第2.1話:闘技場控えの間
トンネルに似た石造りの空間
漆喰で化粧されたアーチ状の天井
天井を支える太く逞しい円柱
円柱と円柱を繋ぐレンガ積みの壁
壁に穿たれた縦長の窓
窓から斜めに落ちる陽の光
仄明るい空間に響く優しい水の音
水の音は空間の中央
水瓶を膝の上に乗せる女性の彫像
蔦の巻きつく水瓶から流れ落ちる清らかな水
穢れない水で身を清める大柄な騎士
見事な体躯の騎士は、冷水にも表情を崩さない
端整で涼やかな表情の聖戦士
神殿騎士コークリット
■神殿騎士コークリットの視点
「ふううぅー」
俺は冷水で身を清めながら無表情のまま肺の中の空気を吐き出した。
「はああぁー」
水を滴らせながら考える。フィガロ団長が第三礼拝堂に来いということは、以前話していた旅立ちの時。
旅立ちの。
「はあぁー」
旅立ち。旅立ちだ! やっと
盛大なため息から始まった俺の名はコークリット。半年ほど前に神殿騎士になった十八歳の人間の男で、髪は赤みがかった茶髪で、瞳は琥珀色をしている。顔はまあ端整な方かな、自分でいうのも何だが。まあー超無表情だから端整に見えるだけかもしれないが。
そう俺は無表情。
心の中では色々な感情や思惑が渦巻いているんだけれど、表情は鉄仮面のようにビクともしない。ちょっと訳があって……はぁ。まあ無表情か渋面かのどっちかか。
俺は濡らした布で体を拭く。体格は非常によい。身長はもう少しで二メートルになり、体重は九十キロくらいでちょっと細く見えるからあと十キロは欲しいかな。戦士向きの肉体をしているな。
生まれは平民。
よりも下かもしれない。
孤児だ。
まあこの御時世、孤児は多いし俺の孤児院時代の兄弟姉妹たちも同じ境遇だから特に気にしていないかな。まあ孤児ゆえに心の中の口調はテキトーで、アバウトで。伝説の神殿騎士を名乗る手前、マズイか? まあ心の中だけだからセーフだな、うん!
俺は顔を洗いながら、何度目かの盛大なため息をついた。
「はあぁーーー……」
旅立ちだ! ああー嬉しいなあ。
やっと旅立ち!
誰かの役に立てる、旅立ち!
誰かを助けられる、旅立ち!
そう、誰かを助けられる、旅立ちだ!
お、そうだ。これだけ嬉しいなら顔が笑顔になってるんじゃないかな? 俺は思わず噴水の台座に貼り付いている鏡を見た。
「……」
だがそこには相変わらず鉄仮面のような無表情な男の顔が映っている。
はあ、やっぱりか。
眉間は動く。シワを寄せて渋面は作れる、うん。でも頬がビクともしない。手で頬の口角を持ち上げる。ギギギ……硬っ!
手を離すと無表情に戻る……怖っ!
ダメだこれは、やっぱダメだこれは! 俺は顔を洗って! 髪を後ろにかきあげ撫で付け。
「ふうぅぅーーー……」
『どうしたの? さっきから盛大なため息をついて』
どこからともなく声が響く。俺は布で顔を拭きながら声の主を見上げると、そこには水瓶を持つ美しい女性の彫像、聖マリアンナ像が虚空を見つめている。
そう声の主はこの彫像だ。
『また、聖戦士たちに殺されかけた?』
くくっ美しいマリアンナ像に似合わぬ物騒な言い方に俺は笑みを浮かべ……ようとしたが、無表情のままだった。クソ、やはり表情が壊れてビクともしない。
『やられたらやりかえす! 倍返しよ!』
くくっ本当に物騒だなあ、武闘派か! いやきっと俺を笑わそうとしてるんだなあ。
ありがたい。
俺の心の中の顔は、凄い笑顔だよ。
「いえ、今日は違います。しかし剣は飛んで来ましたが」
声に出すときの口調は真面目なんだ。
『やっぱり殺されかけてるじゃない! 違うなら何のため息かしら?』
「安堵のため息です」
『安堵? 無事ですんだ? その無表情な深刻顔で安堵のため息だったの?』
くくっ、ひでーなぁ!
「申し訳ありません」
『堅っ! カッチカチ!?』
いやいや! そっちが軽いんだって! 彫像なのに!
『で、安堵したのは何で?』
「ええ。ついに
そう安堵のため息。
法王庁から抜け出せる安堵のため息。
『まあっ、そうなのね! ついに神殿騎士としての旅立ちが!』
「はい!」
『やったわね! はあ~、貴方が聖戦士修道会に来てから五年……よく耐えたわね』
「ええ」
『そのせいで……顔を失ってしまったけれど……後悔はないの?』
「もちろんありません」
そう、俺は聖戦士修道会に来てから表情をなくした。それは先ほどマリアンナ像が問いかけてきた「聖戦士に殺されかけた」ということの積み重ねだ。
そう、俺は何度も何度も、繰り返し殺されかけてきた。
何度も何度も。
訓練中の事故に見せかけて。
剣闘中の事故に見せかけて。
魔法戦闘中の事故に見せかけて。
さっきのように。
敵意と殺意、嫌悪を浴びて、そして失敗した時の落胆を受けて。
さっきのように。
はあ心が暗くなる……思い出したくもないがフラッシュバックする。聖戦士たちが俺を殺そうとするのには、もちろん理由はある。二つも。俺を殺そうとするには充分すぎる理由が。
もし俺が聖戦士たちの立場にあったら。
やはり敵意を持つかもしれない理由が。
だがそれで殺されてたまるか! 俺は何も悪いことなどしていない!
思い出されるのは辛い記憶だけ……
『あの小さな子が……いつもここでジッと涙をこらえて、歯を食い縛っていた子が……』
「はい」
そうだった。
ケガの痛みに、心の苦しさに、皆から向けられる恐ろしい殺意に、ジッと耐えた。
耐えて耐えて。ただただ耐えた。
そうしたら、いつの頃からか表情が出せなくなった。心が痛んでも、心が傷ついても、それが表に出てこなくなった。
『いつ、発つの……?』
「この後すぐです。邪魔が入る前に行くと思います」
『そう……寂しくなるわ』
神殿騎士は法王庁を飛び出すと、世界の各地を旅して回るので滅多なことでは法王庁に戻ってこないんだ。彼女との会話ももうできなくなるだろう。
俺も。寂しい
心が。ギュウッと締め付けられて
とても寂しくなる
人との別れより、彫像である彼女との別れが寂しくなるなんて
『貴方にとって、本当によいことなのになあ……素直に喜べないわ』
「ありがとう」
『本当に、行っちゃうの……?』
「はい、行きます」
『そうよね……』
「はい……」
『……』
その時。虚空を見上げる美しいマリアンナ像の目から
涙が
ポロリと
「!」
『寂しいわ……よいことなのに……』
「……」
ああ
ありがとう
別れを惜しんでくれて
ありがとう
マリアンナ像からは、なおも涙がボロボロと。
俺は噴水の水溜めを飛び越えると、マリアンナ像の台座に乗った。彼女と同じ目線になる。ああ、美しい彫像だ。優しい表情の。
俺は持っていた布で彼女の目元を拭い、頬を拭う。
「嬉しいです。ありがとう……」
『……』
最後かもしれない。彼女に触れるのは。
そう思うと寂しさが膨れ上がって。最後だから。いや最初で最後、か。
俺は彼女に手をまわし、優しく抱きしめる。ああ、ひんやりとした硬い彫像だが、俺には暖かくて柔らかい、優しい女性そのものに感じる。
不思議だ。
癒される。
俺が抱き締めているはずなのに、逆に抱き締めてもらっている気持ちになる。
その光景は端から見たらオカシイかもしれない。
でも
いいんだ
『……頑張ってね』
体を通して、直に励ましの声が俺の体に響く。
ありがとう。いつも見守ってくれて
ありがとう。いつも話し相手になってくれて
ありがとう。いつも俺を助けてくれて
「ありがとう。ずっと、ずっと貴女に助けられていたんです」
名残惜しい。けれど、俺は台座から飛び降りる。
『体に気をつけて……命を大切に、ね……』
「はい」
見上げる彫像は俺と同じ、決して動かない石の顔だ。冷やかな女性の顔だ。
でも優しく、優しく微笑んでくれているようで……
「ありがとう。貴女のことは忘れません」
『ええ。顔を取り戻したら見せに来て……』
「はい、必ず」
『いつまでも、待っているわ……』
「はい、嬉しいです!」
『頑張って! 行ってらっしゃい!』
「ありがとう!」
俺は胸に手を当てる。
「行ってきます!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます