黙契

スヴェン

第1話

 何でも黒い馬車に乗っている。それも、どうやら紋章つきだ。

 私の目には馬車の内側しか映らないけれど、暗い緋色のベルベットの、よく詰め物をされて膨れたクッションや黄金色の装飾から類推して、たぶんそうなのだ。

 近く観察してみると、手すりなんかのうちで最もそばにあるものは、18金以上のものが厚く塗られている。

 どうも妙なことだ。私はとある高地に避暑に来ていた。そうしてふとした気紛れから、のんきにぽくぽく歩く馬が引く観光馬車に乗り込んだのだった。

 馬のためにいいところを挙げるならば、その馬は見事な連銭葦毛の毛並みを誇っていた。

 銀灰色の微光の織りなす濃淡の美しさが、私を驚嘆させた。それで一も二もなく、私は馬車を呼び寄せた。

 黒の外観が奇異だったが、気にもとめなかった。紋章を確認しもしなかった。

 しかし、乗ったとたんに分厚い緋色のカーテンがさっと窓をふさぎ、とんでもない速力で馬車は疾走し始めたではないか。

 声を限りに叫んでも、馬車操る人に届いているものやらどうやら、速度はちっともゆるみやしなかった。

 そのうえ、馬車が安定はしているが前傾している。すなわち、急勾配の道を下っているということだ。

 にわかに、馬車のうちに花々の香気が高々となだれてきた。通奏底音として、今を盛りと伸びる青草の、噎せるがごとき香も誇りかに。

 思わず窓に手を伸ばす。しかし徒な試みだった。

 カーテンは窓の外側に掛けられていたのだ。そうして窓は、はめ殺し。

 ここに来て、運命の疾走とでも言いたくなる厳粛な諦観の観念が兆した。

 これは、私ひとりのために用意された命運だ。ならば享けるほかはない。畏怖に打たれながらも、私は意志の力をもって怖れを踏みつけにした。

 不思議なことに、とたんに馬車は止まった。急をつかれたらしい、馬のあがきの気配が伝わってくる……。

 嬉しいことだ。私は為すべきことをした。しかるべくして、答えが来た。すなわち、私は私の運命の君主たる座を宰領しているということだ。これを当為といわずして、何と名付ける?

 私はじろじろと窓を眺めた。同様に、馬車の扉をも。

 当為は通じて、カーテンがさっと開き、扉も開け放たれた。

 ここで頭を新たな出口からひょいと突き出すほど、私は無邪気ではなかった。何といっても丸腰だ。出会える打ち物なんぞ、携えていない。

 油断なく身構えていると、得たりやおう、と言いたくなるほどの純然たる好タイミングで、黒い影が馬車の戸口に現れた。

 別に妖怪変化および魑魅魍魎が来たわけではない。神霊の来臨でもない。単なる逆光の作用で真っ黒なだけだった。それだけ外は明るかった。

 まばゆい光をきれぎれに受けて、私は黙っていた。影も黙っている。沈黙こそは黄金。この人類普遍の真理を私は採用した。

 こらえきれなくなったらしく、影が口をきいた。ひとまず先んじた、そう思って私の口元は静かな微笑で彩られ、微笑はただちに絞め殺される。

「さても……傲岸な。不遜とすら申しても異はあるまいぞ。」

 それが影の発言だった。実にくだらない。

「知れたことよ!」

 私はあざ笑って言った。続けて、

「卿は私に生死長夜の試練を課したつもりだな?私がおののいて慈悲を乞うとでも思ったか?結果が死としたら、わぬしを連れて地獄に赴くまでよ。いでいで、冥界の美神に拝謁だ。供をせよ。」

 影はぶるっと震えた。次の瞬間、謎めいた体術のような、古めかしい変な力が私に作用し、私は馬車の外へまろび出ていた。

 きっと馭者だ。私が馬車に乗り込むのを快く助けたのは気のよさそうな、かなり馬っぽい印象の人だった。それには何の不思議もない。人は、自分の好きなものに似る。つまり、よい馭者だったのだ。

 でも言うだけのことは言わなくては。立ち上がった私の真ん前に、人ではなく馬がいた。あの、美しい銀の毛並みの。

 馬に文句を言っても、ただの八つ当たりにしかならない。私は馬の顔を見ていた。

 急に馬がしゃべった。やさしいひらひらした声で。

「ここが私の故里だ さやかに風も吹いてゐる。」

 高名な詩句。作者の中原中也の生誕地は、たしかうんと西。

「乗った地点から数百キロ離れたところまで来た?」

 私はびっくりして尋ねた。馬が詩を暗唱したことよりも、驚いて。馬は神話的および詩的な存在だから、名詩くらい語るだろう。

 馬は、目をひんむいた。大きな目!そして批判に浸されていた。

「詩は内在的に読まれなくてはね。つまり、ここは私の故郷なんです。この武蔵野が。」

 馬の主張には多少の争点が残っていそうだったが、それよりも地名のほうに驚かされた。

「武蔵野……」

 私はぼんやり繰り返す。高地からそこまで来たか。この馬は息も乱さずに。

「そう。武蔵野。文字にあらわされることもないほどのいにしえから、いかに多くの馬が、この地で青春を過ごしたか。繁る青草、草を永遠にはぐくむ漆黒の湿った大地、豊かに流れる清い水、そうして大樹の群。広大な青空。そら、あたかも瑠璃のよう。メルヴィルが賞賛した日本の青空。」

 私は上を見た。いきなり円鏡のごとき太陽が烈しい矢を数千本、射かけてきた。残酷な光に滲む残像の中で、確かに空はおそろしく青かった。

 水平方向に目をやれば、丘のこんもりした姿が目に入る。すばらしく均整のとれた丘である。自然の造形力の神秘に私が感心していると、

「あれは古墳です。まったくの人工です。」

 馬が解説してくれた。するといきなり、古墳が華々しく鳴いた。

 古墳を覆う黒土と緑をなんなく蹴破って、純白の馬が躍り出てきた。瞳は黄金色の非情にきらめき、まなじりは裂けんばかり、大きな蹄は水晶でできているかのように透き通って……超越的な美だった。

「友よ!ついに来たね。」

 白馬は懐かしげに語りかけた。銀灰色の馬はやさしく頬ずりし、

「もう少しさ。」

 とだけ、よく響く声で言った。

 地価の高騰する東京にあって、これほど植物が主権を握っている場所が残されているのは珍しい。

 銀灰色の馬が語るには、完璧に統御された都市計画の成果だそうだ。手つかずの自然の暴風にまかせるのではなく、人間と自然が敵対しない「野」という穏やかな境界がしつらえられたのが、ここらしかった。

 確かに、夥しい広葉樹の壁の向こうにはビル群やマンションが丈高く元気いっぱいに聳えているのがはっきりしている。

 高層建築群は、夜会服を着ている印象だった。統一的で均整が取れていて、礼儀をわきまえていた。

「でもね、安心しないで。『野』は誰のものでもない。人間にも山にも組しない、いわばほんものの外側です。強いていえば、野を駆け回るのが宿命の、我々馬のものである?」

 馬は二頭してこもごもに言い、くすくす笑う。

「だからね、野ではどんなことでも起きますよ。」

 馬はそう結んだ。どっちの馬か知らない。私の目は驚くべき光景に吸い寄せられていたから。

 樹齢を丹念に重ねた樹が、膨れ上がっている。少し波打って丸みを帯びた、小舟の形の葉っぱがいっぱい繁っている。あれは白樫。どんぐりの樹だ。

 樫の向こう側に、幻視の夜明けがあった。西から真紅の太陽が、新たに昇ろうとしている。

 たなびく雲は夕焼けの寛容な茜色ではなく、薔薇色とオパールの遊色の混交した、壮麗な宮にメタモルフォーゼしている真っ最中だ。

 それは目で見るファンファーレであって、何事かの始まりを決定的に告げていた。

 大木の中程の太い枝に、馬が逆さに吊り下がっているのが、にわかにありありとした。

 鎌倉武士なら琵琶股と讃えて惚れ込んだであろう、逞しい下肢が豊かに盛り上がって半ば葉に隠れている。

 優雅な前脚は軽くあがく形のまま、なかぞらに不思議な象形文字を描いていた。馬の全身は、太陽を反映して真っ赤に染まっていた。

 可能かどうかも考えず、私は吊られた馬を助けるために駆け寄った。蹴られたら頭が吹っ飛ぶのは承知だ。後から二頭の馬が来る。二頭?いやに足音が轟きすぎる……。

 近く見れば、馬は実在していなかった。馬の皮が馬の形式を保存して、微風に揺られていた。私は口を薄く開けて、山の気配の濃い大気を無意味に出入りさせていた。

「契約のしるしです。」

 耳許で、銀灰色の馬の声がささやいた。

「我々は、思い出すことも難しい昔に、人と約束したのです。互いにすべてを捧げあうことを。我々は彼らのために怖れを知らなかったし、彼らは苦境に見舞われても我々のための食料と土地だけは死守した。そうして、愛は叡智となった。この武蔵野で。」

 馬の皮が空に浮かんで広がった。低く水平に飛行する。巨大な蛾や蝙蝠や、ステルス戦闘機を思わせる飛び方だった。できるだけ接する面積を広くしようとしているらしかった。

 馬の皮に撫でられた空間が、どよめいた。ここには不可視の無数の馬の魂がずらりとひしめいていて、馬の皮に触られたことによって実体を備えたのだ。やたらに足音が多かったわけだった。

「時間は今、始原に戻ろうとしている。我々はあの永遠の太陽の車駕を率いて、懐かしい至純の契約を新たにする。」

 白馬が、怜悧な声を響かせた。

「なぜ私に何もかも明かす?」

 私は白馬に問うた。白馬の美しい顔に、涼やかな笑いが広がった。

「舞台が必ず観客を求めるように、神話の実現は証人を必要とする。花咲ける神秘が護られるために。友よ、それを我々は絶望とは呼ばない。」

 馬は空に昇った。あらゆる馬が続き、未聞の軌道を征く彗星のように、空を駆けた。

 やがて紅蓮の炎の両腕を広げて迎える太陽の中心へ、怖れもなく飛び入る。馬と幻視の太陽は、ともにかき消えた。

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黙契 スヴェン @hisuimidori

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