拝啓 山口絵美菜様

 将棋界では、去る人は少ない。

 元々プロになること自体が狭き門ということもあるが、システム的に長く続けられる世界である。プロ棋士の場合、順位戦から参加する一般的な四段は3回の降級点を取るまで順位戦を戦うことができ、その後フリークラス期間が十年ある。つまり、どれだけ負けても13年間はプロでいられるのだ。ちなみにこの最短期間で引退した棋士はこれまでたった一人しかいない。

 13年プロでいられる。他の競技から見れば、とてもうらやましいことではないか。70過ぎまで現役の棋士もいる。つまり、一度ファンになれば、長く応援できる競技でもあるのだ。

 女流棋士は規定が異なり、降級点を三回取ると引退となる。実のところ降級点の規定は詳しくはよくわからないのだが、成績が悪い者から順についていく。今のところ、デビューから続けて取って引退した棋士というのはいない。理論上は短い現役生活も考えられるが、やはりほとんどの女流棋士は自ら引退・退会しない限り、十年は現役を続けられるように思える。

 それだけに、不意に棋士が将棋界からいなくなると面食らう。それは、何かしらのイレギュラーな事態なのである。かつて永作芳也さんは、「名人になれないと悟ったから」と突然退会したが、このような理由で去ったのは他には聞いたことがない。また、最近では橋本崇載八段が突然引退した。家庭の事情があったようだが、人気棋士だったこともあり大きな話題となった。

 突然将棋界を去る人は本当に少ない。理由もわからないということはめったにない。それだけに山口絵美菜さんの退会には、本当に驚かされた。まだ28歳。引退ではなく退会。そこに至るはっきりとした理由もわからず、ツイッターのアカウントも消してしまった。

 彼女は、なぜプロの世界から去ったのだろうか。



 私は現在、熊本県にいる。現役棋士どころか奨励会員もいない県である。数年前から指導や普及に携わるようになり、地方ならではの厳しさを実感するようになった。山口さんはお隣の宮崎県に住んでいた。「「女流棋士になる!」と決意して将棋の勉強に励んだものの、ここで立ちはだかるのが「地方在住」という壁です」(『観る将のための将棋ガイド』p.112)と本人も述べているが、以前は九州に研修会もなく、女流棋士になるには関西か関東の将棋会館に通わなければならなかった。地方在住者にとっては普段の対戦相手の問題もあるが、プロになるための金銭的・時間的な負担も大きい。

 山口さんは関西の大学に進学してから研修会に入った。それは一つの方法として指針になったと思う。いずれ熊本県から女流棋士が誕生すれば、よき先輩として頼りになるのではないか、という期待もあった。

 プロ棋士になってからの彼女は、観戦記者や大学講師としても活躍した。ツイッター上では「ごまお」というキャラを誕生させ、ファンとも積極的に交流していた。多才であり、様々な面で期待されている人物だったと思う。

 そんな彼女が、「新たな夢ができたため」将棋界を去った。どんな夢なのかは、語られていない。今何をしているのかもわからない。今後も将棋に携わっていくのかも、わからない。

 しかも彼女は、昨年『観る将のための将棋ガイド』を出版している。将棋の普及に前向きであったからこそ、このような本を書けたのではないか。この本を書いているときから、退会のことは考えていたのだろうか。何か気持ちが変わることがあったのだろうか。



 山口さんは現在は将棋のプロではなく、公的な立場にない。だから私がここで言及するのは、かつて女流棋士だった人であり、作家である山口絵美菜さんである。九州から女流棋士となり、様々な形で将棋界に関わった彼女に対して、私は尊敬と感謝の念を抱いている。きっとまだ将棋が好きだと思うので、プロ棋界かはともかく将棋の世界と何らかの形でかかわることもあるのではないかと思う。あっと驚くような何かをできる人だとも思うので、そういうこともちょっと期待している。

 一度将棋のプロになったからと言って、生涯それを続けていくべきとは思わない。自分に合った仕事が他に見つかる人もいるだろうし、彼女のように別の夢を持つことだってあるだろう。しかしファンにしてみれば、やはり「女流棋士だからこそ」応援するきっかけがあったのだ。女流棋士としての活躍を期待するのは、ある程度自然なことだと思う

 前述した本には、ファンレターの送り方も載っている。だが、すでに将棋連盟に所属していない山口さんには、その方法では手紙は届かない。「おわりに」は、「この本を通して、私から「観る将」のみなさんへエールを送り続けます」(p.348)という言葉でしめられている。私は、その言葉を信じる。

 私も、夢を追う山口さんにエールを送ろうと思う。



敬具

 


参照・引用

山口絵美菜『観る将のための将棋ガイド』(2021)法研

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