香子と名付けられた人生

(注)『3月のライオン』に関するネタバレが含まれます



 将棋小説の設定を考えるとき、登場人物の名前をどうするのかは姓名共に自分のなかで二つのルールを設けている。一つは「実在の棋士とできるだけかぶらないようにする」である。どうしても名前から連想してしまう部分が強くなってしまうし、同じ名前で同じキャラだともはやフィクションではなくなってしまう。二つ目は、「将棋を連想させる名前の場合、そこに意味を持たせる」である。将棋に関連のある名前で将棋にかかわるとき、キャラの中にも意識する部分があるはずだ。また、名前を付けた親の思いなどもキャラの人生には影響を与えるだろう。

 自分と同じような名付け方をしているのではないか、と思うのが『3月のライオン』である。例えば主人公の友人「二海堂」はかなり珍しく、連載開始当時似た名字の棋士もいなかった。(連載開始は2007年。2013年に三枚堂達也が四段になった)トップ棋士「宗谷」も似た名字の棋士はいない。他のトップ棋士たちも、実在する棋士にはない名字である。「辻井」に関しては、モデルが明らかに藤井猛であり、パロディが明確になるように名字もかなり寄せていると思われる。

 会長の「神宮寺」は「安用寺」にどことなく似ている気もするが、意識しているかはわからない。フィクションにおいて「○○寺」や「○○院」という名字はよく出てくるのだ。若手の「松本」や「山崎」は棋士にも実在する名字である。こちらは普通によくある名字なので、読者もそれほど実在棋士を思い浮かべないのではないか。

 そんな中、主人公の名字はかなり実在棋士に関連が深いと思われる。「桐山」は実在するベテラン棋士(桐山清澄)の名字であるばかりでなく、彼はモデルの1人とも言われる豊島将之の師匠でもある。将棋に詳しい人ならば、名前を知った時点で実在の棋士や師弟関係を思い浮かべたのではないだろうか。

 また、両親を失った主人公を引き取ったのは「幸田」である。養父である「幸田柾近(こうだまさちか)」は、「郷田真隆(ごうだまさたか)」に響きがよく似ている。キャラは実在の棋士とは違うものの、「格調高い」と言われる郷田の雰囲気は、将棋棋士を強く連想されるものとして、キャラの名前に反映されたのではないか。

 『月下の棋士』にも幸田というキャラが登場する。この作品は実在棋士をもじった名前が多く登場しており、幸田もやはり元ネタは郷田であると思われる。それだけ郷田自身が、将棋界のなかで際立った存在であるということだろう。

 さて、二つ目のルールに関してだが、『3月のライオン』において明確に将棋関連の名前を持った棋士というのはほとんど見当たらない。いまのところ「三角龍雪」のみだと思われる。「龍」は将棋の駒ではあるのだが、作者が意識したと確信はできない。前述の『月下の棋士』でいえば、主人公の名前に「将介」と将の字が入っている。『ハチワンダイバー』では、「右角」や「銀島」など、名字に駒の名前の入ったキャラも登場する。名前に将棋に関係する文字を入れるのは、キャラにおける将棋の印象を強くするという効果があると思われる。だが、『三月のライオン』ではほとんどそういう手法は取られていない。

 例外が、「幸田香子」「幸田歩」姉弟である。幸田柾近の子供である二人は棋士ではないが、将棋との関連は深い人生を送っている。二人とも現実離れした名前ではない。たとえばドラマ『ふたりっ子』の主人公の1人で、棋士になったのは「野田香子」である。また、『王手桂香取り!』の主人公は「上条歩」である。将棋作品において、とても使いやすい名前と言えるだろう。

 だが、『3月のライオン』において異質なのは、その名前が使われているのが棋士ではないという点だ。しかも、棋士になることがかなわなかった二人なのである。香子は主人公に勝てないことを理由に父から奨励会をやめさせられ、歩は主人公に勝てないことで落ち込んで将棋をやめた。ある意味主人公によって「将棋を奪われた」二人が、作中で将棋にかかわる名前を付けられているのである。

 私は『3月のライオン』では、香子が最も好きなキャラである。彼女はゆがんでいて、傷ついていて、登場するたびに切なくなる。主人公にとっては毒のような存在なのだが、しかし読み進めていくと主人公こそが彼女にとっての毒ではないかと思わされる。温かく迎え入れてくれる川本家。優しい棋士仲間。頼りになる学校の先生。主人公にはそういうものがある。では、香子には?

 特に彼女が川本家と出会った時、私は香子の視線からしか読み進めることができなかった。「香子、零、歩」という、全くうまくいかなかった3人と、「あかり、ひなた、モモ」というほんわかとした仲のいい姉妹。将棋によって家族をかき乱した(香子の立場からすればそう見えるだろう)零が、将棋とは全く関係のない家族の中に迎え入れられている事実。

 もし香子が主人公だとすれば、彼女が救われるまでの物語はとても険しく長いものになるだろう。「香子」という名前に込められた親の思いは、呪いにもなって彼女を苦しめているかもしれない。奨励会に所属する女性はごくわずかである。彼女に才能が全くなかったわけではないだろう。主人公が現れなければ遅くてもプロになるとか、女流棋士になるなどの選択肢もあったかもしれない。

 しかし彼女は将棋の道を外れた。しかも、父の弟弟子である後藤に好意を寄せ、将棋と離れきれてもいない。主人公に対しても強く当たることが多いものの、縁を切るではなく、わざわざ会いに来ることもある。突然現れて家族をかき乱した主人公に対して、複雑な思いを抱くのは当然だろう。本物の将棋の天才が訪れたことによって、香子は自らに向かっていた「期待感」を引きはがされてしまった。子供たちに駒の名前を付けるほどの父親が、突然現れた「零」に鞍替えしてしまったのである。

 登場人物の名前としてだけではなく、親がその名前に込めた意味までもがキャラクターに反映されている。その意味で『3月のライオン』における「香子」という名づけは、大成功を収めていると思う。

 さらに、三姉妹の母親は「美香子」である。こちらも「香」の字が使用されているが、将棋感は感じない。もちろん棋士の家族ではないという読み手側の印象もあるだろうが、「美」の一文字が付くこと、読み方が「きょう」ではないことにより、「香車」ではなく「香り」、もしくは「みかこ」という音のイメージになるのだ。

 これも、作者がどこまで意識して付けたのかはわからないが、気づいた時に胸を締め付けられる仕掛けである。たった一文字ないだけだが、「香子」はとても強い「香車のイメージ」なのである。名前の持つ力を感じる。

 作品に登場する機会は少ないだろうが、私は今後も「香子と名付けられた人生」に幾度も思いを馳せることだろう。まっすぐに進む香車が敵陣では金の動きをする成香になるように、何らかの変化が彼女にも訪れるだろうか。それとも将棋の呪縛から解き放たれ、香車とは全く関係のない彼女になるだろうか。名前が「香子」だからこその「香子」というキャラ。他のキャラが将棋に関係がない名前だからこそ、際立つその名前。完璧な名付けだと思うのである。


(敬称略)



参照文献 

青葉優一『王手桂香取り!』(2014-2015)電撃文庫

羽海野チカ『3月のライオン』(2007-)ヤングアニマル

柴田ヨクサル『ハチワンダイバー』(2006-2014)週刊ヤングジャンプ

能條純一『月下の棋士』(1993-2001)ビッグコミックスピリッツ


参照映像

大石静・作「ふたりっ子」(1996-1997)NHK



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