将棋のゾーン(将棋エッセイ)
清水らくは
永瀬拓矢の美しい言葉
(引用はすべて『Number 1018号』(2021)より。また、ぜひ読んで確認してほしいので、特集記事のタイトルはあえて伏せておきます)
『Number』において幾人かの棋士が特集されており、その中に永瀬拓矢王座のものもあった。現在棋界のトップに立つ一人であり、当然の人選ではある。しかし、どこかで「怖い」とも感じていた。何かとてつもなく重いものを背負いながら……そしてそれを望みながら……彼は生きているようにこれまでは見えていたのだ。
ちなみにデビュー当時の彼に対する私の印象は、「図書委員の女の子」というものだった。どう説明すればいいのかわからないが、そう感じたのである。本が好きで、一見穏やかに見えるけれど、強い意志が心の中で渦巻いている。そういう種類の「顔」に見えたのかもしれない。
永瀬二冠の会心の棋譜、と聞いても思いつかない。記憶に残る対局はいくつもある。けれども物語として覚えているだけで、終わってみるとどんな将棋だったかはあまり覚えていないのだ。
衝撃的だった、ソフトに勝利した「角不成」も、その符号ははっきりと記憶に刻まれているものの、どんな戦法だったかすら思い出せない。
永瀬将棋は、見る者にとっては圧倒的に物語だ。時にその物語は一話で終わらないし、延々と続くこともあるし、ついに終わらずに後日最初からやり直すこともある。
「信号が2つあって、全速力で行くとぴったり渡れるんです」(p.43)道場に通っていた子供時代。定期券を買ってもらい毎日通い、バスから降りてダッシュする。ただ速く行きたい、だけではない。最も効率的なやり方が最もきついとしたら、簡単にきついものを選ぶ。それが永瀬という人間だ。
永瀬は勉強が苦手で、学校も好きではなかったようだ。今回の記事を読むと、永瀬が将棋に打ち込んだのは必然のような気がする。将棋はきちんと結果が出る。教師や友達の気分次第で、負けにされたり点数を減らされたりはしない。
私の彼に対するイメージは子供の頃の話を読むことでがらりと変わった。あえて自らを追い込み、困難な道を選ぶ。才能に左右されることを知っていながら、将棋は努力だと自らに言い聞かせている。私はそういう人間なのだと感じていた。けれども、永瀬にとっては「普通に」すべてが必然だったのだ。
「でも、将棋は終わるものらしいですね」(p.45)
私は、棋士の口からこれほど美しい言葉が出たのをこれまで聞いたことはない。羽生もどこかで「終わらないことを望んでいるのではないか」と感じたことがある。けれども永瀬は、かつては将棋が終わらないものだと思っていて、最近は終わるらしいことに気が付いたというのだ。単純な、発見として。
対局者の二人がそう望めば対局を終わらせないことはできるし、初心者同士だと反則にも王手にも気が付かず延々と対局が続くことがある。しかし永瀬が想定しているのは、そういう永遠ではないだろう。努力の果て、二人が真剣に向かい合いつづければ、将棋はどこまでも続くんじゃないかと思っていたのだ。ストイックに勝ちを求めているように見えながら「膠着状態が理想です」と語るのは、あまりにも美しく、そしてやはり怖い。
永瀬の怖さは背負うものが重いからではなく、誰もが背負う重たさをまっすぐに見つめているからだ、と思い直した。努力せずにいくらか軽くできる人もいれば、重さに気が付かないふりをしてなかなか前に進もうとしない人もいる。けれども永瀬は「できないこと」を早くから知り、たった一つの「できること」、将棋に打ち込むことにより自らの人生を前に押し出してきた。子供の頃に覚悟ができていたのだ。
今回の記事を読んで、私は何倍も永瀬のことが好きになった。永瀬は、様々なことに気が付かずに生きている。将棋に必要がないからだろう。そして、聞かれると気が付く。子供の頃の話を見るに、彼は周囲をとても鋭く観察する力がある。彼にとって将棋が何なのか、答える必要が出たときの答え。それに私は震えた。そしてそれは、確実に本当なのだ。やはり怖く、美しい答え。
私は何事も努力ができない人間だ。私は背負ったものの重さが分かっていることで満足してしまっている人間だ。だから、永瀬が眩しいと思うし、偉大だと思うし、心配でもある。この先、どんな風に進んでいくのか。将棋ファンの特権として、それを楽しむことができる。
この特権は、簡単に入手できる。今回の記事で、永瀬を見つめる視線は、これまで将棋ファンでなかった人々のものも含めて、多くなったのではないだろうか。
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