噂の根

猫に鬼灯

噂の根

 記憶の片隅にしつこく残っている今ではもう取り壊された廃屋敷は何時だって勝手に現れてくる。その廃屋敷というのは僕が高校を卒業する直前までは主人がいないにも関わらずどっしりと図太く建っており、成人男性を余裕で越す大きさで噛み合わず歪んでしまった門から見える屋敷の様子は、雑草が茫々とした庭と経年劣化により草臥れきった洋風建築の家は正に幽霊屋敷と言っても過言ではなかった。そんな廃屋敷だが、もしも誰にも放って置かれず綺麗に保持されていたなら、少女が夢に描きそうなアンティークのドールハウスとして建っていたであろう面影が散見するぐらいの美しい佇まい、屹度男の僕でも見惚れるぐらいで、眉を顰めて廃屋敷を見たいた人等をも黙らせる事の出来る美しさだったに違いない。その廃屋敷、いつから使われていないのか、どのような人が住んでいたかとかは街の誰もが分からなかったが、曰くありげな風貌のおかげか廃屋敷らしく恐ろしいながらも眉唾物レベルの噂話があった。

 その噂はたしか複数存在したと思う。曖昧な訳は廃屋敷の話になった際に、話者や噂話を聞いた時の年齢によって内容が異なっていたのだ。小学生の頃は教師から、廃屋敷に近付かないようにという含みを持たせた話として「夜な夜なお屋敷に住んでいた主人の亡霊の声が聞こえる」、中学生の頃は級友の女生徒曰く「丑三つ時になると屋敷内でパーティーが行われてそれを見た物は二度と帰って来れなくなる」、高校生の頃は親しい友人達曰く「逢魔時になるとお屋敷に住んでいた女の子の霊の歌声が聞こえる」と言った具合だ。基本的に霊が絡んでいる話ばかりだが内容はてんでバラバラ、どれも胡散臭く、派手な尾鰭と背鰭が付いているみたいなものばかりだった。しかし、高校生の頃の噂話は如何やら信憑性が強かったらしく、校内で声を聞いたものや果ては影を見たと言う生徒もいたらしい。

 それを聞いて好奇心を擽られた僕の友人達は噂を確かめよう屋敷に足を運んだ。その時強引に連れ立って行かれそうになったが、その手の話も場所も苦手な僕は頑としてその計画には乗らず丁重にお断りをしたが、とは言え多少なりとも気になってはいたので後日結果をそれとなく聞いてみたら、侵入を試みた際に巡回中の警察官に注意を喰らって了い入ることすら出来無かったらしいので、どの噂話も真偽は分からないままだ。




 何故今は存在すらしていない廃屋敷を思い出したのか、僕の奥さんがアンティークドールハウスを買ったのが切っ掛けなのだ。二ヶ月ほど前におずおずと申し訳なさそうに購入の相談をされた時、僕には彼女の楽しみを奪う権利は無いし僕自身も可愛らしい物が好きなのでどんな物を買うのかを知らないまま快諾をした。その数日後にドールハウスは滞りなく我が家に届き、受け取った彼女は小さいながらも結構な大きさのそれを壊物でも触るかの様に丁寧に開けていた。その顔は生き生きとしていて見ている僕もとても心地が良いものだった。しかし、包みを被っていたドールハウスが姿を表した時にはそんな明るい感情は奈落の底まで落ちて、思わず息を飲み込み言葉を失った。

 彼女が購入したのは、白亜の壁と深いブラウンの格子状の窓とほんのり明るい黒の屋根が印象的な外観と、小人が入れる様な可愛らしい玄関扉を中央として左右対象の違い一つないアンティークのドールハウス。何も知らないのであれば美しいドールハウスなのだが、僕はそうは思えなかった。彼女が購入したドールハウスのその姿は、まさにあの廃屋敷を綺麗に保ち小さくした様な、生き写しであると言い切ってしまえる程にそっくりなドールハウスであった。敢えてその白亜色を泥や水で汚し窓枠を故意にささくれ立たせ、雑草の生茂る荒れ果てた公園に置けば屹度あの廃屋敷のジオラマが完成するだろう。思わぬ再開に閉口し竦然としてドールハウスに視線を送り続けていると、誰よりも可愛らしく笑っている彼女は「これだけでも綺麗ね」と独り溢した。

 遠い記憶の中にあって現在ではこの世の何処にも無い筈のものが、なりを小さくして自分の家にあるのというのはどこかむず痒い気分である。とは言え僕の勝手な心持ち一つで彼女に行なった快諾を覆すわけにはいかない。そんな考えを絶対に彼女に暴かれないように、休日の度に少しずつ内装を仕上げていく華奢な背中をぼんやりと眺めていた。子供にみたいに目を輝かせ黙々と作業をする彼女、時折蚊が鳴く様な声で「確か書斎は大きな本棚があったからこんな感じかしら」とか「寝室はこうかしら」なんて呟いている。何やら参考にしているものがあるらしい。

「そのドールハウス、モデルでもあるのかい。」

 ただの興味本位の軽い質問だったのに、

「えぇ、高校生の頃に見たお屋敷を参考にしているの。もう取り壊されちゃったんだけど。」

 とんでもない重さの答えとなって返ってきた。




 私が高校を卒業する少し前の頃までかしら、学校の近くにもう何十年と使われていない今にも湮晦いんかいとしそうな廃屋敷が建っていたの。街の人はみんな気味悪がって嫌っていたみたいだけど、私はそのお屋敷をとても気に入っていたわ。取り壊しになるって聞いた時はそこのリビングの中で暫く身も世もないのかってぐらいに泣いたぐらいに。屋敷の中に、えぇ入ったわよ。だってある時から取り壊されるまでは、放課後は毎日のように足を運んでは自分の家みたく寛いだりしていたの。

 ごめんなさい、これだけじゃあ分からないわね。一寸長くなるけど思い出話と思って聞いてくれるかしら。さっき話したある時と言うのは高校三年の始まりの時で、昏昏とした雲が覆っていたお天気の日よ。学校から帰る道中いつも通り一人で歩いた時に、朝から粒の一つだって落ちてこなかったくせに制服から髪から水が滴るぐらいの雨になったの。大丈夫とタカを括って傘を持っていかなかった私は一応走って帰ったのだけど、あんまりな雨脚の強さで前が見えないのと鉄砲の様な粒の痛さでこれ以上進んだ方が逆に危ないか知ら、なんて狼狽していた時に丁度近くにこのお屋敷があったのを思い出したの。雨を凌げるならなんでも良かった私は「玄関先を借りてしまおう」と、考えなしに廃屋敷の敷地をなけなしの力で守っている大きな門に出来た隙間を潜って敷地に入ったの。今でこそ考えたら未成年がたった一人で、長年誰も手を付けていない廃墟で無理やりにでも雨宿りしようだなんて浅はかな事よね、もしかしたら妙な輩がいるかもしれないのに。

 騒がしく玄関の屋根下に転がり込んだ私は、持っていたハンカチで軽く髪と顔だけ拭き取って漸く一息付いたわ。そして止せばいいのに、自分の傍に静かにむっつりと機嫌悪そうに座っている御老人みたいな廃屋敷を間近で見て、雨で濡れた寒さとは違った冷たさが頭の天辺から足先までに広がったの。級友達の会話を聞き齧っただけの軽い存在、ただの通学路の通り道の一景色でしかなかったのに初めて怖いと感じ取ったわ。

 近くで見ると思ったよりも劣化の激しい壁、大小様々なささくれが立つ色褪せたブラウンの窓の木枠と水垢まみれの窓。その窓には未だにレースカーテンが垂れ下がっているけれど、吐息程の弱さの風でさえ呆気なく崩れそうなぐらいにオンボロ。外へと流れ出てくる真黒な影は無機質極まりなくて、ずっと眺めたら正気を違えそうな暗さに吸い込まれそうな感覚になって思わず体ごと目を背けたわ。そんな屋敷の怖さに触れた私は一刻も早く離れたかったけど、空からは屋敷が降らせたかの様な強すぎる遣らずの雨が降っていて帰れなくて早く降り止むのを願うしかなかったわ。


 寒さと恐怖で体を縮こめていると玄関から少し離れた所にある窓がガタンと音を立てたの。不意を突かれたから思わず声を出して驚いたわ、だって窓枠が壊れたわけでもないし、窓ガラスが割れたわけでもないのに音がなったのよ。そして弾みで背けていた視線を思わず屋敷に戻し今にも何か飛び出てくるのではと警戒していたけれど、結局一度大きく鳴っただけで何処にも可笑しなところが無かったし何一つ起こらなかった。多分風のせいで音が鳴ったのね。その時はそこまで頭が回らなくて、警戒が中々解かずに暫く音がした窓を見つめていたわ。結局何も起こらなくて、その事に胸を撫で下ろしたのだけれど、同時に恐ろしいと思っているはずのお屋敷に対して殺されそうな好奇心がむっくりと起き上がったの。

 どうしてかしらねストックホルムシンドロームみたいなものか知ら、兎に角視線をまた屋敷に戻した時には全ての見方が変わっていたの。白亜の壁はくったりとしてはいるものの凛と背筋の伸びるみたく、窓は年月を重ね深く喜怒哀楽が刻みこまれた皺みたいに、レースカーテンと無機質に感じていた影は今でも秘密を守ろうと柔く垂れ下がる姿は何処かいじらしさがあったわ。顰めつらしく座っている老人にしか見えなかったのに、その時にはもう安楽椅子にでも座った老婆がそこにいたわ。粛々とした美しさに恐怖なんかすっかり忘れて只管に見惚れたの。

 外観を彼方此方舐めるように見ていると、少しでも力を込めただけでも壊れそうなドアノブが鈍い光を反射させて私の目を突き刺したの。もう話の先を読まないでよ。そう、自分の家にでも帰る気持ちでそっとドアノブを捻ったわ、すると軋んだ音を少しだけ鳴らしてぎこちなく開いたの。えぇ開いたわよ、やだ穴が開いた壁から入っていたの思ったのね。あとでよく見たら鍵の部分が経年劣化によって壊れて了ってたみたい。まぁ私も吃驚したわ、幾ら何でも開くだなんて思っていなかったもの。


 そのまま「お邪魔します」だなんて律儀に声をかけて入ったわ。屋敷の中も外観に負けないくらいの廃れっぷりだったけど、室内のおかげか幾分かは綺麗だったわ。でも長年管理されていないから彼方此方埃を被っていたわ。床なんて今にも抜け落ちそうだったけど、靴のまま思い切って玄関を上がってみると存外頑丈で微かに軋む程度で済んだの。多分頑丈に建てられていたのかもしれないわ。

 屋敷の中に入って何処から見て廻ろうかと辺りを見回すと、玄関近くに中途半端に開いていた軽い扉を見つけてそこに入ってみたの。廃屋敷らしく軋んだ音を立てて扉を開くと、家具の類がほぼ一式揃っているリビングだったわ。ささくれ立った大きな食卓と四脚の椅子、団欒用と思しき黴臭くてシミ塗れのソファと整えさえすればまだ使えそうなローテーブル、中身の無いガラス扉のズレたキャビネットが屹度もう使わないからって捨て置かれていたの。更に奥の方へ行くと、もう綺麗に落ちないであろう汚れが目立つ乾涸びたキッチンもあって、どれもいつ頃かまでかは判らないけれど確かに人が住んでいる家として存在していたんだと感じたわ。

 でもリビングにあったのはその家具ぐらいで、目立っておかしな物は何も無かったのに驚いたわ。と言うのもね、その廃屋敷幾つか噂があって、その一つにお化けがパーティーしてるって噂をチラッと聞き齧っていたの。

 当時の私は多分誰か人の仕業だろうと思って真剣に取り合って無くて、入った時に漸く思い出したぐらいに粗略そりゃくにしていたわ。思い出してから改めてリビング全体を見ても、誰かに荒らされた様子も無ければ物が散らかっていた様子も無い。況してや噂のパーティー跡も無かったし、キッチンにもカトラリーはおろかカップの一つだって無かった。そんなひっそりと朽ちているだけのリビングを見て、大人が注意するために作った嘘話なんだなって分かったわ。


 リビングを出てちょっと離れた所に階段があって、見えない手招きに誘われた様に何も考えずに二階に向かったわ。階段こそ抜け落ちるんじゃないかって冷や冷やしたわ、そっと昇ったけれど如何したって派手な悲鳴が上がるし、玄関ホールとリビングの床よりも随分心許無かったわ。まぁ、屋敷を使っている間に一回だって抜けた事がないのだけれど。

 二階には四室お部屋があって、敢えて一番奥の部屋に入ってみたの。其処は子供部屋として使われていた部屋で、リビングと同様に要らなくなったらしいベッドと小さなキャビネット、それから床には縫いぐるみが三つと恐らく男の子のいる家庭だったのかなって思える様な玩具の汽車とレールが転がっていたわ。

 ベッドはリビングにあったソファと同じ様に黴とシミ塗れで使い物にはならなかったけど、縫いぐるみと玩具は何一つだって壊れていなかったわ。でもその二つ、埃まみれの中に長年いたせいでもう自分を使ってくれる人はいないことを悟ったのか暖かさはおろか冷たさすらも無い、ただの物として無感情に床に転がっていたの。そんな彼らを見たらどうしてもほっとく事が出来なくって、縫いぐるみ達は床よりかはマシかもしれないと思ってベッドに並べて、汽車のおもちゃはキャビネットの上に置いたわ。その時ね、気持ちの問題なのかもしれないけれど、少しだけ本当に少しだけ彼らの雰囲気が暖かくなった様な気がしたわ。

 子供部屋の玩具たちを慰めた所で、焼けたレースカーテンが若干の茶色を帯びて白く光出したの。崩れそうな布に人差し指を引っ掛けて外を確認したら、酷い降り様だった雨がすっかり弱くなって雲も真白で隙間から水色が見えそうなほどに薄い所もあるほどになっていたから、名残惜しいけどこれなら帰れそうって思って玄関に向かったわ。いざ出ようとした時に、最後に一目だけでもと思ってもう一度玄関ホールを見渡すと、最初は気付かなかったのだけどリビングの出入り口の斜向かいにやけに小さな扉があったの。小学生ぐらいの子供なら屈まずに通れるぐらいか知ら、えぇ結構小さかったわ。

 帰ることをすっかり忘れて一体どういう目的の部屋なのか気になって近づいたのだけど、他の部屋と違って隙間なくピッタリと閉まっていて鍵穴のある扉だったから入れそうに無かったわ、一目見ただけだとね。どうしても何か知りたくって、無駄を承知で試しにドアノブを捻ってみたら音も引っ掛かりもなくするりと開いたの。




 開いた先にあったのは下り階段だったわ、地下室と玄関を仕切るための扉だったみたい。光が差し込んでいないせいで、ちょっと入っただけで前後左右が分からなくなるほどの暗さだったけど、ただその暗さが廃墟のお屋敷なのに生きている様な妙な呼吸を感じたの。そのアンバランスさで益々地下室のことが気になってしまって、鞄から携帯を取り出して画面の明かりを懐中電灯代わりにして小さな扉を潜ったわ。

 怖さ、無かったわ、だってもう彼方此方部屋を見て回ったのよ。段数の少ない階段を降り切ると、お屋敷に比べるとあまり綺麗とは言えない雰囲気の部屋が広がっていて、天井には凄く小さな窓があったのだけれどそれのせいでドラマや漫画で見る独房にも似ていたわ。

 地下室は小さな窓のお陰で、階段と比べると若干明るくなった外の光が申し訳なさそうに入り込んでいたわ。明かりがなくても大丈夫そうだと思って携帯を鞄に戻して地下室をあのふた部屋と同じ様に見て廻ったわ。其処にはね、本当に使わないから取り敢えず置かれたけれど、捨てる事はおろか存在すらも忘れられた物に溢れていたわ。やたら大きな花瓶とか劣化が激しくて元は何が描かれていたのか分からない絵とか、兎に角やけに重そうな贅沢品ばかりが山の様に置かれていたわ。

 お屋敷以上に存在を忘れられてひっそりと朽ちていく彼らも中々に目を惹かれて汚れる事を厭わずに手に取ってみたり、もっと詳しく見ようとして顔を近づけて見たりしたわ。彼是と見ていく内に階段から一番離れたところまで無意識の内に足を運んで了うと、黴と埃の匂いしかしない筈の廃屋敷では有り得ないぐらいに生きた匂いが鼻の中に入ってきたの。タバコのやにと安っぽいインスタント食品と人の汗、美しく老いているあの屋敷には相応しくない人の生の塊がぐちゃぐちゃに混ざった匂いだったわ。

 また鞄から携帯を取り出して最も匂いがする方へ画面の明かりを照らすと、生きている人間の生活があからさまにそこにあったの。そこの一角の壁だけ薄らと茶黄色に濁っていたり、脂で汚れきった服と食い散らかした食品ゴミが散乱していたり、恐らくリビングに静かに座っていたであろうやけに豪奢な灰皿がこき使われていたり、如何考えても屋敷の地下室に行く宛の無い無頼者が住み着いていたの。その光景といったら、美しく粛々と朽ちている廃屋敷を冒涜しているみたいで許せなかったわ。特に、この世で最も低俗な本も服や芥に紛れて散乱していたのが一番許す事ができなかった。


 どこにぶつけるでも無い怒りを沸々と溜めこみながらも一心に無頼者の生の塊を睨めていると、玄関へ向かう階段の上の方から調子の外れた汚くて低い音の鼻歌が聞こえてきたの。一瞬でこの荷物の主が帰ってきたんだと分かったわ。勿論一刻も早く逃げようとしたわ、でも肝心の逃げ道は鼻歌が聞こえてくる階段ぐらいしか無いから無頼者と正面切ることになってしまうのよ。だからどうしようと焦った私は、無頼者の荷物から一等離れた所にある忘れられた贅沢品の山の影に隠れて、どの品物よりも小さくなろうと縮こまった。瞬間に地下室の階段を下りきった音が聞こえてきた。

 身を隠せた事には安心したのだけれど、どうしたら無頼者に見つからず地下室から脱出できるのかと悩む羽目になったわ。一番良いのはそいつが地下室の階段を見ていない隙を突いて音を立てずに出る事なのだけれど、夜行性の動物でも無い限りそんな芸当は無理でしょう。でも、一番の最適解はこれしか無いって思った私は、取り乱れる脳内を鎮めつつ取り敢えず無頼者の観察を始めたの。


 無頼者は男だったわ。見た目は大半の人が指をさして「紛れもなくホームレスだ」と言ってしまえる程に汚い身なりをした。私の方に背中を向けていて顔は分からなかったけど、どこかでお酒でも沢山飲んできたのか座っているだけなのに上体がふらふら揺れていて、下品に音を立てながら何か食べていたわ。あんまりにもその音が大きかったものだから上手に紛れてここから脱出できるかもしれないと、一刻も早く無頼者のいる地下室から出たかった私は脆すぎる光明を辿ろうとしたの。

 彼奴の一挙手一投足を見逃しまいとその背を睨め付けながら、鞄を離さない様にしっかりと持ってゆっくり立ち上がった時、無頼者は満足するまで食べきったのか大袈裟なおくびを出して騒がしく寝転がったの。天井を向いていたのだけれど、もしかしたら視界の端に私の姿が引っ掛るかも知れないと、完全に出るタイミングを失ってまた贅沢品の山に隠れて様子を見たわ。するとね、無頼者は散らばる低俗な本を左手で掴んで右手の親指を下衣に掛けだしたの。図らずも目撃してしまった無頼者の行動は、抜け落ちてしまった筈の根付いた感情が、もう一度目に痛いぐらいに鮮やかに色付いたの。

   ---嗚呼、このまま彼奴を放って帰れないわ。---

 そう思った私は、忘れられた贅沢品の山から一つ重たそうに転がっている花瓶を手に取って、無頼者目掛けて投げたの。安心してよ、当たりはしなかったわ私の鈍臭さ知っているじゃない。花瓶は大きく逸れてそいつの横を掠めて壁にぶつかって派手に割れちゃった。自分以外誰もいない筈の屋敷なのにものが飛んでくるなんて誰でも驚くでしょうね、無頼者もそうだったわ。

「ヒィ・・・何だぁ。」

 なんて間抜けな声出して半殺しの目にあっている虫みたく服と芥の中をのたうっていたわ。それをいい事に矢継ぎ早に物を投げつけたの、結局全部外れて一回だって当たらなかったのだけど。そして最後の一つになった元贅沢品を投げようとしたら無頼者と目が合ったわ。情けなく垂れ下がっていた目が見開いて喚くだけだった口があんぐりと開いたの。遂に私のことがバレてしまって、このまま走って逃げるべきか怯ませる為に最後の一つを投げつけてから逃げるべきかと迷っていると、そいつは手当たり次第に荷物をかき集めるだけ集めて、慌ただしく階段を駆け上って行ったのよ。

「出たぁ遂に出やがったぁ・・・。」

なんて言いながらね。私を何かと勘違いしたみたい。

 その次の日から壊されるまでよ、入っちゃ駄目だし使うのも駄目だと分かっていたのだけれど私だけの屋敷になったのは。最初は無頼者が残して行った芥の処分に随分と梃子摺ったわ。

 そうそう、芥を処分するために屋敷の裏に捨てようとして裏庭に行った時、其処には街角にあるゴミ捨て場みたく物が溜まっていたの。無頼者が捨てた芥もあるのだろうけど、際立って目を引いたのは焚火跡と大量に転がっていた空いた缶ビール、多分だけど裏庭をゴミ捨て場兼他の無頼者との溜まり場にしていたみたい。まぁ敷地内ではあるけれど屋敷内じゃ無いから別にいいかなと思って、私もそこに無頼者の忘れ物を適当に捨てたわ。

 その荷物を雑に捨てていく中で思ったの。夜中に屋敷の主人の亡霊の声が聞こえるっていうのはその無頼者の汚い鼻歌のことで、そしてお化けのパーティーは其奴が呼んだ無頼者達との酒盛りの声が、噂話の大本なんじゃないかなってね。




 嬉々としてドールハウスのモデルとなった廃屋敷の話を続ける彼女。本当に屋敷が好きだったのだろう。夢見心地に浸っている笑顔は誰にも負けないぐらいに可愛らしかったが、裏腹に話す内容は本当に若き日の彼女が起こしたとは到底思えない事が次々と口から辷り出てくる。聴き始めた時は何故彼女が廃屋敷の存在を知っているのかと肝が冷えたが、彼女と交際に発展した理由は同郷だったからだと思い出した。今はもう無い廃屋敷のことを知っていたっておかしくは無い。そして切掛を忘れていたことは口外せずに墓場まで持って行こう。

 彼女は未だ廃屋敷の思い出を語り、僕はそれを聞きながら一つ考えに耽ってしまう。しかし少なからず恐れていた噂の正体というのは随分と呆気ないものだった、亡霊でも何でも無い不成者ならずものたちが正体だったなんて。殆どの人間が自分の住処を持っているここではパッと思い付かないだろう。

   ---待てよ。---

 脳味噌のゾワリとした蠢きを感じ取ると、ころころと鈴の様な音で話を続ける彼女の声が遠くなる。

 館の主人の亡霊の声が聞こえる噂の根っこは彼女が出会い撃退した無頼者の鼻歌で、丑三つ時になると屋敷内でパーティーが行われている噂の根っこはその無頼者と仲間達の酒盛りだ。では高校生の時分に聞き齧った「逢魔時になるとお屋敷に住んでいた女の子の霊の歌声が聞こえる」噂の根っこは一体何なのだろう。そう言えばこの噂だけは他の二つの話とは違い、夜中ではなく逢魔時つまり夕方だ。

 ・・・ある仮説にたどり着いて、和かに笑い話す彼女の横顔を見つめる。

「なぁ、透子。」

「なぁに。」

「君はそのお屋敷で歌を歌ったりしたのかい。」

「ええそうよ、貴方もやっぱりその噂知っていたのね。」

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