237、外伝:ヴェンデルくんの平和な一日/前
喉を圧迫される感触で目を覚ました。
「ぐぇ」
我ながら酷い声が出た。上体を起こすと、愛猫が頭部を押しつけながら『に゛ゃあ』と鳴いてくる。
「クロ……お前さぁ、起こすならもっと方法を考えてよ……」
喉を擦りながら、なんてひどいやつだとぼやき、咳を一つこぼす。毎日起こしてくれるのはありがたいけれど、年々起こし方が過激になっている。はじめこそ濡れた鼻を押しつけてくる程度が、鳴き、噛み、乗り、そして今度は前足で喉を押す暴挙だ。元々賢かった猫だけれど、最近の起こし方は本当にいただけない。
「ほんとやめてよね。潰れたらどうしてくれ……あ、シャロだ」
寝台の端にちょこんと丸まった影は、コンラート家のもう一匹の家族である。ヴェンデルが身を起こすと、くわぁ、と大きな欠伸をして前足を伸ばす。手を伸ばすと、逃げることなく頭を撫でられた。
「久しぶり。珍しいね、クロが許したの?」
クロがヴェンデルの手元に戻ってからというもの、共寝をするのはクロの役目になった。普段そう仲の悪くない二匹だが、ヴェンデルの添い寝を巡っては、クロは鬼である。シャロはクロに追い出される形で別室に行くようになったのだが、どうやら今日はクロの許しが出たようである。そういえば最近、夜が冷え込みだしたのを思い出した。
現金だなぁ、と思うのは隠せない。けれど猫二匹に囲まれての朝は悪くないし、鼻歌交じりに着替えをはじめる。
身だしなみを整えて部屋を出ると、二匹も後を追ってきた。クロは習性、シャロはクロを追っての行動だ。扉にはヒルとハンフリー渾身の作品、猫専用ドアも作られたから出入りは自由だが、ついてきてくれるのは気分がいい。
「おはようございます、坊っちゃん」
「おはよう。リオ、いつものでお願い」
「かしこまり~」
料理人リオの気安い態度はさておき、使用人の皆は既に起きて働いている。テーブルには朝食が用意されており、席に着くとウェイトリーがいそいそとお茶の準備を始めるのだ。これからリオが卵に火を入れて作りたてのオムレツを作ってくれる。ヴェンデルは半熟よりしっかり火が通った食感が好きだった。
「こらこら、お前のご飯はまだですよ」
ウェイトリーにじゃれるクロは正解だ。朝の忙しい時間、彼に声をかければご飯を出してくると理解している。元外猫だから餌を求めせがむ習性があるが、対して元から飼い猫のシャロは黙っていてもご飯が出てくるものだと思っている。従って、こちらは椅子の上に座ってじっと家人を見つめるのであった。
「みんなはー」
「ヴェンデル様が一番乗りでございます。それより学校の準備はできておりますか」
「だいじょぶだいじょぶ、完璧」
へらりと笑っていると、庭の方で女性がはしゃぐ声がした。朝はチェルシーの日光浴を兼ねた遊びの時間だ。その日手の空いている者が手作業しながら見守るのが決まりで、今朝はジェフとハンフリーが打ち込みをしているから、ヒルがお守りの役目である。女性陣は洗濯や向かいのバダンテール邸に行っているのだろう。
耳を澄ませば、カン、カンと木刀を打ち合う音が聞こえてくる。いまのところハンフリーの勝率はゼロ。いつ勝てる日が来るのか、密かな賭けの対象になっている。
「ああ、眠い眠い。おはようございまーす」
「おはよー」
次いで顔を出したのは、コンラート家の新しい居候マリーである。くせっ毛を揺らしながら大きなあくびをもらし、向かいの席に座った。
「昨日遅かったの? ウェイトリーに気をつけろって言われてたじゃん」
「違うわよ。クロードさんのお付き合いで食事に行ってただけ」
「ふーん。いい人いた?」
「全然」
ウェイトリーが眉を潜めるのは、彼女の生活態度がヴェンデルに悪影響を与えるか否かだろう。彼女はいま現在コンラートの代表をつとめるカレンの従姉妹たる所以があって居候の身である。しかして実態は子供には若干悪影響のありそうな人物であり、その生活態度はいささかだらしない。それでもヴェンデルは彼女が好きである。
「大変だねー。頑張って」
「はぁ、その気のない応援がやる気を削ぐけど頑張るわぁ……」
「クロードさんはマリーの能力を買ってるんだよ」
「だったらそろそろ特別手当をもらわなきゃやってられない」
それでもウェイトリーからもの申されないのは、与えられた役割を放棄せずしっかりこなすからだ。事実、彼女はクロードの手伝いを投げ出したことは一度もない。どんな些細な仕事でも、口うるさくはあれど必ずこなすのがマリーである。
「そうそうウェイトリーさん。午前は暇だからチェルシーの面倒みますよ」
「おや、予定があったのではありませんか」
「疲れたから家で休みます」
「マリー、帰ったら語学教えて」
「はいはい」
そして派手な外見を好み、享楽的であると見せかけて意外と面倒見が良い。勉学にも精通しており、ヴェンデルの家庭教師代わりをこなすこともある。
そういった点を加味すると、多少問題はあれど有益な人物であるといった評価になるのだ。元貴族令嬢だから礼儀作法もしっかりしている、顔が広いから噂を仕入れるのも得意。文句はいいつつも、これでクロードと程よい関係を築いているのであった。
彼女が起きたことは他の者にも伝わっていた。ヴェンデルのオムレツの後はリオが半熟の目玉焼きを用意し、ゆったりとした朝食の開始である。
他愛もない話をしていた二人だが、控えめなノックと共に入室してきたのは新しい秘書官のゾフィーだった。
「おはようございます」
「おはよ」
「おはよーぅ」
ヴェンデル、マリーと次いで挨拶を交わし、最後にウェイトリーが無言で会釈する。
彼女は大きな封筒を携えており、一同を見渡すとにこりと笑顔を零すのだ。
「早く来すぎてしまいましたか」
「もう、律儀に早朝から来なくてもいいのに。あの子ならまだ布団で夢の中だし、クロードさんなら犬の散歩の最中よ。どっちも勝手にしてるんだから、家でゆっくりしてから来ればよかったのに」
「そうしたいとは思うのですが、子供達を見送ってから出るのが習慣になっていまして。一度休むと動くのが億劫になってしまうのです」
「ゾフィー、貴女もお座りなさい。お茶を淹れましょう」
「……ではお言葉に甘えまして」
雇われた当初こそ遠慮がちだったゾフィーも、ウェイトリーの淹れる茶の魅力には抗いがたいようだ。体躯の大きな彼女が椅子にちょこんと座る姿は、傍目にも微笑ましい。
ゾフィーやマリーも話し相手として最適だが、ヴェンデルはこのあたりが限界だ。ごちそうさま、と席を立つと、準備のため再び部屋に戻る。
「良い一日を、ヴェンデル様。なにか困ったことがあったら、息子達に相談してください」
「うん、ありがと」
学校までの道のりだが、基本徒歩である。学校側には馬車を勧められていたが、これはヴェンデル自身の希望だ。馬車は目立って仕方がないし、正直慣れない。どうせ行き帰りに迎えがついてくれるなら、このくらい好き勝手させてくれ、が言い分だった。皆は頭を悩ませたけれど、ヴェンデルの強い要望だったので通したのである。
結局、玄関を潜るまでカレンは起きてこなかった。しかしヴェンデルは気にしない。彼女が朝に弱く、なかなか起き出してこないのは日常茶飯事なのである。
今日の送迎はハンフリーだった。以前なら必ず他の者が一緒だったのだけれど、ここ最近はハンフリー一人でも任されるようになったのだ。一人で護衛をこなす際は緊張のためかガチガチに固まっていたけれど、最近は柔らかい顔も見せてくれるようになった。ヴェンデルも彼が認められたことが嬉しくお祝いを告げたのだが、当の本人は、少しだけ悲しそうな表情を見せたのが印象的だった。
稽古の後、急いで支度を整えた青年と並び歩きながら登校するのだが、校門近くで少年から距離を取った。
「それじゃいつもの時間に」
「帰りに本屋寄るから、ハンフリーかジェフあたりでお願い」
「また本ですか……どんだけ読むんですか、この間も買ってたでしょ」
「小遣いの範囲だよ」
他愛ない会話も日常だ。行きと帰りの時間に彼らはヴェンデルを迎えにやってくる。一度無視してひとりで帰ってやろうとしたこともあったが、途中で見つかり、ヒルに悲しそうな顔をされたので結局やめた経緯もあった。これはウェイトリーやカレンも知らない秘密の話である。
ハンフリーと別れると、慣れた様子で教室へ向かっていく。通りすがりの教師、クラスメイト、あるいは知らない誰か。声をかけられるのはもはや慣れっこで、ほとんど反射的に「おはよう」を繰り返している。
階段を昇り、教室へ。人が途切れた一瞬に肩を掴まれた。
「おい」
肩から壁に押しつけられた。不意をつかれたせいかまともにぶつかって、なんどか咳を繰り返す。
「話しかけてるのに無視してんじゃねぇよ」
顔を上げると、同級生が立っていた。同じ教室で、なにかとヴェンデルを目の敵にしている。今朝は五人がつるんでヴェンデルを囲んでいた。
「……話しかけるもなにも、聞こえてない」
「話しかけたっつの! 田舎者のくせに無視しやがって!」
「田舎者は関係ないだろ」
……こういう関係だ。彼らは転校当初からヴェンデルを格下として扱い、そしていまも同じように考えている。所謂教室の中心メンバーで、子供達なりのコミュニティを築いた結果である。
「いや、ほんとになに。僕、教室に向かってただけなんだけど」
露骨に顔を顰める。
良くない態度だとはわかっていたが、朝から乱暴されて笑顔でいられるわけがない。ヴェンデルにしてみれば当然の対応なのだが、相手にとっては逆効果である。相手が誰だろうが物怖じしないヴェンデルの姿は、生意気としか映らない。たとえ親が有力者であろうと、それが気に食わないと手を出す者もいるのである。ヴェンデルもそれがわかっているから、あえて彼らを無視している。自ら近寄らず、大人しくしているのに、わざわざ話しかけてくる気が知れないのだった。
「最近噂に聞いたんだけど、お前、学校に装飾品持ってきてるんだろ」
「はぁ?」
「だから装飾品。首から下げてたって聞いたんだけど、どうなんだよ」
「だったらなに。先生の許可はもらってるし、君たちに話す必要はないじゃん」
「先生の許可があったって、違反は違反じゃねーか!」
大人達にとっては手を出してはならない相手だとしても、学校の世界は特別。つまり、そういうことだ。
彼らが口にした装飾品の件、同級生ははやし立てるけれど、ヴェンデルにとってはかけがえない大事なものだ。あまりの不快さに相手を押しのけ通ろうとすると、無理矢理押さえつけられた。
「ちょ……なにするんだよ!」
「うるさい、違反してるくせに生意気だ!」
少年達はヴェンデルから首飾りを剥ぎ取った。さあ、と青ざめるヴェンデルに、同級生は気を良くしてせせら笑う。返せ、と訴えても聞いてくれない。騒ぎに他の子らがそっと顔をのぞかせたが、少年達とみてとるや慌てて引っ込んだのである。
「頭下げたら放課後には返してやるよ」
そう言って笑いながら教室に移動したのである。
呆然としたヴェンデルは、信じられないといった様子で立ち尽くしていた。左手が首飾りの下がっていた場所を何度もまさぐり、やがて、落ちた教科書を拾い、同じ教室に入ったのである。
そのあとだが、ヴェンデルにしては始終口数が少なかった。授業中、教師の目を盗んでくすくすと笑う少年達。紙を丸めて背中にポン、と当てるのを繰り返すのだが、それすらも無反応である。
動いたのはひとつめの授業が終わった直後だ。駆け足で教室を飛び出ると、ある教室を訪ねた。
「どうしたヴェンデル。こっちに来るなんて珍しいな」
「うん、ちょっと力を貸してもらいたくて」
「力?」
少しだけ年上の友人だった。関係だけで言うなら二人は義理の叔父と甥である。無論、あくまで形だけなので本人達にその意識はない。
それでもこの友人エミールがヴィルヘルミナ皇女の恋人であるアルノーの家に住まい、そしてヴェンデルが皇太子ライナルトの擁護を受けている話は有名だから、ある意味注目は浴びやすいだろう。しかしながら学校において、二人はただの学生である。
「いいけど、いつ頃だ」
「昼休み。そんなに長くかからないから、お願い」
「昼くらい構わないけど……なにするんだ?」
元々一緒に暮らしていたから、仲の良さは相変わらずだ。離れてからもっと距離を詰めたと述べても過言ではない。多少の年の差はもはや障害にすらなり得ないのである。
エミールの協力を取り付けたヴェンデルは、うん、と頷いて至極真面目に言った。
「喧嘩」
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