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スマホを操作する手が小刻みに震えていた。それでも、どうにかして電話をかけることができた。
繋がって――伊織はついさっき履き替えたズボンを強く握る。
「もしもし?」
電話は繋がった。その声で少し落ち着いた。とりあえず伊織は親しい誰かの声を聞きたかったのだ。電話をかけた先は、大学時代の友人だった。
「もしもし、真紀?」
「そうだけど……ごめん今外にいるから聞こえづらいかも」たしかに風の音が聞こえる。「それでどうしたの?」
伊織は大きく息を吸い込んで、吐き出した。呼吸を整えたかった。
「一応聞くけど、真紀じゃないよね?」
「なんのこと?」
「勝手に私の家に彼氏とか連れ込んでないよね?」
「は? そんなことするわけないじゃん」
唖然失笑だった。当然の反応だろう。合鍵は誰にも渡していない。真紀でないのは最初から分かっていたことだ。しかし真紀が「バレた?」とお茶目に明かしてくれることを伊織は願っていた。
「じゃあいったい誰が……」
伊織は頭を抱えた。得体の知れない恐怖が彼女を取り巻いていた。
「どうしたの、なにがあったの?」
そこでようやく、彼女のただならぬ様子を電話口から察したみたいだった。
「さっき見つけたの。ゴミ箱に……使った後のコンドームが、ゴミ箱に入ってたの」
「えっ?」本来なら携帯から耳を離してしまうほどの甲高い声だった。「それで……それどうしたの?」
「キッチンのゴミ箱の方に捨てた。あと言っとくけど、身に覚えはないからね?」
「わかってるよそんなこと。てか最初に私を疑うとはね」
「一応って言ったでしょ? それより、何でそんなものがあったと思う?」
「えー、んー」
ロダンのように考える真紀が目に浮かんだ。
「さっきは分かってるって言ったけどさ、本当は酔った勢いでやったんじゃないの? 忘れてるだけで」
「そんなわけない。私が下戸ってこと知ってるでしょ?」
「知ってるけど、もしかしたらたまたま酔うまで飲んで……ってこともあるかもじゃん」
「ない。絶対にない。断言できる」
「あっそう。まあ分かってたけどさ」
「分かってたなら最初から言わないでよ」
「だってそれしか思いつかないし……あっ」 真紀が何か思いついたらしい。「ストーカーとか?」
「ストーカー?」
「うん。悪趣味なやつとかいるじゃん。最近誰かにつけられたりとか、ないの?」
ここ最近のことを思い出してみた。しかし、思い当たる節はない。今日だって、普通に帰ってきた。何かあったとすれば、マンションの廊下で、山崎からシュークリームを貰ったことだけだ。
「ないと思う」
「ほんとに? 知らない間に勝手に家に入られてたとか、よく聞くよ?」
それを聞いて、はっとした。伊織はスマホを耳に当てたまま、ベランダに通じる掃き出し窓を確かめた。だが、鍵は閉まっている。それに、彼女が帰ってくる時、玄関扉も施錠されていた。彼女は今更ながら、恐ろしいことに気づてしまった。
伊織はリビングにある食器棚の引き出しを開けた。入居時、そこに合鍵を入れたのだ。しかし、中には通帳と印鑑しかなかった。彼女は絶望した。
「鍵。なんで。鍵が消えてる」
「どういうこと?」
「入れてたはずの合鍵がないのよっ」
伊織はややヒステリックになっていた。
「落ち着いて伊織。ほんとにストーカーとかされた心当たりはないの? もう一度よく考えてみて」
そう言われて、伊織は深呼吸した。言われた通り、もう一度よく思い出してみる。外でつけられたり、部屋で違和感を覚えたことはなかったか。
すると、一つ思い出した。思い出す程ではない。ついさっきの出来事だ。
部屋に帰ってくる前、エレベーターを出ると、山崎が部屋に入ろうとしているのを見た。それは一見、ごく普通の光景に思える。
しかし、よくよく考えてみるとおかしかった。マンションに着いた時、エレベーターは一階に止まっていたのだ。なのに彼女が七階で降りた時は、ちょうど今帰ってきたと言わんばかりの山崎がいた。本当にあのタイミングで帰って来たのだとすれば、階段を使わない限り、エレベーターが一階にあるのは奇妙だった。
伊織がマンションに入る時、入れ違いになった人はいない。かといって、七階まで階段で上るとは考え難い。
つまり山崎は、伊織が帰ってきたのを見計らって、あたかも偶然を装ったのだ。
伊織はテーブルに置いたシュークリームを見た。何故山崎があれを渡してきたのか。それは、彼女の部屋に侵入した時、冷蔵庫の中のシュークリームを見つけたからではないのか。山崎はきっと、伊織がそれが好きなのだと勘違いしたのだ。
そして必然的に、コンドームの仕業は山崎となる。あんな気色の悪い真似をするなら、シュークリームにも何か手を施しているに違いなかった。
「もしもし?」
伊織は真紀に呼びかけた。しかし声は返ってこない。画面を見てみると、電話が切れていた。間違って押したのかもしれない。
そう思い、もう一度かけなおそうとした時だった。
ピンポーン。
インターホンが鳴った。セキュリティマンションではないので、それが玄関扉に添えられているものであることは確実だった。つまり、扉の前に何者かがいるということだ。
伊織は慌てて真紀に電話をかけた。手がぶるぶると震えていた。
お願い、真紀、出て、助けて――。
そう心に願った時、聞き覚えのある着信音が玄関の向こうから聞こえてきた。
「なんだやっぱりいるんじゃん。伊織、私だよ。真紀だよ。心配だから来たんだけど」
伊織は崩れ落ちるようにして、その場にしゃがみ込んだ。彼女は泣いていた。
伊織は何とか立ち上がり、玄関に向かった。向かいながら、ある違和感を感じていた。真紀の家は、伊織のマンションから電車で三時間もかかる所にある。真紀は元々、こちらに来るつもりだったのだろうか。
しかしそんな疑問は、一瞬でどうでもよくなっていた。
サムターンを回し、チェーンを外した。何の警戒も無しに、扉を開けた。
「真紀、ありがとう、わざわざ来てくれて」
「うん。いいよ。気にしないで」
それをいった真紀の瞳が、どす黒く濁っているように見えた。
様子がおかしい、と伊織は思った。
その時、真紀が何かを握っているのがわかった。伊織は視線を落として、それを確かめた。
出刃包丁だった。
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