伴美砂都

 アパートの部屋の窓のところで彼の姿を見つけたのは六月の初めだった。

 私の部屋は二階建てのアパートの一階で、駐車場に面した玄関扉の隣に寝室の窓がある。ちょうど扉と窓の間に、暗くなると自動で灯る一メートルぐらいの高さの照明があり、夏になると小さな虫が灯りにつられて集まる。そこに彼は座っていた。


 その日も帰宅は深夜だった。会社からの徒歩二十分の道のりを、できるだけ何も考えないように、考えないようにしながら歩いてきたところ。

 いきなり彼が視界に入ったからちょっとだけびっくりしたけれど、どこか遠くを見ているその目は、とても優しく穏やかだった。


 彼は毎夜そこにいるようだった。最初は恐る恐る、気付かれないように横を通った。そのうち「あ、またいる」と親しみをおぼえるようになり、時折いない日には寂しさをおぼえるようになり、例年より長かった梅雨がようやっと明けるころには、私の心はもう彼の虜になっていた。


 ただひとつ残念なのは、私がヒトであり、彼が蛙であることだった。


 いや、それすらも本当は問題ではない。蛙であろうがなかろうが。むしろ、緑色のしっとりした背中、優しい黒目だけの眼、そして、透けて見えそうな薄さの、ひくひくと動く白い喉の皮膚。どれを取っても彼は完璧に美しい。蛙でなければ持ち得ないものだ。本当に問題なのは種別ではなく、大きさだ。だって、同じぐらいの大きさでなければセックスはできない。彼がもっと大きいか、私が小さくなければ。でも、多分それはどんなに頑張っても叶わない。……となると、やはり問題なのは種別なのか。でも、緑色のしっとりした背中、優しい黒目だけの眼、……かーん、こん、と、機械で合成されたチャイムが鳴って目の前に焦点が戻る。パソコンの画面、時刻は、正午。はっとする、いつから彼のことを考えていたのか。なんと、恋患いの恐ろしいことよ。ただでさえ一分も惜しいほど仕事が詰まっているというのに、また残業しなくては。


 定時を超えて、五時半から六時までは残業をする場合の休憩時間と定められている。おなかがすいていて、休憩室でポテトチップスとチョコレートとカロリーメイトを食べてから少しだけ眠った。

 疲れた顔で頬張るようにしてものを食べているところも、決して綺麗とはいえないガサガサのソファで横になっているところも他人に見られたくなく、誰も来ませんようにと願っていたのだけれど、その期待は破れ簡易な衝立に隔たれた向こうに扉の開く音が聞こえ数人の話し声がした。聞き覚えのある笑い声が響く。

 同期や先輩と仲が悪いわけではないはずだった。ただ、私が一人違う、とくに忙しい部署に配属されたから、業後のお喋りやランチに誘われることがないだけ。それだけだ。ああ。うるさい。眠たい。今夜も帰ったら、彼はまたいてくれるかな。



 日曜日、学生時代の友人たちに会った。アスファルトの照り返しで街は暑い。職場の冷房の効きは悪いけれど、炎天下はその比ではない。

 ねえ、大丈夫?顔色も悪いし、疲れてるんじゃない、ねえ、病院行ったほうがいいよ、そう、何度も言われた。確かに仕事が忙しくて疲れてはいるけど、私は元気なのに。今年の健康診断だって、全部Aだったし。疲れてるそぶりなんて見せなかった。ご飯を食べている間、恋バナだってちゃんとしたのに。

 帰りの電車は、虚しかった。学生のころはあんなに仲が良かったのに、なんだか、今は距離を感じる。



 私の彼への想いは日ごと募っていくばかりだった。毎夜帰宅するたび、定位置に彼が居ることに安堵した。眠る前、窓越しに聞こえる彼のと思われる声に、眠りたいという生理的な欲求とせめぎあうようにもう一つの生理的欲求が生まれていることに気付く。頭のどこかで、明日も出勤、明日も出勤、と諌める声を聞きながら、私は数年ぶりにオナニーをし三度達した。

 十八のときから三年間付き合った元恋人は人間の男性だったが、私はついぞその男に欲情しなかった。ラブホテルのガラス張りのトイレで事後、放尿しながらなお勃起している性器を見て吐き気をおぼえ、ショッピングモールの駐車場で停めた車の中でジーンズの生地越しに股のあたりを弄ろうとする手を切り落としたい衝動にかられ、口の中に舌が入ってくれば決死の勢いで押し返した。そんな体たらくでよく三年も保ったものだと別れた後には自分で呆れ返ったが、以来、私は私自身のことを不感症と信じて疑わなかった。

 それを崩したのは、彼。


 蛙の性感帯はどこ。どうしたら彼とセックスできるの。そればかりを考えて、業務時間中も何度も股間が熱くなった。しかし、定位置にいる彼を見ても、逃げられるのが怖くて触れようとすることすらできない。彼が窓辺にいない夜は心配で眠れず、一睡もしないまま出勤した。 

 


 そんなある日寝室の窓を開けたら、朝降っていたらしい雨の残り露と一緒に、彼が部屋の中に飛び込んできた。

 その日は日曜日で起きたら午後二時半だった。昨日つまり土曜は休日出勤で、月曜も当然出勤。貴重な休日を無駄にしてしまったという後悔とそれがもうどうしようもないという怒り、閉めきった部屋のむっとした暑さと寝過ぎたための眩暈と寝起きの軽い脱水症状から来る気持ち悪さに苛立ちながらキッチンへ行く途中隅に置いていたゴミ箱を蹴っ飛ばしてしまい、ティッシュやお菓子の袋はともかく髪の毛やお菓子の袋から飛び出したポテトチップスのかけら等がこぼれ、さらに台所用のゴミ箱に捨てるのを億劫がって食事テーブルからそのまま近くのゴミ箱に捨てたジュースのパックから液体が飛びその水分で髪の毛やお菓子くずが床に貼りつき、イライラしながら掃除しようと屈んだところ棚の角に肘をぶつけ、きええええ何もう何なのこれねえ私こんなことしてる暇ないんだけどねえ私いそがしいのわかってるよね?なんでこうなるの私毎日頑張ってるのにねえ私頑張ってるよ頑張ってるよね?もっと早起きすればよかった午前中に起きれればよかったせめて九時半に起きれればよかった九時半がよかった九時半がよかったきいいい、と一通り泣き叫んだあと、やっと片付いた床に気を取り直して起き出したままのベッドを整えに寝室に戻ったあとのことだった。

 えっ、あ、と思わず声を上げて、彼が乗っかった枕の上をただ見つめる。クリーム色にピンクのドット柄のついた私の枕のちょうど中央に、ちょこんと彼が座っている。歓喜に震える手を私は彼の方へ差し伸べた。彼はまだ動かない。少しずつ距離を縮めていく。素早く跳び退こうとする瞬間を、捕まえた。


 手のひらの中に、彼がいる。暴れることもなくおとなしく、だが時折ぴく、ぴく、と脚が動く、くすぐったい感触。思いがけない出来事に心臓がどきどきいっている。

 片手の平に彼を包んだままそっと網戸を閉め、硝子戸を閉め、カーテンはレースの方だけ閉めた。ベッドに腰掛け、脚を組む。じゅ、と膣が潤んだのがわかった。


 左手でそうっと彼の背中のあたりをつまむようにして身体を支え、いちばん柔らかそうな喉の皮膚を、右手の人差し指で撫でる。と、彼はついに身を捩って逃げようとした。ぱっと手を引っ込めると、また大人しくなる。穏やかな優しそうな顔。今度は右手でお腹を持って、背中を撫でる。彼はまた鬱陶しそうに、健康そうな脚を曲げ伸ばしした。背中から、人間でいう股間のあたりに指をもっていく。

 脚と脚の間を、そっと擦った。彼はじたばたと脚を動かす。お願い、待って、もうちょっと、と言いながら、彼のお腹を持つ右手の指でその脚の付け根も押さえるようにして、ベッドの上で組んだ自分の脚を何度も擦り合わせる。あ、あ、と声が出た。

 彼を掴んだままベッドに倒れ込み、寝間着にしているワンピースの裾から手を突っ込んで、何度も何度もいった。はっと気が付くと外は夕陽の色で、彼は、私の手の中でぐったりとしていた。あんなに力強く動いていた脚は伸びきって、付け根から、血のような膿のような透明な液体が少し滲み出ている。

 私は手のひらに息絶えた彼を乗せて暫く途方に暮れた後、それを口に放り込み噛み砕き飲み込んだ。

 彼は血と泥と金属と生臭いなにかの味がして、喉から鼻の奥まで、昔小学校のころ通学路にあった、汚水でピンク色に染まったどぶの匂いが突き上げてきて嘔吐しそうになりながら、私は、愛しいひとを飲み下した。



 私の身体に異変が起きたのは数日後のことだった。母親にメールをしようか迷って、一大事には家長からだろうと判断し父に電話した。電話口で父はしばし絶句したが、その日のうちには車を飛ばし母と二人でアパートを訪ねてきた。

 父より早く部屋に飛び込んできた母は、同じ女性である故だろうか、成る丈取り乱すでも私のことを責めるではなく、という確固たる意志のような表情が見えていたが、こっち、と案内したトイレの便器の中を覗き、水様性の便の中に黒いもじゃもじゃとしたものがたくさん蠢いている様を見て悲鳴を上げた。

 あんた何か変なもの食べたの、子供ができたって言ったわよね、どういうことなの、相手は、相手は誰で今どこにいるの、何があったの、矢継ぎ早に訊く母に、だから、これ子ども、オタマジャクシでしょ、彼の子ども、彼はカエルで、子どもができた日に死んじゃったから私が食べたの、と説明すると、母は突然泣き出し、数日続く下痢による脱水症状から立っている体力がなくトイレの床に座り込んでいた私を引っ張り上げるようにしていきなり抱きしめた。

 ちがうのこれは違う、これは寄生虫よ、あんた病気なの、体調が悪いのよ、帰りましょう、もう何も考えなくていいから、一緒に帰りましょう、そう言って私を抱きしめ続ける母と、その肩越しに見える少し離れたところに立ち尽くした父の姿を見ながら、私は、ああ眠りたいなぁ、と思った。


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伴美砂都 @misatovan

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