ダイバー・シティ
井崎
第1話 food
そいつは、カタツムリを食べていた。
高級そうなフランス料理店で、庶民には使い方など分からないような器具を上品に使って、というふうではない。そいつはジメジメしたブロック塀の前に屈みこみ、素手で野生のカタツムリを食べていた。
こんな奇行をする奴はまともではない。知らん振りをして素通りするのが吉だろう。
普段の私ならそう考えるはずなのに。あろうことか、今日は気まぐれでその奇妙な男に声を掛けてしまった。
「あの、何をされてるのですか?」
そいつはゆっくりと顔をあげる。冷たいその瞳からは、なんの感情も読み取れない。背筋がゾクッとするほどの無の表情だった。
……返答はなかった。そいつは片手にカタツムリを持って、私の顔をじっと見つめる。
気まずい沈黙に耐えきれなかった私はもう一度口を開く。
「あの…」
「何だ」
相も変わらず無表情なそいつは短く言い切った。
「あ、いや、何をされてるのかと思いまして」
「食事をしている」
「食事って……それ、カタツムリですよ?」
「おかしいか?ここの住人は貝を食べると聞いたのだが」
そいつは間違っていることは何も無いとでもいうふうに堂々と言い放った。その言葉からは真剣さ以外の何も読み取れない。
戸惑いながらも、私はそいつの質問に真面目に答えた。
「おかしいか、おかしくないかでいったらおかしいですね」
そう言うと、そいつは初めて表情を動かした。眉をほんの少しピクリとさせただけではあるが。
「……なぜだ?」
「確かに、私達は貝を食べますし、場合によってはカタツムリも食べます。でも、道端に生息しているものをなんの調理もせずに食べはしません」
私の言葉を聞き、そいつはしばらく考え込む。そして、片手に握りしめていたカタツムリをそっと地面に戻した。
その真剣さと滑稽さのミスマッチに私はついつい吹き出した。ハッと口元を抑えた時にはもう遅く、そいつは私をじっと見つめていた。
不愉快にさせてしまっただろうか、と気にしながら私はそいつの次の言葉を待つ。
「いいことを聞いた。礼を言おう。こういう時は『ありがとう』だったな」
そう言って、そいつは手を使わずに口を横に引いた。きっと笑みをみせたつもりなのだろう。だが、そいつの笑顔はこのような酷い表現をせずにはいられないくらいには不自然であった。
今日限りの出会い。赤の他人。だけど、この奇妙な笑顔を忘れることはないのだろう。私はなんとなくそう思った。
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