隠され事
梔子紫亜
その壱
ゆっくりと世界が明るくなる。澄んだ空気が心地好い、早朝のこの時間から私の仕事は始まる。
まずは参道の掃き掃除。軽く身嗜みを整えて外へ出ると、蔵から箒を取り出す。金木犀の木が近くにあるせいか、それは常に甘い香りを纏っている。
大鳥居から拝殿の前
羽を羽ばたかせながら私の目の前を飛ぶ鳩は、足に紙を括り付けている。これは
早速付けられた紙を解いて広げてみると、予想していた
「この神紋……出雲大社? え、これ
思わぬ差出人に驚愕の声を上げた。
兎に角、
関わりがないこともないが、手紙の遣り取りをする程の仲ではない。文が送られてきた理由など、大きな不祥事を起こして厳重注意されるくらいしか考えられないが……もしや。
吃りながら鳩にお礼を言って豆を与えると、大急ぎで本殿へ向かう。直ぐにでも事情を聞き出さなければ、と力むように。
先程立てた予定を消して、最重要事項に『叩き起こす』と『尋問』を加える。駆け足で本殿まで行くと、荒々しく門を開けて、中に居る存在へ声を掛けた。
「今すぐ起きてください! 貴方、何をやらかしたんですか!」
「う、んんぅ……うるせ……」
薄暗がりの中の影は、私の声に反応してモゾモゾと動き、そして丸まった。
「こら、寝るんじゃありません!」
土足で本殿の中へ入り、その毛布を引っ剥がす。抗議の唸り声がしたが気にせず、先程の文をその整った顔面に突きつけた。
「
「……えー……と? あー、おーくにぬしからか。んん、きょーのー……は、今日の、
寝惚けた声が徐々に焦りを帯びていく。
すっかり目が覚めたらしい様子で此方を見ると、その顔を
「今日、
「だから
「知らねぇよ、酉一つ時の間に来るとしか書いてない」
不機嫌そうに舌を打つ音が響いた。音源は非難を滲ませた声で文句を垂れ流しつつ、立ち上がって伸びをする。
「あー、怠い。急すぎんだろ。
酉一つ時なら今から五刻——十時間以上の猶予があるけれど、客神を迎える準備をするには少ないくらいである。その主な原因は依り代と呼ばれる、神の代わりに参拝客を見守る存在だ。客神をもてなす間に必要なのだが、生成には多大な時間と労力を使うらしい。
「茶菓子も
「私が買ってきましょうか」
「は?」
低く発せられた一音に、私の提案は一蹴される。
「駄目だ。また逃げるだろ」
「どれだけ前の話をしてるんですか。今更そんな気、起きませんよ」
苦味のある笑みを溢すと、相手は渋々ながらも納得したようだった。時間と手が足りないのも、同意の後押しになったのだろう。
「……それもそうか、んじゃ頼む。大鳥居と商店街を繋げといてやるから、行ってこい」
「はい」
一つ頷いて見せると、それの手が私の頭に乗せられた。優しく撫でてくるこの温かい手が、私は大嫌いだ。
振り払って、更に言えば切り落としてやりたいのを堪えて、されるがままになる。下手に反抗しても、困るのは自分だから。
彼は、当時十二歳だった私を
小学六年生ともなれば、既に不審者の対処は学校で嫌という程教えられた。
例えばいかのおすし。知らない人に付いて行かない、知らない人の車に乗らない、大声で叫ぶ、直ぐ逃げる、近くの人に知らせる、みたいな感じの語呂合わせだ。
だから、親と逸れたお祭りでユウさんと出会った時、当然私は警戒した。
「あ? お前迷子か」
「だったら何」
揺れる提灯の灯りを背景にして、泣きそうになっていた私の前にしゃがみ込みつつ、声を掛けてきた男の人。高校生くらいの体格で涼やかな顔立ちをしている彼は、当時の私が苦手に思う人種に当て嵌っていた。
私は怖さや恥ずかしさから、お母さんに着付けてもらった
私の生意気な態度に驚いたのか、彼は目を少し見開いて、けれど直ぐに表情を和らげた。その様子を見て、実は良い人なのかもしれないと思った私はちょろすぎである。
「そっか、なら一緒に父さんと母さんを探してやるよ」
「……でも」
「お前一人じゃ、この中を探すのは難しいだろ」
そう言って指差す先には、屋台と人混みがあった。まだ伸び盛りの身長では、簡単に埋もれてしまいそうな密集だ。
確かにこれでは探すどころではない、だからこそ困っていたのだと内心
「つっても、この中には居ないかもしれねぇけど」
「え?」
如何して、と彼に目を向けると、今度はその指を空へ向けて言った。
「もう直ぐ花火があるだろ? 綺麗に見える場所を探してるかもしれない」
「あ、そっか」
そんな訳ない。子供と逸れたのなら、普通の親は子供を探し回る。花火など気にしている筈がない。というのに、その時の私はそこまで考えが至らなかった。馬鹿である。
「花火のよく見える、良い場所を一つ知ってるんだ。俺と行ってみないか?」
「行く!」
すっかり警戒を忘れて、元気よく頷いてしまった。その時の私は、ユウさんの言葉に強い説得力を感じたのだ。
ユウさんに手を引かれて、祭りの喧騒から遠ざかる。段々と少なくなる人通りに不安になったが、繋がれた手の温もりは心に迄伝わるようで、如何しても離す気になれなかった。阿保である。
結局、着いた先である神社には、両親どころか人っ子一人居なかった。当然だ、ユウさんは私を騙していたのだから。花火は木々に遮られてちっとも見えなかった。
涙腺の緩んだ私に、ユウさんはお菓子でご機嫌を取った。
「腹減ってないか?」
「減ったぁ……」
「そうか、羊羹ならある。食うか」
「やったぁ! 羊羹好き、食べる!」
そのままユウさんが神社の本殿に入っていくのに、疑問も持たずついて行った。典型的な誘拐のされ方である。最初の苦手意識は
そして羊羹と緑茶に舌鼓を打っているうちに眠気が襲ってきて、気づけば朝。流石に危険を察知して、血の気が引いた。慌ててお祭りの会場へ戻ろうと飛び出したが、既にその神社の大鳥居から外へ出られなくなっていた。見えない壁に阻まれて、指先どころか髪一本通れない。これはユウさんの
私は泣いた。号泣した。鳥居の前に座り込み、家に帰りたいと嘆いた。けれどその声も直ぐに止む。何時の間にか、背後から影が伸びていたのだ。振り返ると慈悲深い笑みを浮かべたユウさん居て、私にこう告げた。「今日から此処がお前ん
更に大声で泣き喚いた。
暫くして泣き疲れた私に、ユウさんは全てを説明した。
曰く、ユウさんは神であると。
この
いや意味が分からない。思考の飛躍が激しすぎる。興味を持ってから拐う迄に何があった。
今はそうツッコミ出来るが、告げられた当初は、そもそも神が存在すること自体が信じられなかった。此処が今迄生きてきた場所と別の世界であると伝えられても、実感が湧かなかった。ユウさんの人間離れした所業の数々に、納得するしかなかったのだが。
そうして神隠しに遭った私は、その日から反発する日々を送るようになった。
勉強は睡眠学習とかいう方法で、何時の間にか理解していた。お陰で人間の私には不要な知識が、徐々に脳を侵食していく。人の寝込みを襲うなんて卑怯な奴だ。
仕事は任せられなくなった。簡単な雑用もせず、与えられたものを甘受するだけの日々が続いた。屈辱的に思った私はハンガー・ストライキを試みたこともあったが、余りの空腹に三日と経たず断念した。
攻撃は全て防がれ返り討ちにあった上、そもそもユウさんは神なので死という概念がなかった。彼は如何すれば消えてくれるのだろう。
このままでは一生帰れないと思った私は、一度ユウさんに懐柔されたことにしようと考えた。忠順になった振りをして、油断した隙を突いて逃げる。その為に敬語を使うように、そして勉強や仕事を率先して取り組むようになった。始めはユウさんも変化を
そして
あの時は本当に怖かった。能面を付けた雑貨店員に事情を説明しようとした途端、背後の鏡から出てきた手が口元を覆い、そのまま中に引き摺り込まれて強制帰還。見慣れた畳の上に放り出されてしまった。
如何やら私の様子を、神術を用いて監視していたらしい。詳細を聞くと、私の逃走を警戒したユウさんは、私の一挙一動が感覚的に分かるように術を掛けたのだとか。
ストーカーよりも
説得は早々に諦めた。
こうして逃走に失敗した私は、以降厳重に行動を管理され、鳥居の向こうへは行けなくなってしまった。
しかしそのお陰で、他の存在にこの状況を訴えるのは、少なくともユウさんにとって不都合であることが分かった。帰れるかは分からないが、試す価値はあるだろう。
今度は入念に、沢山の時間を掛けてユウさんの信頼を回復させていった。それは未だ完治した訳ではないだろうが構わない。今日、やっと好機が巡ってきたのだ。
今度こそ逃げてやる。
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