俺が女体化したら親友が自慰部屋から出てこなくなった。
エノコモモ
俺が女体化したら親友が自慰部屋から出てこなくなった。
晴れ渡る空にそよそよと優しくカーテンを揺らす風、驚くほど気持ちの良い朝。リビングのテーブルの上は今日も、賑やかだった。
牛乳がなみなみと継がれたグラスは、朝日を浴びて煌めいている。ぱりぱりに焼き上げられたちょっと固めのバケットの間には、水分をふんだんに含んだレタスとトマト、とろんと溶けたチーズが挟まる。優しい橙色のスープからは、甘みを含んだ芳醇な香り。
「今日のスープはかぼちゃかあ…」
鼻を動かしながらうっとりしていると、キッチンの向こうで影が動いた。
「顔を洗ってこい。
俺の名前を呼びながら、透明なボウルを差し出してくる。中には鮮やかな一口大の果物が並び、上にはヨーグルトがかかっている。
「おはよ。
それを受け取りながら、俺も彼の名前を口にする。俺よりも一回りでかい大きな体。ふわふわの毛並みが眩しい。
「あれ。お前、夏休み今日から?」
ダイニングに対面で座って朝食を摂る。サンドイッチにかぶりつくと、ざくざくと小気味の良い音がする。胡椒が少し多めにかかっていて、とても美味しい。
「ああ。あと一ヶ月は大学は休みだな」
その返事を聞いた俺の口からは、ぽろりと本音が溢れる。
「夏休みいいなー」
「なら代わるか?」
間髪を容れずそう返されて、思わず背後を見やる。積み上がった課題の山。毎日夜遅くまで机に向かっている広い背中を知る俺は、すぐさま首を振る。
「それはやだ…」
「調子がいいことだ」
銀一郎は喉を鳴らして笑う。
俺の幼なじみは、地元を支える大企業、SOJOコーポレーションの一人息子。重責の大きな父の仕事を受け継ぐ為、高校卒業後に東京の大学に進学し経営学を学んでいる。そんな宗條家創業者の教えは「朝飯だけは何が何でもしっかり摂れ」。銀一郎が行くならと一緒に上京した俺もその恩恵にありつけている訳である。
未だ食感の残るかぼちゃを舌で潰して楽しむ俺に、幼なじみは聞く。
「仕事はどうだ?」
「順調だよ。みんないい人達だし」
そんな華やかな経歴を持つ銀一郎に対して、俺の実家が営んでいるのは小さな物流会社。俺自身も何ら特別なことはなく、5人兄妹の下から2番目に生まれた。それに関連して、上京した現在も関東に拠点を置く日本フェアリー運送にて働いている。
「男と同居してるって言うと反応されないけど、自慰部屋があるって言うとみんな羨ましがる」
「食事中だぞ…。だからその呼び方を止めろと言うに…」
彼は呆れて息を吐く。ゆでたまごを剥いて、口の中に放り込んだ。
東京に出るにあたって、銀一郎の両親が用意してくれたのが親戚が保有しているという一軒家であった。今は誰も使っていないその家は、あまりにも立派すぎた。庭付き一軒家、何と離れもくっついている。そんな場所を二人で使って良いと宛がわれた。少々広すぎる敷地をもて余した俺達が考え付いた使用用途が、自慰部屋である。
「本当はなあ、お互いに彼女ができた時のイチャつき部屋にしようって言ってたんだけど…」
都会には夢がある。普段ジジババばかりの地元にはいない、綺麗なお姉さんや可愛い女の子に出会えるんじゃないかって夢が。けれどいざ夢を抱いて上京したは良いのだが、不思議なことにふたりとも一向に彼女ができる気配はない。俺の職場は男ばっかりだし、出会いの多そうな大学に通う銀一郎には見た目を怖がって女性が近付いてこない。彼はふんと鼻を鳴らして笑った。
「寂しい話だな」
「なー」
同意しつつ、皮のついたりんごを口に入れる。口の中に広がる甘酸っぱい果汁を堪能した後で、ごくんと飲み込む。
「まあ今は自慰部屋として使ってるからいいけど」
「…だからその言葉を止めろ」
「お前がいちばん必要としてるくせに何言ってんだよ」
「……」
いくら親友と言えどもプライベートは必要だ。見たくないもの聞きたくないものまで知る必要はない。
そして銀一郎を、狼の見た目をしただけの単なる青年だと侮るなかれ。獣であった時の名残か、彼には発情期がある。普段堅物が過ぎて「自分はまだ未熟だから」と学校イチの美女の誘いを断り一時期地元の伝説となったこの男も、この時期ばかりは理性が揺らぐらしい。
と言うわけで、互いの為にも自慰部屋はあった方が良い。俺も使いたいし。何せ今は多様性の時代。他人が立ち入りづらい性質も個性と受け入れてやっていくのがいちばんだ。
食器を片付け立ち上がる。リュックを背負って、片手を挙げた。
「いってくる~」
「ああ。気を付けろ」
ところ狭しと並べられた朝ごはんは全て平らげお腹はいっぱい。のどかでいつも通りの朝の光景であった。
そして夜。いつも通りの時間帯に帰宅した俺は、明るいリビングに向かって声をかける。
「た、ただいま…」
「ああ…?」
たったそれだけの声のやりとりだったが、いつもと違う違和感を感じたのだろう。銀一郎はわざわざ玄関まで出てきた。
「っ…!?」
そして俺の姿を捉え、ぎょっと息を呑む。それを受けて、俺はへらっと笑顔を浮かべた。
「俺。女の子に…なっちゃった」
完璧な事故である。事態は輸送予定の品物の検品作業中に起きた。ちょっと怪しげな委託元より預けられた荷は、中身を誤魔化して申告されていた。更に規定よりも梱包が甘かったらしく、クレーンで持ち上げた瞬間に底が抜けた。その時に飛び出した液体が、たまたま近くにいた俺に全掛かりしたとそういう顛末である。
そして肝心の中身といえば、薬だった。
「まさかなあ、女の子になるだなんて…」
そう、現代は多様性の時代。男の体から女の体へと変わる薬もあったりする。
鏡の中には揺れる黒髪にぱっちり二重の大きな瞳。瞬くと、長い睫毛が音を立てる。面影を残しながらも、俺は完全に女の子になっていた。
「どこで作った薬剤かがちょっと不明らしくて、しかも大量に被っちゃったから、元に戻るまでにちょっと時間かかりそうなんだよな」
事の成り行きを説明しながら、俺はソファへと腰かける。視線を上げれば、親友のとんでもない事態に、銀一郎の大きな耳はぺたんと下がってしまっている。
「そんな顔すんなよ。俺なら大丈夫」
「あ、ああ…」
「大事をとって仕事はしばらく休業。労災と見舞金おりるし、むしろラッキーだったって」
のんきにそんなことを呟く。だって性別が変わったぐらいで、俺の生活は変わらない。怪我や負傷をした訳でもない。しばらくの間おまたがちょっと寂しくて、自慰部屋にも縁が無くなるぐらいだ。
と、思っていたのだが。
「銀一郎」
セミが鳴き喚き、汗ばむ朝。リビングに出てきた俺は、同居人を探していた。数日経つが、相も変わらず俺の胸にはちょっと控えめなおっぱいがふたつ付いている。起きたばかりで長い髪はぼさぼさだが、まあ気にすることはない。それよりも問題に気が付く。いつもなら部屋どころか家中に充満している良い匂いが一切無かったからだ。
「今日の朝飯は?」
「買ってあるから適当に食え。私は出掛けてくる」
銀一郎は俺を見て一瞬ぎくりと震えた後、荷物を持ってそそくさと出ていく。逃げるように小さくなる背中を目で追いかける俺の心にあるのは、不信感である。
「……」
リビングのテーブルに置かれていたのは市販のパン袋。そこから取り出したしなしなのワッフルを一口齧って、俺は不満げに口を尖らせる。
(何だよあいつ…)
■□■□■
(何なのだあいつは…)
太陽はすっかり姿を消し、輝く月の昇る夜。初夏の今日は少し肌寒い。自室のベッドにて布団にくるまる銀一郎は、悶々とした想いを抱えていた。
親友が女となって早一週間。瑞春と銀一郎の生活は変わらない。いや、変わらなさすぎた。
(少しは、変われば良いものを…!)
突然の変化に戸惑っているのは、銀一郎の方だった。瑞春は前の通り、二人の共有スペースで、薄着で平気で寝転がる。胡座をかいて座る。緩い服の脇や短いパンツの隙間から見てはいけないところが見えそうになる度に、銀一郎は首が吹き飛びそうな勢いで目を逸らすのだ。
これが普通の女性であれば銀一郎もここまで反応しない。
そう。女体化した瑞春は、めちゃめちゃ可愛かった。単純に、銀一郎のドタイプだったのである。
「銀一郎~」
暗闇に突然声が降ってきて、びくりと震える。思わず反応してしまった。
「な、なんだ」
扉を開けて、瑞春が姿を現す。ぺたぺた足音を立てながら寄ってきた彼女は、ずびりと鼻を啜った。
「それがさ、部屋がさむくて…」
言いながら布団を捲る。そのまま、彼のベッドの中に入ってきた。
「お、おい、」
「相変わらずあったかいなお前」
言いながら、毛並みの中にもふっと頬を寄せる。その安心しきった笑顔に、銀一郎の頭で警鐘が鳴る。
「で、出て行け!寒いなら暖房でも何でも入れれば良いだろう!」
「夏に暖房入れるなんて電気代がもったいないだろー…」
彼の肌を掴む指と足先は確かに冷たい。
「俺だってこんなに冷えやすくなるとは知らなかったんだぞ…。なんでも筋肉量が減ると、熱が作りにくくなるっぽくて…」
瑞春は何事かむにゃむにゃ言いながら、そのまま夢の中に入って行ってしまった。完全に油断した寝顔を前に、銀一郎の中でむくむくと欲が首をもたげる。
「っ…!」
その日は結局寝られなかった。
■□■□■
「……」
早朝。家の廊下には足音がしないように慎重に動く影がひとつ。ばかでかい図体をしながら、何とか気配を殺して動こうとする姿は大変滑稽だ。そのままそろそろと出ていこうとする背中に、俺は思い切り飛びかかった。
「うおっ!?」
大きな体がバランスを崩す。そして俺は倒れ込んだ奴の上によじ登った。目を見開く銀一郎に向かって、俺は叫ぶように怒鳴る。
「どこ行くんだよ!」
「だ、だから大学にだな…」
苦しい言い訳は聞き飽きた。上には乗っかったまま、俺は彼の言葉を遮るように先を続ける。
「大学は休みなんだろ!?」
「っ…!」
「お前が俺のこと避けてるの、知ってるんだぞ!」
図星をつかれた銀一郎の体がぎくりと震える。
そう、今も決してこちらを見ない目に、下手くそすぎる言い訳。早朝に顔を合わせないように出ていこうとするその行動。普段から鈍いと言われる俺が分かるぐらいには。彼は俺を避けている。
「最近は話すどころか俺と顔をつき合わせるのさえ避けてるだろ!廊下ですれ違う時もめちゃめちゃ大袈裟に仰け反るし!俺の下着だって洗ってくれなくなったし!!」
「そこまで分かっておいて何故分からん!!」
「はあ!?分かるわけねーだろ!」
勝手なことばかり言われてかちんとくる。胸ぐらを掴んで、銀一郎の顔を引き寄せた。
「あ!?なんだ!?俺の目を見て言ってみろ!」
息がかかるぐらいの距離でそう叫ぶ。
「っ~~!」
すると俺から一生懸命目を逸らしていた銀一郎がついにキレた。たった一言叫ぶ。
「発情期に入った!!」
沈黙が支配する。
「……は?」
それを受けて、彼の胸ぐらを掴んだまま俺はぴたりと固まる。ぱちぱち瞬きをして、ゆっくり声を発した。
「えっ。うん。だから…?」
発情期。こいつが思春期を迎えてから、これまでだって何回もあったことだ。もちろん二人で暮らし始めてからも。その度にいじったり笑い飛ばしたり、親友ならではの対応をしてた。こいつも本当に限界の時は自慰部屋に閉じ籠るなど自分にできることをしてた。
だから俺の中では何を今さらと言う話なのだが、銀一郎は焦ったように先を続ける。
「このままだと確実に!間違いが起きる!!」
(間違い…?)
頭の中でゆっくり考える。今までの発情期と変わったことと言えば、俺が女の子になったぐらいだ。つまり。
「お前が、俺にムラムラしてるってこと…?」
「……」
銀一郎を見ると、彼はそっと視線を逸らした。その無言の肯定に思わず奴の胸ぐらから手を離し、自分の胸を押さえる。
「超やだ…」
「……」
逃げようかとも思ったが、すぐに思い直す。銀一郎に向き直り、はっきりと口にする。
「何言ってんだ!俺達、親友だろ!?」
俺達は親友だ。地元のちいちゃな産院で同じ日に生まれた瞬間を皮切りに、今に至るまでずっと一緒。良いことをする時も、ちょっと悪いことをする時も、叱られた時さえ一緒だった。
「俺の見た目がちょっと変わったからって、今さら態度変えるんじゃねえよ!寂しいだろうが!」
「み、瑞春…」
そう言った後で、そっと付け足す。
「お前が作ってくれる朝ごはんも恋しいし…」
「本音が出たな…」
銀一郎があきれた声を発する。
致し方ないだろ。サンドイッチをはじめとする洋食からちょっと珍しい中華、栄養満点の小鉢の付いた和食まで。俺の胃袋はすっかり奴の作る朝食の虜になっていたらしい。焼いたばかりのカリふわワッフルが恋しいのだ。
「…私が間違っていた」
銀一郎が俺を押し退け立ち上がった。そして俺に向かって笑顔を浮かべ、拳を突き出す。
「そうだな。たとえ姿形が変わろうとも、私達は親友だ」
「おう!」
俺も拳を差し出す。爪の生えた大きな拳に、少し小さくなった拳が当たる。ぺちんと小気味の良い音がした。
「ん~これで暇から抜け出せる~」
彼に背を向けて、背伸びをする。銀一郎がふんと鼻を鳴らして笑った。
「それも本音か」
「いやあ、何もすることがない休みって言うのも結構問題なんだぞ」
俺も笑いながら振り向く。
「俺、お前が相手してくれない間、暇すぎて自慰部屋にこもったし」
彼がぱちりと瞬きをした。肉食獣の瞳が、戸惑ったように俺を見る。
「何故あの部屋が出てくる…?」
「へへ。俺、気付いちゃったんだよ…」
俺は胸を張って、得意気に口にする。女性経験がないあまりに知らなかった、そして親友も知らなかったであろう世紀の大発見を。
「こっちの体でも、できるってことに!」
その日から銀一郎は自慰部屋から出てこなくなった。ごめん。
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