アイリスの花言葉

日々人

アイリスの花言葉

自転車のブレーキ音が聞こえてきた。

時計を見上げると午後三時を過ぎたところだった。

揺れる影が一瞬、窓の外から作業場へ入り込んだ。

宅配ポストがコトンと音を立てる。

少し休憩を挟むことに決め、随分前から空になっていたコーヒーカップを手にすると、ゆっくりと腰を上げた。

仕事用のメガネから老眼鏡に付け替え、それから今しがた届いた手紙を手に取る。


7歳の女の子からだった。

仕事柄、小さな子どもたちからの手紙は後を絶たない。

手紙にはつたない字で、今抱いている切実な悩みが綴られていた。

目の前に並んだ、作りかけの小さな木箱に一度視線を移す。

子の成長を願い、親から子へ贈られる一つの小さな木箱。これは精巧なパズルになっている。

物心つく前から手元にあり、いつか開けられる時が来ると願い続ける、この小さな木箱に大きな夢を抱いてしまう子は少なくはない。

この手紙を書いた子は、そんな夢が急に手の中で音と共に崩れ、驚きと戸惑いを感じながら、その時に抱いた感情を誰にも相談できずに悩んでいるのだろう。

子どもたちは、その悩みの種となる『一つの箱』がもたらした意味を薄っすらと感じ始めた時、自ずとこの先の未来に対して不安を抱き始めたりするのかも知れない。

それは大人に向かって成長していく過程での、第一歩を踏み出したということに他ならないのだから、心配はしなくてもいいのだが。

今、そんな門出に立った迷い子たちには、私なりの言葉を手紙にしたためて返事を送ることにしている。

どうも文面は堅苦しい言葉になってしまうが、それもいつかわかってもらえる時が来ると信じて、こうして書いている。

その手紙には、いつも決まったようにして一つの昔話を添える。

この国では、生後間もない赤子に小さな木箱を送る習慣があるのだが、それがどういう経緯で始まったのかを、この子たちには是非とも知っていてもらいたい。



 ー ー ー ー



昔、この国が世界から孤立し、今よりずっと貧しかった頃の話だ。

戦争で国元を離れた一人の男が、戦地で妻からの便りを受け取った。

日付は5か月も前のもので、彼の手に渡るまでに何度も修羅場をくぐって来たことが汚れた封筒から察することができた。

その手紙には子を授かったと記されていた。既にお腹も大きくなっているだろう。

少し前の時勢であれば、今頃は妻の傍で生まれてくる子のためにと、日々の生活に努めていただろう。

しかしここ現実では戦況が思わしくなく、生還することが望めないことを隊の誰もがわかっていた。

そんな中で覚悟を決めていたものが、第一子の誕生を思うとそれが心残りとなり、喜びはあれども、何ともやるせない未練を感じてしまった。

我が子へ、たとえ自分が生きて帰られなくとも、何かできることはないかと悩んだ末に、何か贈り物をしたいという考えに至った。

しかし、ここには大そうなものなどない。

男は、その場に落ちていた木を削り、小さな箱をつくると、それを手紙と一緒に妻へと贈った。


子は無事に生まれたが、男は一度もその子を腕に抱くことなく戦死した。

子は父親の形見をいつも肌身離さず持ち歩いた。

その木箱は不思議な箱だった。

子どもの両手にすっぽりと収まる小さな箱。その角は丸みを持っていて全体が滑らかだった。釘やネジを使うことなく、何枚もの形の違う板が器用に組み合わさり、それでいてとても頑丈に出来ていた。

手紙には、組まれた箱はパズルを解くようにして開けることが出来るとあり、子が無事に成長し、箱を解くその時を今から楽しみにしている、と綴られていた。


その子が6歳を過ぎたある日のことだった。

軽く押したりねじったりと、何気なく触っていた木箱が何かの拍子に手のひらからばらばらと崩れ、からからと乾いた音を立てて床に零れ落ちたのだった。

戦地から届いた小さな箱。

母親からは何か入っているかもしれないね、と言われていたので、その子は楽しみにしていた。しかし、その中にはなにも入っていなかった。

足元に残ったのは散らばった木片だけだった。

泣きじゃくる子にそっと近づき、母親は言った。


「よしよし。


 きっとお父さんはね、喜んでいるわよ、キミが無事に育ってくれて」




 ー ー ー ー



戦後、この男が作った箱が他の地方でも見つかった。

男は他の戦友にも渡していたのだった。

この戦地からの贈り物は静かに広まり、やがては誕生した赤子の成長を願う縁起物としてこの国に根付いたのだった。

そして、私はそんな父の願いを引き継ぐようにして、この小箱の職人をしている。

箱作りに向き合っていると、誰とも知れない幼い子どもの姿が頭に浮かぶことがある。

そんな時、まるで当時の父の想いが私へと降りてきたかのように思えて、そんな時、私は父の愛を強く感じるのだ。




 ー ー ー ー







目の前の茂みに目をやると、薄く青い色をした草花が所々に咲いている。

自国の里にもよく生えていた。

小箱は無事に国へ、妻の元へと届いただろうか。

男の子か女の子か。

この手に抱いたこともないのに、我が子に想いを馳せると、戦場で窮地に追い込まれているというのに不思議と色々な想像をしてしまう。

少し大きくなった子の傍らには小さな箱があった。

常に持ち歩いていた馴染みのあった箱も、いつかバラバラに崩れる時が来る。

小さな瞳の前で、様々な形をした木片が散らばっていく。

箱の中で、期待に膨れ上がっていた世界は突如ほどかれ、一瞬にして現実の世界へ溶け込み消えていく。

それは当たり前にあることが、いつか急に目の前から消えてしまうことの恐れや悲しさを物語る、訓示のようなものになるのかもしれない。

でもどんな時代に生まれようとも、きっと誰しもが喜びと悲しみの交錯する、否応のない世界で生きていくのだ。

まだ見ぬ我が子へ。

ただただ強く生きていってほしいと、そう願ってやまない。







 ー ー ー ー




 というお話でした。

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