追う者は追われる者
池田蕉陽
1
エレベーターは一階に止まっていた。なので待つことなく乗れた。七階のボタンを押す。出てすぐ左に曲がり、突き当たりにあるのが彼女の部屋だった。部屋の前には階段がある。
廊下に出ると、ちょうど他の住人が部屋に入ろうとしているところだった。その住人は山崎というおそらく30代の男で、伊織の隣に住んでいる。彼も仕事帰りらしく、スーツ姿だった。
「こんばんは」
伊織から先に挨拶した。
「こんばんは」
男が挨拶を返す。すれ違った時は基本このやりとりだけだ。しかし、この日は違った。
「あの、すみません」
鍵を探そうと鞄を漁っている時だった。
「あ、はい。なにか?」
「もしよかったらなんですけど、これ」
そういいながら男は片手を差し出してきた。その手には見覚えのある箱が握られていた。
「上司からシュークリーム貰ったんですけど、実は僕苦手でして。よかったら、どうです?」
照れ笑いのような顔を男は浮かべた。
「え、いいんですか?」
半ば反射的だった。
「どうぞどうぞ。ついさっき頂いたものなので、全然問題なく食べれると思います」
「あの、その、ありがとうございます」
「全然気にしないでください。それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
男が部屋に入ると、鍵を閉める音がした。
伊織はシュークリームの箱を掲げるようにして見る。そして、小さくため息をついた。
――どうすんのよこれ。
冷蔵庫の中には、山崎からもらった箱と同じものが入っていた。先日、彼女の上司から頂いたものだ。しかし、未だ手をつけていない。彼女もまた、シュークリームが苦手だったのだ。男と一緒で断れず、ついつい受け取ってしまった。次また同じようなことあれば勇気を出して断ろうと決意していた。どうやら、その決意は脆かったみたいである。
伊織はシュークリームの箱をテーブルに置いた。一人暮らしの冷蔵庫には入りきれなかったのだ。冬なので、すぐには傷まないだろうと思った。というより、もうシュークリームのことは考えたくなかった。
シャワーや洗濯やらを済ましているうちに、あっという間に日付けが変わろうとしていた。さらに座椅子に腰かけ、録画したドラマを堪能していると、一時になっていた。
「もうこんな時間か」
明日も仕事だった。用事は一通り済んでいるので、寝ることにした。電気を消し、アラームを六時半にセットし、ベッドにダイブする。
はっ、とすぐに上半身を起こした。忘れていた。コンタクトレンズをしたままだった。
部屋は暗いままだったが、外すのは困難ではない。慣れた手つきで摘み、人差し指にレンズを乗せた状態でケア剤を探す。たしかナイトテーブルの上に置いていたはずだ。
伊織の予想通り、そこにケア剤はあった。手を伸ばそうとする。その時、ナイトテーブルの前に配置しているゴミ箱が気になった。
見てみると、中に変なのものが入っていた。暗いのと、視界がぼやけていたのもあって、それが何なのかは分からなかった。ティッシュではなさそうだ。
伊織が躊躇いなくゴミ箱から取れたのは、ここが彼女だけの部屋だったからだ。一人暮らしでもなければ、少しは警戒してたかもしれない。
指がそれに触れると、彼女は眉を顰めた。ぬめぬめしていた。何だろう、と顔に近づけてみた。
異臭がした。自分が手に持っている正体が分かり、ひっ、と悲鳴が漏れた。
彼女は咄嗟に、それを素早く投げ捨てた。壁に当たり、間抜けな音がした。条件反射で、手を激しく擦るようにズボンで拭く。
どうしてあんなものが。身に覚えはない。恋人はここ一年いない。セフレもいない。だから、あんなものがあるはずない。
使用済みのコンドームなんて、あるはずない。
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