「角不成」とは何か
2015年3月21日、電王戦において永瀬六段は、Seleneに対して「△2七同角不成(ならず)」と指して勝利した。プロの指し手で「角不成」が現れるのは非常に珍しい。しかも永瀬は、勝利を確信してこの手を指したのである。永瀬はSeleneの特徴を調べたうえで、「角不成」に対応できないことを事前に知っていた。対ソフトゆえの出来事であり、二度と現れない種類の「角不成」だろう。
角は相手陣に入る、もしくは相手陣から出るときに馬になることができる。そうなると、角の動きを保ったまま、縦横1マスずつ動けるようになる。強力な攻め駒にもなるし、「馬の守りは金銀三枚」と言われるように、守り駒として使用してもとても強力である。ほとんどの場合は馬になる方が得であり、プロ同士の対局で「角不成」が現れるのは、ほぼ以下の二つに限定されると思う。
・打ち歩詰め回避
将棋には、最後に歩を打って相手の王将を詰ませてはいけないというルールがある。そのため、歩で詰まないよう、わざと角を馬にしない場合がある。攻めを弱くすることにより、打ち歩で詰まない状況を作るのだ。めったに現れない筋である。
・時間節約
時間に追われると、切れ負けの心配が出てくる。ぎりぎりまで考えて着手するとき、駒を裏返す余裕さえない場合がある。そんな時は角に限らず、仕方なく駒を不成にすることがある。棋譜に残るものであり、プロもできれば避けたいのではないかと思われる。
「不成」そのものは、それほど珍しいものではない。銀・桂馬・香車は、成らない方が効果的な局面は結構ある。飛車はほぼ角と同じで、普通は成った方がいい。歩は成ることにより動ける場所が1から6へと大幅にアップするため、これもほとんどの場合成った方がいいだろう。飛車角と違い、9段目で成らないと行く場所がなく反則になってしまうという事情もある。打ち歩回避で成らない局面も想定は可能だが、対局で出現したのは見たことがない。
「角不成」「飛車不成」「歩不成」は、プロの対局ではめったに現れないと言っていい。だが、アマの対局となるとどうだろうか。特にネット対局では、「さほど珍しくない」レベルで見かけるように感じる。
特に角は、序盤から交換され、相手陣に到達することが多い駒である。「角換わり」や「角交換振り飛車」「筋違い角」はどれも自分の角と相手の角を交換して成立する戦法であり、その時に角成か角不成を選ぶことになる。どちらにしても相手はほぼ取る一手なので、直後の局面は同じになる。しかしプロで角不成とする人はいない。アマにはたくさんいる。なぜこの差は生じるのだろうか。
初心者のうちは、「成り忘れる」ことも多い。相手陣三段目で成れることを忘れている・覚えていない状況では、成らないのも当然である。ただ、有段者でも成らない人はいるし、ネット将棋の場合システム上成れるときは必ず成るかどうかを尋ねてくる。
駒を成らない最大の理由はやはり、時間短縮のためだろう。わざわざ成っても取られるに決まっているときは、成るだけ時間の無駄、とも考えられる。ある程度の棋力になれば、序盤で角交換を挑まれて角を取らないということはまず起こりえない。そうだとすれば、「起こるはずのない事態に備えて」わざわざ裏返して角を成るのは意味がない、と考えても不思議ではない。中には相手の角を裏返し、自分の角を駒台に置く、という人もいる。これは駒を移動する手間を省いている。マナー的に良い行為とはされないが、結果的に普通に角交換するのと同じ局面にはなっている。
しかし、ネット将棋では事情が異なる。成るにも成らないにもワンクリック必要なわけで、不成の方が時間短縮ということはないはずである。「右側をクリックの方が私は速い」という人もいるかもしれないが、ごく少数だろう。
やはり序盤の角交換で角不成を選ぶ人は、何らかの意図があってやっているのだろう。結果的に同じ局面になるうえで、プロはまずしない選択を、しかも棋譜上は何一つ得になることはない選択をするのは、いったいどのような理由からだろうか。
ヒントになるものとして、81道場の注意書きに以下のような部分がある。
2.2. また対局マナーの観点から下記の禁止事項を定めています。(中略)
・以下の例を含む、将棋の競技行為として無意味な、悪意のみによる指し手
寄せや詰みが既に分かっていながら、相手の他の駒を取り続ける
序盤から玉を敵陣に進める
序盤の角交換で角を成れば良いところを故意に不成で取る
(「81Dojo 利用規約」https://81dojo.com/jp/terms.html)
悪いマナーの例として、序盤の角不成が挙げられている。これで反則負けになるわけではないが、「角成」の方が良いと、しっかり表明されているのである。
多くの人々がわざわざ角成を選ぶのも、マナーとしてそちらの方が良いとされているからだろう。相手が角を取らなかったときのことを考えれば、角成りの方がわずかばかり得である。実際にはほとんどの場合角を取られるので、差は生じない。しかしそのわずかばかりの得を目指す姿勢から、結果的には同じ局面になるにしても、角成の方がマナー的に良いことになったと考えられる。そして一度マナーとして定着すれば、それに反することは「わざわざマナーとして悪いことをする」行為となる。
ではなぜ、マナーとして悪いこととされていながら、角不成を指す人が一定数居るのだろうか。この手自体には得がないにもかかわらず、だ。この答えはおそらく、「悪いからこそする」なのである。
例えば学校のガラスを割る、線路に置き石をするなどの行為は、行為者が直接得をするわけではない。そして、多くの人々が損をする。損をするために悪いとされるのだが、直接得をする人がいないのに、悪いこととしておいて防がなければならないのである。なぜ、そのような行為が行われるのか。どのような欲求に基づくのか。
一つは、自己表現だろう。大きな「悪いこと」は、ほとんどの人々が避けている。だからこそ、それをするだけで注目を集めることができる。「悪いことができるやつ」という認定は、悪人のなかでは誇らしいもの、仲間意識の源泉にもなり得るだろう。
悪とまではいかなくとも、「得をしないことのアピール」はよく行われている。「寝ていない自慢」などが典型的だろう。睡眠を削るのは健康に悪く、できれば避けた方がいいことである。また、そのような状況に陥らない人の方が幸福な状況と言えるだろう。それでも誰かがあまり寝ていないという話をすると、「私はもっと寝ていない」とアピールする人が現れる。得をしないこと、健康に悪いことを自己表現の一部としているのである。良いことと思われていないからこそ、「それをできる私」が意味を持つのだ。
しかし、線路に置き石をする人は果たして、「線路に置き石をした人」と思われたいのだろうか。犯人が分からなければ、他者からの認証は得られない。それでもそのような悪は行われている。二つ目の欲求として、「悪だからこそしたい」というものが考えられる。例え誰に見つからなくとも、自分が得をしなくとも、「悪を行える自分」こそを獲得したいのである。ばれないほどに喜びが大きい人もいるだろうし、ばれるまでのスリルを楽しみ人もいるだろう。
中には、「ばれたいのでする」という人もいる。ポジティブな自己アピールではなく、「悪をなす私を見つけて罰してほしい」という願望である。角不成にそこまでの意味を込めている人はいないかもしれないが、「こんなことをする私を見つけてほしい」という切実な願望が込められていないと言い切ることも出ない。
「悪を行える自分をアピールする」「そもそも悪が欲求の対象である」という理由により、悪は悪であることにより誘発される。「角不成」が悪いマナーであるとされればされるほど、角不成を指す人々はその欲求を満たされると考えられるのである。
では、角不成を減らすにはどうしたらいいだろうか。一つは、「たいして悪いマナーではない」という雰囲気を作っていくことである。相手が目くじらを立てるほどに、角不成は悪としての意味を増していく。しかし誰もが「そういう人もいるよね」と感じるようになれば、角不成を指す意味がなくなっていく。ただし、皆が気にしないのだから、そもそも角不成を減らす必要もないという矛盾が生じている。
もう一つは単純だが、罰則を作るということである。マナーを明確にしておき、そのマナーに反した人々はその場から追放するのである。ソフト指しなどと違って、少なくともネット対局においては、角不成は棋譜を見れば簡単に確認をすることができる。初心者やクリックミスなどもあるだろうから、レーティングと「角不成率」を参照して、アカウント停止ができるようにするのである。
しかしおそらく、ほとんどの運営者はそこまで踏み込まないだろう。マナーはあくまでマナー、反則ではないのである。皆でよいマナーを身に着けていきましょう、将棋でそれを学んでいきましょう、みたいな感じが続くのではないか。
「角成勢」が取り得る一つの作戦として、角不成をしてきた相手にだけ次からこちらも角不成をする、というものは考えられる。そうすると角不成をする人にとって角不成は「普通のこと」となる。いくら悪いマナーとされていても、皆がしていることでは自己アピールにはつながらない。皆が気にしなくなったマナーはマナーとしては意味がなく、そうなれば悪いマナーというものは実質霧消している。角不成をする人の盤上から角不成の意味をはぎ取ることができれば、その人はあえて(彼の世界においては)皆がしない「角成」をするようになるかもしれない。
とはいえ、わざわざ皆がそんなことはしないだろうし、頑なに角不成を続ける人はいるだろう。おそらくこの先もずっと、角不成は続く。その意味は少しずつ変わっていくかもしれない。だが、おそらくは珍しいものとして、そしてあまり好ましくないものとして、細々と角不成は生き続けるのである。
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