたくましいとは言えない両腕ではあるが、祇慧瑠の首に手をかけてくる。

 女性の首を絞めるだけでならば、なにも問題ない力で、締めてくる。

「んっがぁっ!」

 ギリギリギリと。万力のように時間が経つにつれ、力が増している。

 祇慧瑠は桜井を殺せるかどうかわからないが、自分の首を絞めている腕を物理的に切り離すことができるナタを手放したのは失敗だったと思った頃には、口元からあぶくが出てきた。

 首が痛い。

 息が苦しい。

 今まで感じたことがない狂おしい辛酸に、めまいさえ覚える。

「私は若くて生命力のあふれる……そして調子に乗った人間の死体が欲しいのだよ。すべては、私を生き長らせてくれる友の願いのために」

 祇慧瑠はもう話せない。酸欠を起こし、もうろうとした意識の中、死ぬまでの残り僅かな時間、思考を巡らせるしか許されていない。

(死体を望むなんて、悪趣味な友だちですね……)

 ふと、祇慧瑠は視線を下ろすと、桜井のぽっかりと空いた心臓の穴から、赤い光が見えた。

 血よりも深く、罪深い朱色の宝玉。

 ソレは神秘的な輝きはあるものの、まがまがしく、おぞましく、不気味な気配さえする。

 そしてその背後から、この世のすべての悪徳を知りつつも、冒涜的な行為や残虐な事件を、ショーや娯楽として一切見逃すことなく、ポップコーンを片手に覗き見る、悪趣味で邪悪な存在が見えたような気がする。

(がぁっは、これは……ずいぶんな、友だち、ね)

 本格的に祇慧瑠の意識は薄くなっていく。

 もう、祇慧瑠が祇慧瑠だったことも忘れてしまうぐらいに、死が近づいている。

 その間、ソレはものすごくいい顔で笑っていた。

 一人の殺人鬼が返り討ちになったのがそんなに笑えるのか。

 しかもポップコーンから、シャンパンに持ち替えて、イチゴがたっぷり乗った生クリームのホールケーキにフォークを突き刺し、ケラケラとあざ笑いながら食べている。

 ……俗悪さに磨きがかかった。

 邪神にとって、人間の殺人鬼ごときの自業自得の死亡シーンは戯れに過ぎないということを見せつける。

(あぁ……イクのか、私……このまま……邪神に、笑われたまま……)

 首が折れる音とともに、祇慧瑠は自分が逝ったのを感じた。

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