隠され事

梔子紫亜

その壱

ゆっくりと世界が明るくなる。澄んだ空気が心地好い、早朝のこの時間から私の仕事は始まる。

 まずは参道の掃き掃除。軽く身嗜みを整えて外へ出ると、蔵から箒を取り出す。金木犀の木が近くにあるせいか、それは常に甘い香りを纏っている。

 大鳥居から拝殿の前までを一通り掃き終えたら、次は植物の水遣りに取り掛かる……のだが、昨晩雨が降ったので今日は無し。証拠に、紫陽花に垂れた雫が宝玉の様に輝いている。

 何時いつもならこの後起こしに行くのだが、今朝はまだ早すぎる。仕方ないので先に朝食の準備をしようとくりやへ足を向けたところで、形容し難い声と羽音がした。聞き慣れたこれはふみが届く合図である。振り返ってみると案の定、愛くるしいつぶらな瞳が此方こちらに近づいてきていた。

 羽を羽ばたかせながら私の目の前を飛ぶ鳩は、足に紙を括り付けている。これは所謂いわゆる伝書鳩という奴で、手紙を届けてくれる存在だ。本来の伝書鳩は帰巣本能を利用するのだが、此処ここでの仕組みはよく分からない。

 早速付けられた紙を解いて広げてみると、予想していた花菱はなびしではなく、亀甲きっこうの中に花の様な印を入れた紋が目に付いた。その隣や下には曲がりくねった昔ながらの字で何やら書かれてあるが、私にはほとんど読めない。

「この神紋……出雲大社? え、これ大国主神オオクニヌシノカミ様から⁉︎」

 思わぬ差出人に驚愕の声を上げた。

 大国主神オオクニヌシノカミ様といえば、出雲大社という神社の代表格で祀られる名高い神。『因幡いなばの白兎』では優しい神として伝えられているが、私の中では真面目な印象が強い。というのも、神無月に行われる定例会議では、何時も数多の神々を相手に場を仕切っている為である。

 兎に角、大国主神オオクニヌシノカミ様は偉い神様なのだ。雲の上のお方なのだ。物理的な意味だけでなく、比喩的な意味でも。

 関わりがないこともないが、手紙の遣り取りをする程の仲ではない。文が送られてきた理由など、大きな不祥事を起こして厳重注意されるくらいしか考えられないが……もしや。

 其処そこで私は、はっと息を飲んで口を震わせた。

 吃りながら鳩にお礼を言って豆を与えると、大急ぎで本殿へ向かう。直ぐにでも事情を聞き出さなければ、と力むように。

 先程立てた予定を消して、最重要事項に『叩き起こす』と『尋問』を加える。駆け足で本殿まで行くと、荒々しく門を開けて、中に居る存在へ声を掛けた。

「今すぐ起きてください! 貴方、何をやらかしたんですか!」

「う、んんぅ……うるせ……」

 薄暗がりの中の影は、私の声に反応してモゾモゾと動き、そして丸まった。

「こら、寝るんじゃありません!」

 土足で本殿の中へ入り、その毛布を引っ剥がす。抗議の唸り声がしたが気にせず、先程の文をその整った顔面に突きつけた。

如何どうしてこんな神から文が届くんですか。一体何て書いてあるんです?」

「……えー……と? あー、おーくにぬしからか。んん、きょーのー……は、今日の、とりの刻って、はぁ?」

 寝惚けた声が徐々に焦りを帯びていく。

 すっかり目が覚めたらしい様子で此方を見ると、その顔をしかめて言った。

「今日、大国主オオクニヌシが来るんだとよ」

「だから何故なぜですか!」

「知らねぇよ、酉一つ時の間に来るとしか書いてない」

 不機嫌そうに舌を打つ音が響いた。音源は非難を滲ませた声で文句を垂れ流しつつ、立ち上がって伸びをする。

「あー、怠い。急すぎんだろ。しろ作るのに何刻かかると思ってんだ」

 酉一つ時なら今から五刻——十時間以上の猶予があるけれど、客神を迎える準備をするには少ないくらいである。その主な原因は依り代と呼ばれる、神の代わりに参拝客を見守る存在だ。客神をもてなす間に必要なのだが、生成には多大な時間と労力を使うらしい。

「茶菓子もぇし、如何すっかな……」

「私が買ってきましょうか」

「は?」

 低く発せられた一音に、私の提案は一蹴される。可笑おかしくない話の流れだと思うのだが、相手は不服らしい。翡翠の瞳をすがめて却下する。

「駄目だ。また逃げるだろ」

「どれだけ前の話をしてるんですか。今更そんな気、起きませんよ」

 苦味のある笑みを溢すと、相手は渋々ながらも納得したようだった。時間と手が足りないのも、同意の後押しになったのだろう。

「……それもそうか、んじゃ頼む。大鳥居と商店街を繋げといてやるから、行ってこい」

「はい」

 一つ頷いて見せると、それの手が私の頭に乗せられた。優しく撫でてくるこの温かい手が、私は大嫌いだ。

 振り払って、更に言えば切り落としてやりたいのを堪えて、されるがままになる。下手に反抗しても、困るのは自分だから。

 彼は、当時十二歳だった私を拉致し、今も尚此処に閉じ込める軟禁する神様誘拐犯。名前を口にするのさえいとう私は、侮蔑と嫌悪と嫌味を込めて彼に渾名を付けた。誘拐犯の頭文字から『ユウさん』と。


 小学六年生ともなれば、既に不審者の対処は学校で嫌という程教えられた。

 例えばいかのおすし。知らない人に付いて行かない、知らない人の車に乗らない、大声で叫ぶ、直ぐ逃げる、近くの人に知らせる、みたいな感じの語呂合わせだ。

 だから、親と逸れたお祭りでユウさんと出会った時、当然私は警戒した。

「あ? お前迷子か」

「だったら何」

 揺れる提灯の灯りを背景にして、泣きそうになっていた私の前にしゃがみ込みつつ、声を掛けてきた男の人。高校生くらいの体格で涼やかな顔立ちをしている彼は、当時の私が苦手に思う人種に当て嵌っていた。

 私は怖さや恥ずかしさから、お母さんに着付けてもらった薄浅葱うすあさぎの浴衣を握りしめ、ぶっきらぼうに返事をした。彼がもし金髪だったり、派手なピアスを付けた男性であれば、私は何も言えず涙目になっていただろう。色彩だけでも大人しかったからこそ、出来た対応である。

 私の生意気な態度に驚いたのか、彼は目を少し見開いて、けれど直ぐに表情を和らげた。その様子を見て、実は良い人なのかもしれないと思った私はちょろすぎである。

「そっか、なら一緒に父さんと母さんを探してやるよ」

「……でも」

「お前一人じゃ、この中を探すのは難しいだろ」

 そう言って指差す先には、屋台と人混みがあった。まだ伸び盛りの身長では、簡単に埋もれてしまいそうな密集だ。

 確かにこれでは探すどころではない、だからこそ困っていたのだと内心うなずく。

「つっても、この中には居ないかもしれねぇけど」

「え?」

 如何して、と彼に目を向けると、今度はその指を空へ向けて言った。

「もう直ぐ花火があるだろ? 綺麗に見える場所を探してるかもしれない」

「あ、そっか」

 そんな訳ない。子供と逸れたのなら、普通の親は子供を探し回る。花火など気にしている筈がない。というのに、その時の私はそこまで考えが至らなかった。馬鹿である。

「花火のよく見える、良い場所を一つ知ってるんだ。俺と行ってみないか?」

「行く!」

 すっかり警戒を忘れて、元気よく頷いてしまった。その時の私は、ユウさんの言葉に強い説得力を感じたのだ。

 ユウさんに手を引かれて、祭りの喧騒から遠ざかる。段々と少なくなる人通りに不安になったが、繋がれた手の温もりは心に迄伝わるようで、如何しても離す気になれなかった。阿保である。しくはあの時の私は、ユウさんに洗脳されていたのかもしれない。

 結局、着いた先である神社には、両親どころか人っ子一人居なかった。当然だ、ユウさんは私を騙していたのだから。花火は木々に遮られてちっとも見えなかった。

 涙腺の緩んだ私に、ユウさんはお菓子でご機嫌を取った。

「腹減ってないか?」

「減ったぁ……」

「そうか、羊羹ならある。食うか」

「やったぁ! 羊羹好き、食べる!」

 そのままユウさんが神社の本殿に入っていくのに、疑問も持たずついて行った。典型的な誘拐のされ方である。最初の苦手意識は何処どこへ行った。

 そして羊羹と緑茶に舌鼓を打っているうちに眠気が襲ってきて、気づけば朝。流石に危険を察知して、血の気が引いた。慌ててお祭りの会場へ戻ろうと飛び出したが、既にその神社の大鳥居から外へ出られなくなっていた。見えない壁に阻まれて、指先どころか髪一本通れない。これはユウさんの神術人智を超えた力によるもので、神の住む世にある境内とすり替え、その上で閉じ込めているのだと後ほど教わった。

 私は泣いた。号泣した。鳥居の前に座り込み、家に帰りたいと嘆いた。けれどその声も直ぐに止む。何時の間にか、背後から影が伸びていたのだ。振り返ると慈悲深い笑みを浮かべたユウさん居て、私にこう告げた。「今日から此処がお前んだ」と。

 更に大声で泣き喚いた。


暫くして泣き疲れた私に、ユウさんは全てを説明した。

 曰く、ユウさんは神であると。

 このやしろに祀られるユウさんは、参拝客の様子を鏡越しに眺めるしか暇潰しのない、退屈な日々を送っていた。その為たまうつという人々の住む世に降りて、散歩がてらその様子を観察するらしい。あの夜もそれで祭りに訪れ、私を見つけた。そして本来ならば人には感じられない筈の自分と会話出来たことに興味を持ち、拐う隠すことにしたと。

 いや意味が分からない。思考の飛躍が激しすぎる。興味を持ってから拐う迄に何があった。

 今はそうツッコミ出来るが、告げられた当初は、そもそも神が存在すること自体が信じられなかった。此処が今迄生きてきた場所と別の世界であると伝えられても、実感が湧かなかった。ユウさんの人間離れした所業の数々に、納得するしかなかったのだが。

 そうして神隠しに遭った私は、その日から反発する日々を送るようになった。

 かくと呼ばれるこの世界の勉強を放り出し、与えられた仕事も放置し、隙あらばユウさんを捕らえてやろうとした。あわよくば殺そうとした。けれどそれは、どれも無意味な努力だった。

 勉強は睡眠学習とかいう方法で、何時の間にか理解していた。お陰で人間の私には不要な知識が、徐々に脳を侵食していく。人の寝込みを襲うなんて卑怯な奴だ。

 仕事は任せられなくなった。簡単な雑用もせず、与えられたものを甘受するだけの日々が続いた。屈辱的に思った私はハンガー・ストライキを試みたこともあったが、余りの空腹に三日と経たず断念した。

 攻撃は全て防がれ返り討ちにあった上、そもそもユウさんは神なので死という概念がなかった。彼は如何すれば消えてくれるのだろう。

 このままでは一生帰れないと思った私は、一度ユウさんに懐柔されたことにしようと考えた。忠順になった振りをして、油断した隙を突いて逃げる。その為に敬語を使うように、そして勉強や仕事を率先して取り組むようになった。始めはユウさんも変化をいぶかしんだようだったが、徐々に慣れて色んな仕事を任せてくれるようになった。

 そしてようやく買い出しを任される迄に成長した私は、お店で助けを求め——ようとして、ユウさんに阻止された。

 あの時は本当に怖かった。能面を付けた雑貨店員に事情を説明しようとした途端、背後の鏡から出てきた手が口元を覆い、そのまま中に引き摺り込まれて強制帰還。見慣れた畳の上に放り出されてしまった。

 如何やら私の様子を、神術を用いて監視していたらしい。詳細を聞くと、私の逃走を警戒したユウさんは、私の一挙一動が感覚的に分かるように術を掛けたのだとか。

 ストーカーよりもたちが悪いんだが。私のプライバシーは何処へ消えた。ああでも此奴こいつ、誘拐犯だった。常識とか説いても無駄か。

 説得は早々に諦めた。

 こうして逃走に失敗した私は、以降厳重に行動を管理され、鳥居の向こうへは行けなくなってしまった。

 しかしそのお陰で、他の存在にこの状況を訴えるのは、少なくともユウさんにとって不都合であることが分かった。帰れるかは分からないが、試す価値はあるだろう。

 今度は入念に、沢山の時間を掛けてユウさんの信頼を回復させていった。それは未だ完治した訳ではないだろうが構わない。今日、やっと好機が巡ってきたのだ。

 今度こそ逃げてやる。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る