私と夢寐委素島
雪子
プロローグ
あの運命的な出会いは小学校三年の夏休みのとき。
私は両親に連れられ、今まで疎遠だった父方の祖父母の家へ初めて訪ねた日。
潮のにおいに小波の音。
視界にいっぱい広がるのは、白い雲に青い海。
ここには普段見慣れた高層ビルはなかった。車もほとんど通っていない。
都会とは言い切れませんが、シティ暮らしの私にとって、祖父母の住む街並みは珍しいことだらけだった。当然、探検するしか選択肢はなかった。
……結果、迷子になりましたぁ。
そう、田舎に初めて来た子どもがよくやる失敗を、ものの見事にやってしまったのだ。
(私、このまま死ぬのでしょうか)
このとき、私はある島にいた。
ちなみに、海を泳いできたわけではない。海岸から歩いてこの島に。私は来た道を見失ってしまっていたわけだ。
ここにあったはずの道がないことに、私は大変驚いた。
今なら、満潮で道が海の中にすっぽり覆いかぶさっていたため、この小さな夢寐委素島に取り残されたとわかるけど、当時はそこまで頭が回ることがなく、自然の気まぐれにより、取り残されてしまったのだ。
持ち歩いているスマホで両親に連絡をとるのも忘れ……いえ、電池がちょうど切れていたので使えず、誰もいない砂浜で途方にくれるしかなかった。
「あ~、夕日がきれいですね……」
体感時間では、午後六時前後。
クゥクゥなるおなかの音と空腹感をごまかすように西の空に沈んでいく太陽を眺めていたとき、私はユラユラと海岸の岩陰から揺れ動く影を見た。
「ぴぎゃっ!」
帰り道を失うという不思議現象に遭遇したばかりの私は、このとき、すごいリアクションをした気がする。
詳しい描写をしたくないのは、小学生のときしてしまった黒歴史ベストテン内に入るぐらいだったから。今思い出しても、恥ずかしさで布団を頭からかぶりたくなるほどのもの。
ここは深く考えずに流してほしいところだ。
「そんなに驚くなよ……」
夕日が沈んだら出てくる空に浮かぶ満月のような金色で、長くまっすぐな髪をキラキラとなびかせた、青い甚平を着た同じ歳ぐらいの美しい子どもが岩陰から出てきた。
一瞬、お迎え的なものが来たのかなっと思ってしまったのは、想像力豊かな子どもらしい発想ゆえ、である。
「あ、この辺では見ねぇ顔だな。旅行者とかいうやつか……て、泣いているじゃねぇか……ははぁん」
子どもはすぐ私の様子と潮の流れを見ると、得心を得たのか結論をすぐに出してきた。
「満潮で帰り道が沈んでいるってところか。なら、安心しろ。後二、三時間で引く」
「本当ですか?」
時間にすると、だいたい午後四時から午後八時の四時の間、満潮で島と街をつなぐ小道が海に沈んでしまう、とのこと。
何も知らない旅行者が夢寐委素島に取り残され、とくに小さな子どもは海岸付近で途方に暮れていることは数多く。島は対策として大人が島を巡回するようになり──私のいる場所には午後七時ごろには、事情を知っている大人が来るはずだったそうだ。
つまり、不安と寂しさで泣いていた私の涙は、まったくの無駄だったのですよ……笑いたいやつは、笑え!
「もちろん。こんなところでちいせぇうそなんかつくかよ」
子どもはあっけらかんと笑う。
この時私は、この子からこの海のような大きくて透き通った心を感じた。
たしかに言葉使いは荒っぽいが、豪快に笑う姿は大波のように強く、そして安らぎを与えてくれる。
だからこそ、私は涙をひっこめられた。
「あ、そうだ。オレとしたことが名乗るのを忘れていたよ。オレの名は
沙良と。
まだ頭の中がプチパニック状態だった私に沙良が女か男かわからなかったのですが、どうやら、女の子でいいようでした。
そう、沙良はオレっ娘だったのです。
よくよく見れば、金魚の尾のような華やかで柔らかそうな帯に、甚平にもところどころにフリルのレースが編みこまれているのだから、色合いはとにかく、いくら似合っていても好んで着る男は圧倒的に少ないでしょう。
いくら心細くて泣いて動揺していたからとはいえ、こんな細かいところを見過ごしていたなんて、今では信じられない鈍さ。未熟。
「わ、私はせんさき……あいが、といいます」
フルネームにはフルネームで返すものだと、私は何気なく、反射的に自分の名を沙良に告げた。
「あ・い・が、か……いったいどんな漢字だ? 想像がつかねぇ」
しかし、私はさらに自分の名の漢字を沙良に教えなかった。
警戒したから?
いえいえ。単純に、『愛』も『翔』も御年十歳の子どもが書くにしては難しかっただけ。深い意味はまったくない。
このときはごめん、難しくて漢字が書けないと、正直にあやまった。かっこ悪い……。
「ふ~ん」
沙良はすこし残念そうな顔をしたが、
「まぁ、この時代はそういう難しい漢字をあてるスタイルが流行りらしいからな。でも、いつかオレに教えてくれよ、あいが」
「いいですよ。私、もっと勉強して、ちゃんと書けるようになったら、沙良に教えますね」
気をすぐ取り戻して。指きりげぇんまん、ハリ千本の~ます、指切ったぁ♪
思えば、これが沙良との最初の約束だった。
「よろしい。これから、オレがあいがの行きたいところまで案内してやる。この島のことでオレが知らないことはないからな!」
沙良はガキ大将スタイルで、胸高々に宣言。
この自信満々な態度、私にはものすごくまぶしく見えた。
「はい」
「その代り……陸では何が流行っているか、教えてくれ」
お互いの好奇心を満たすための同盟が結ばれた、夕焼けの空。
沙良との出会いこそが、私の夏休みの始まり。
次の日から始まる本格的な島探索。
海に囲まれ、緑生い茂る、夢寐委素島は、子どもにとっては未開の地を冒険するのと同じくらいの緊張感と、関心を与えてくれた。
海水浴はもちろん、雑木林で虫取りをしたり、釣りをしたり、崖の洞窟を探検したりと……毎日遊んでくれる沙良がいて、私はとても充実した日々を送ったのだ。
今日のおやつになる川魚が、ぴちぴちと悪あがきをしていても、罪悪感よりもおいしそうだ、と食欲と満足感が出てくるようになるころには、すっかり沙良と仲良くなっていた。
知り合いから、同士、友だち、親友……沙良との間柄がレベルアップしていく日々。
だから、いつも一日があっという間に終わったのかもしれない。
八月のカレンダーの日付が残り一週間になったとき。私たち家族はもとの街に戻らなければいけない日までのカウントがすぐ近くにまで迫っていた。
私は今日こそは、別れの言葉を言おうと決意を固めると、いつものように沙良のもとへ。
その日、沙良はお気に入りだという、雑木林のブランコに座って待っていた。
私は沙良を見るなり、
「沙良……私は帰らなければなりません」
別れの話を切り出た。
最後の、最後まで言うのをためらう気持ちもなかったわけじゃないが、言うと決めたのだから、何よりも早く言ってしまおう。
何気に思いっきりがいいところが出てきた。
「え……。あ、うん。お前、旅行者だったな。すっかり忘れていたけど」
失念していたと、沙良は苦々しく笑った。
その顔を見るのが少しつらくなった。
私は沙良の悲しむ顔をこれ以上見たくない顔を伏せると、今度は沙良よりもひどい私の顔を見られたくないと、両腕で隠した。
「……はい。ここは、おじじ様の家の近くですから。夏休みが終わるから、明日私は家に帰らなければならない……」
嗚咽がこぼれる。
本当は沙良と別れたくない。
だけど、私は私の戻るべき場所があるのだ、と。
「あいが……またここに来てくれるなら、オレはかまわねぇよ」
いつの間にかブランコが漕がれる音が止んでいて、沙良は私に抱きつい。
穏やかな木漏れ日の中、潮の香りと沙良のあたたかな体温が、震える私を包み込む。
「これが永遠の別れじゃねぇんだ。また遊ぼうな」
ポタポタと時折降ってきた小さなしずくが、私と沙良、どちらのものかわからない涙だとわかるまで少し時間がかかった。
さびしいという感情を共感することが、こんなにも心をざわめかすものだったとは……このときまで私は知らなかった。
「さあって、最後なら、最後らしく。今日は、いつも以上に派手に遊ぼうぜ!」
「はい、沙良!」
ひときしり泣き終わった私たちは、海へと走り、泳ぎ、途中であふれた涙を潜ることで何度もごまかし、力いっぱい遊んだ。
遊んでいる間の彼女の顔には、潮の香りのするさわやかで強気の笑顔と、少し大人の階段を上った物寂しげな表情が、交じり合っていた。
「またな、あいが」
沙良との別れがその年の私の夏休みの終わりを告げたのです。
──翌年。
沙良は島にいませんでした。
次の日も、その次の日も私は島に来ては沙良がいそうな場所をめぐり、彼女を探したが、運が悪かったのか、はたまた、何かの事情で沙良はこの海岸から遠ざかってしまったのか……あれから私は一度も沙良に会ったことがない。
だけど、きらめく海と潮の香りを感じると、私は自然に沙良のことを思い出す。同時に胸が甘酸っぱい想いでいっぱいになる。
だって、沙良は……私の初恋の人なのですから。
当時はこの想いに対する明確な答えが導き出せなかったが、今は間違えない。
会いたい。
漢字で書けるようになった私の名前を知ってほしい。
そして、私のこの想いを、沙良に伝えたい。ハッピーエンドでなくても構わない。この想いを告げない限り、私は真の意味で新しい一歩を踏み出せないのだから……。
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