156話 起きるための言葉

 いつの間にか部屋に運ばれたようで、気が付いたら自室の寝台に転がっていた。半覚醒の思考は握っていた枕と指からほんのり香る血の臭いで嫌でも現実を見なければならない。風呂も入らず眠ったのは失敗だったが、そのために一歩を踏み出すのも面倒で結局転がるだけだ。

 だからまた眠った。

 一度起きてしまうと質の良い眠りは期待できないのか、寝て起きては繰り返し、様子見に来た人を随分心配させてしまったと思う。

 傍にはシャロやジル、それと意外にもクロが居ることが多かった。普段なら大喜びでその毛に埋もれているだろうに、ぼんやりと見つめるだけの自分が不思議で、まるで自分が自分でないようだ。


「お水……せめて飲みましょう。せめてお水を飲まないと倒れてしまいます」


 女性同士だからか、使用人さん達やマルティナが傍に居ることが多かったと思う。こんなときでも喉は渇くようで、水を飲むとまた転がる。頭は痒いし全身気持ち悪いが、それでも何故か動けないから皆さぞ大変だっただろう。

 変化があったのはある人物が私を訪ねてからだ。


「辛気くさい」


 部屋に入るなりそう言われた。

 鼻を摘まんだマリーだ。カツカツと床を鳴らしながら私の傍にやってくると、一房髪を掴んで持ち上げ、気に入らないとばかりに鼻を鳴らした。隣では彼女の言動にマルティナが慌てている。


「あ、あの……」

「ちょっと、これ風呂に入れたの? 頭べったべたなんだけど」

「い、いいえ。あの、軽くお拭きしたんですが……」

「拭いただけ?」


 話にならないと言わんばかりだ。次に彼女が出したのは部屋中に響く怒声である。


「こんなの辛気くさいのがさらに陰気になるだけでしょうが! 窓を開けて換気! 部屋は掃除、それからお風呂!!」

「あ、あの、でもお洋服……」

「捨てなさい!! ……あんたも!」


 お風呂まで引っ張られた。面倒だったけれど、行かないとジェフに運ばせると言われたら行かざるを得ない。ただ、私があまりに信用ならないのかマリーは自らお風呂に入ってきて、大胆にも自らも服を脱いで私の頭や身体を洗うのである。

 使用人さんがやろうか、と申し出ても「いらない」と断ったのである。


「人を風呂に入れるのは慣れてるし、貴女たちまだ家の片付けがあるでしょ。それにマルティナだって用事が終わってないみたいだし、ウェイトリーの用事を終わらせなさいよ」

「は、はい。ありがとうございます。ですがあの、マリーさん、慣れてるって……?」

「変な想像しないでよ! ……再婚した方の旦那が病気がちだったから看病慣れしてるだけよ!」

「え? 旦那様が……?」

「あーもう! そんなのもう死んでるから気にしないでちょうだい。私の話なんかよりこの子を気にしなさいな!」


 彼女の一喝で場が動き出したといったら大仰だろうか。


「芋娘から清潔さを奪ったらなんにも残らないでしょうが! その見かけを自分から殺してどうするのかしらね、馬鹿!!」


 マリーはずっと怒ってばっかりだ。けれど彼女が見せる怒りとは正反対に頭を洗う手つきや、指の中まで泡で包み汚れを落とす手つきは丁寧だ。

 頭からどばどばお湯をかけられ、頭や身体を洗われる。部屋に戻ると掃除が終わっていて、待機していたマルティナが頭を下げていた。


「散らかったままにするのはどうかということで、エル様のお部屋は片付けさせてもらいました。ウェイトリーさんはライナルト殿下の元へ出かけております」

「温かいお茶淹れてもらえる。あとなにかお腹に入れるものをちょうだい」

「すぐに用意してもらいます。お部屋に運びますか?」

「普段食べるところでいいわよ。部屋に戻るのはいつでもできるでしょ」


 あっという間に支度は整えられ、机の前には食事が広がっている。置かれたのは葡萄や林檎といった果物とパンを牛乳で浸し火にかけただけのパン粥だ。


「まぁ、質素な食事」


 彼女はそう言ったけれど、品数を増やせと文句を言う気配はない。パン粥を一口食べるとジロリとこちらを睨んだ。


「食べなさい。用意してくれた人に失礼でしょう」


 それもその通りだ。

 簡素だったけれど、粥はほんのり甘みがあって美味しかった。一口食べて気付いたけれど、どうやらお腹が空いていたらしく、用意されていた器はあっという間に空になる。

 その後は特になにをするわけでもない。マリーは私を居間へ連れて行くと、どこかから見繕ってきた本を片手にくつろぎだしたのである。


「休むのならせめて陽の光を浴びときなさい」


 長椅子に座らされ、あとはなにをするわけでもなく、ただただ休むだけだ。だらしなく横になってもマリーは怒らない。むしろ膝を貸してくれるようで、彼女を枕代わりに浅い眠りを繰り返していると、部屋の外が騒がしくなってきた。


「お休みのところ申し訳ありません。ですが……」

「ちょっと」

「マリー様、この度はご足労お掛けいたしております」


 マリーが眉を顰める相手はウェイトリーさんだった。出かけていたと聞いたから、戻ってきたのだろう。沈痛な面持ちを隠さないウェイトリーさんだったが、私に言い聞かせるように客人の来訪を告げていた。


「カレン様、お休みを妨げるのは気が引けましたが、殿下がいらしております。ご対応ください」

「お待ちになって。まだ二日も経ってないのでしょう」

「承知しております。ですがどうしてもカレン様のお耳にいれる必要がございます」

 

 ウェイトリーさんも引き下がれないようで、こちらの返事を待たずに踵を返す。さほど間を置かず入室したのはライナルトなのだが、彼は座りもせずこちらへ一直線にやってきた。

 座る私の前に膝をついた。挨拶を交わす前にしっかりと目線を合わせ、逃げるなと言わんばかりに頬に手を添えるのである。


「エル・クワイックの両親が拘束されている。貴方にとっては最後の機会になるが、会うならいましかないだろう」


 エル。

 彼女の名前だけなら無感動でいられたが、それに続く言葉には無関心を貫けなかった。


「……あ」

「私に彼らを助ける理由はないが、貴方はあるはずだ。またエル・クワイックを退治した貴方の言ならば聞き入れられる可能性がある」


 そうだ、どうして忘れていられたのだろう。

 エルにはお父さんとお母さんがいる。彼女が国賊として認識されたからには、その親である二人が捕らえられない理由はなかったのだ。テディさんの一件で私は知っていたじゃないか。

 彼女の頭が散らばる様がまざまざと思い起こされる。気持ち悪さに汗が噴き出し、吐き気を覚えるけれど、ライナルトはその時間も与えてくれない。


「望むなら付き合おう。だが選ぶのは貴方だ」


 エルは両親を大事にしていた。二人のためにと極力接触を控えて、害が及ばないようにしていたのだ。そもそも帝国に来るきっかけだって親を見捨てられずにいたからだ。彼女がどれほど二人を愛していたのかを、私は誰よりも知っていたはずなのに。

 見捨てるなどあり得ない。

 吐き気を我慢したせいか視界が霞んだけれど、顔を持ち上げた。何度か自分でもよくわからない呻きを上げたはずだ。きっとぐちゃぐちゃになった醜い様だっただろうに、ライナルトは根気よく待っていたのである。

 声を出すのが久しぶりだ。あ、と連呼を繰り返し、半分泣きながら繰り返す。

 たくさん泣いたからもう涙は出ないと思っていたのに、彼女を思い出すと不思議と尽きることはない。

 胸が痛い。彼女に手をかけ助けられずにおいて、両親を救おうなんて考えは傲慢なのかもしれないが、ここで応えなかったら私は二度と彼女に顔向けできない。


「会い、ま、す」


 だからこう答えるしかない。

 会って、エルの最期を伝えなければならない。もしそれが叶わなかったとしても、せめて命を助けなければ。二人がエルを追うのはまだ早いはずだ。

 途切れ途切れの決断を伝えると、ライナルトは頷いた。支度を、と準備を促してくる中、真っ向から怒ったのはマリーである。


「殿下、いくらなんでも唐突すぎるのではございませんか」

「……ダンスト家のご令嬢か?」

「その名はもう捨てました。二度とその名で呼ばないでもらいたいですが、私のことはどうでもいいのです。いまも申し上げましたが、いまこの子を連れ出すのはあまりに人の心がないのではなくて!?」

「必要ゆえに話をした、それだけだ」

「それだけって、もう少し言葉を飾られてもよかったのではなくて!」


 ……マリーは、本当に素直じゃないのだな。その姿は少しだけエルに通じるところがある。


「マリー」

「……あ、ちょっと、お礼なんて言うのはやめてちょうだいな。わかってるのよ、貴方みたいな人間は怒ってくれてありがとうなんて辛気くさいこというのよ! 冗談じゃない!」


 先を読まれてしまった。お礼を言うなといわれてはどうしようもなく、その間にマリーはわなわなと両手を震わせている。


「……やること済ませてとっとと帰ってきなさい! 言っときますけど、あなたまだ病み上がりみたいなものなんですからね! ……支度を手伝ってあげるからいらっしゃい。その顔色で化粧もなしに出たら怒るわよ!」


 こうなるとライナルトは完全に無視である。皇太子を前になかなかの度胸だが、その様子にライナルトは愉快そうに目を細めていたから、不快ではなさそうだった。

 部屋に向かう途中で、散らかっていた家の中がすっかり片付いていることに気が付いた。きっと皆が頑張ってくれたのだろう。取り払われてしまった硝子灯の箇所は暗くなってしまったけれど、鼻を効かせると家の中全体を微かに良い香りが漂っている。後で知ったが、ヴェンデルが家の中でも皆が落ち着けるようにと香木を焚いてくれたようだ。おかげでどことなく落ち着ける雰囲気を維持できているのではないだろうか。

 階段の途中にエミールとジルが並んで座っていた。

 悲しそうな面差しは、大分心配をかけてしまったのだろう。話を聞いていたのか行ってほしくなさそうな眼差しだが、止めるつもりはないようだ。


「エミール、ジルを部屋に置いていってくれたでしょう。ありがとうね」

「うん……」

 

 マリーが手伝ってくれたお陰で準備はあっという間に進んだ。死人のようだった顔がすっかり見違えたのだから、化粧の腕はその道のプロのようである。

 殆ど支度を負えたところでノックが鳴ると、ひょいと顔を出したのはヴェンデルだ。何故かクロを抱えた少年が差し出したのはハンカチなのだが、男の子が持つには些か可愛らしすぎる意匠である。


「それ、エルの」

「え?」

「僕のところに間違って入ってたやつ。戻そうと思って忘れてたから持ってきた」


 皺まで綺麗に伸ばされた刺繍入りのハンカチだった。だが用事はそれだけではなかったようで、寝台を指さすと驚愕の事実を話したのである。


「あとシャロが下に隠れてるから、あとでちゃんと謝っておいてよね」

「……なんで?」

「カレンが伏せてた間、シャロも様子がおかしかったってこと。猫って意外と飼い主を見てるもんだよ」


 言うだけいうと、クロを部屋に放って行ってしまった。毛が飛ぶ! とマリーが叫んだけれどおかまいなしである。そのクロはもそもそと寝台の下に潜ってしまったが……。


「猫を気にしてる暇があったら行ってきなさい!」


 マリーに追い立てられてしまったので、ペットのご機嫌伺いは帰ってからのようである。

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