136話 身分違い
一瞬でリズムがわからなくなった。脳が真っ白になって、覚えていたはずの事柄が消えていく。それは拙いと急いだのがいけなかった。
モーリッツさんの眉がきゅっと眉間に寄ったのを目撃して、一秒にも満たぬ間に、初手から盛大にやらかしたことを悟ったのだが――。
「あ、れ」
焦る意志とは裏腹に体がスムーズに動いている。手先の伸び、姿勢、足運びとなにからなにまで間違いはない。教えられた教科書通りの動きそのものだ。
「……コンラート夫人」
「あ、す、すみません」
こんな風に小声で喋る余裕まであるくらいだ。
だけどこれは違う。断じて私の意志で動いているものではないし、いまだって頭は混乱しっぱなしだ。ゆえに動いているこの体は勝手に踊っているということになるが、まさにその通りである。
これは私の意志じゃない。まるで操り人形のように体は動き、一分の隙もない踊りを披露するのは別の誰かの意思だ。
「我が主を騙したのかね」
「人聞きの悪いことおっしゃらないでください。失敗してないのだから良いではありませんか」
軽口を叩く余裕も生まれていたけれど、意味不明すぎて理解できていない状況は変わりない。ただ考えずとも勝手に動いてくれるおかげで、少しずつだが頭は冷え、マルティナの教えを思い出せるようになってきた。周囲の状況も探れるようにはなってきたのである。
一部の音楽はまだ明るい雰囲気だ。伝え聞いたところによると二部から音楽ががらりと変わり、しっとりとした風情になるようだ。だからいまはお試し、或いは遊びという趣で楽しむ人が多いように見える。
これだけの人数を収容しながらも、警護等にゆとりがある帝国の規模は相当だと窺える。ファルクラムではこれだけの人を捌くことはできないだろうし、なにより帝都内に普及している魔法、市民の生活基礎の水準値が違いすぎるのだ。ここに集っている上流階級、有権者、商人の数でそれは知ることができる。
「モーリッツさん、注目のお人ですね」
「なんのことだ」
「とぼけられても無駄ですよ。女性から熱い視線を向けられておりまして、皆さまの心情を思うと冷や汗が止まらないところです」
「くだらん」
「潔すぎるにも程がありませんか」
揶揄い甲斐のないお人である。
しかし、なぁ。
あまり周囲ばかり見るわけにもいかないため、それとなく視線を漂わせるだけになってしまうのだが、やはり私を操っていそうな人の姿は見つからない。頭に疑問符を浮かべるうちに踊りは終わってしまい輪から離れるのだけれど、その頃には操り人形状態は解除である。体力までは変わらないようで、些か息が上がっていた。
「モ、モーリッツさん。ちょっとゆっくりで……」
この人の速度に合わせると歩きにくい。
腕を引っ張ると不快そうにはされたが、歩く速度はゆっくりになった。
いまの本当に一体何だったのだろう。一息つけそうな場所でゆっくり息を吸っていると、背後から声をかけられた。
「やっぱりやらかしたわね」
エルである。ただ振り向いた先にいたのは、いつもの三つ編み姿の彼女ではない。
緩やかな巻き毛を真珠飾りで留めた、淡い檸檬色の衣装をまとった艶やかな女性である。ややつり目がちの瞼や薄めの唇にもしっかり化粧が乗っており、一気に華やかさが増している。大粒の翠玉が首元を飾っていた。
付添人はおらず、一人きりである。呆れた眼差しがこちらを捉えていたけれど、そんなことはどうでもよかった。
「エル」
「見張ってて正解だった。まったくもう、念のためって保険をかけてて……え、なに」
ぼやいているけれど、いまそれはどうでもいい。
やだなにこれ、今日のエルったらすごく可愛い。
「うそ、こんな衣装仕立ててたなんて教えてくれなかったじゃない。聞いても教えてくれなかったし心配してたのに、わあ、すごい可愛い」
「は? いや、わたしのことはどうでも……」
「もっと教えてくれたらお揃いでなにか仕立てたのに……。髪も解いたのよね、素敵。三つ編みも可愛いけど今日のエルも……」
「コンラート夫人」
興奮しかけたところをモーリッツさんの一声で制された。
でも友人のこんな姿を見せてもらったら盛り上がるのも無理ないのではないだろうか。
名残惜しげに離れる私に、こころなしかジト目のエルの視線が冷たい。
「……踊りの相手がエルだったらよかったのに」
「正気に返れ」
本心なのにあんまりだ。
ここでモーリッツさんは知り合いから呼ばれて席を外した。私も行くべきかと思ったが本人から断られたので仕方ない。暇だというエルと一緒にしばらく待機である。
給仕からグラスを受け取ったエルは、ちびちびとお酒で喉を潤している。同じのをもらおうとしたら、度数がきついから果実酒にしろと別のを勧められた。
その間、彼女に近づこうとした男性がいたが一瞥しただけで追い払っている。壁の人となった私たちは、ほとんど彼女のお陰で二人だけの会話に興じることができるのだ。
「エルもすっかり注目の人ねえ、これだけ綺麗なら仕方がないけれど」
「いやあんたもだけど」
「モーリッツさんがいるのに正気かしら」
「いても声くらいかけるでしょ。大体あのしかめっ面に風除けを頼もうなんて無理があるわよ。いまだって結構噂はされてたけど、全然親しげには見えなかったから」
「でもあの人は、どんな人に対してもそうよ?」
「そりゃそうだけど……」
そもそも女性の同伴がないから、一緒にいるだけで効果あるんじゃないだろうか。にこっと笑顔を向けられる方が、この世の終わりを連想させられ不気味である。
お酒……は、まぁまぁ美味しいと感じるくらいかな。水分がないよりマシと言った程度である。会場は想像していたより賑やかで、浮かれている人々が多いようだ。楽しげな雰囲気だった。
「ところでエル、さっきなにか妙なことを言ってなかった」
「え? ああちゃんと聞いてたのか」
「あの瞬間を逃したら思いっきりエルを褒められなさそうだったから。……あ、照れた」
「照れてない」
ほんのり頬を染めたエルはとても愛らしい。これで少しは彼女への偏見を捨ててくれる人が出てくると嬉しいけれど……。
「もしかしてさっき助けてくれたのはエル?」
「なんだ気付いてたんじゃない。……失敗しないようなら手を出す気はなかったんだけど、見てたらああもう間違えるなってわかったから」
声を潜めると、私の想像通りの答えを教えてくれた。身体のあちこちに魔力で紡いだ細い糸を繋ぎ、まさに操り人形の要領で助けてくれたようだ。まさに天の助けではあったが、そんな仕掛けいつ施したのだろう。疑問はすぐに解決された。
彼女と一緒に寝た、あの夜である。私の要領があまりに悪いから、当日もしものことを考え術を埋め込んだとかナントカであった。先見性に優れているがそんな前から仕込むくらい駄目駄目だったのだろうか。ちょっと悲しい。
「それで、次も助けた方が良い?」
「も、もう落ち着いたし、どんなものか掴めたから大丈夫」
会場で魔力なんて行使して大丈夫だろうか。つい不安になったが、エルはふふんと唇をつり上げた。
「この程度騒ぎになるようなもんじゃないし、他の連中に掴ませるほど間抜けじゃないわよ。シスだったら気付くかもしれないけど、微細なものだし気にも留めないでしょうよ」
「……そういえばシスはいないの?」
「出ないと思うわよ。あいつ派手好きなくせにこういう騒ぎ……じゃなくて、出る気になれないみたいだから」
流石のエルもこの場では表現に気をつけたようで、この言い様で察した。
シスは人を、特に皇帝カールに良い感情を持っていない。彼をお祝し称えるのが目的の誕生祭の出席など真っ平御免とでもいって引きこもってるのだろう。
「エルはなんだかんだ言ってシスを気にかけてるわよね」
「まぁ、話が通じるのあいつくらいだしね」
「今日のその姿は見せないの?」
「……どうせ見せても無反応よ」
つまりまだ見せてないというわけだ。時間があったら彼に会いに行ってはどうだろう。そう提案しかけたところで、外野が騒がしくなった。
殿下、という言葉が耳に飛び込んでくる。一部は招待客の範囲も広いから、滅多にお目にかかれない皇太子に皆さん興味津々なのだろう。
混雑に巻き込まれるからわざわざ近くに向かうような真似はしないが……。
「……カレン?」
「ん?」
「ん。じゃなくて……どうしたの、気分悪い?」
「まさか、調子が悪かったら大人しく休んでるってば」
どよめきは大きくなってくる。こうして目の当たりにしていると、彼は時の人なのだと実感が強くなるばかりだ。
見るつもりはなかったのだが、彼らが音楽と人の輪に加わり始めると自然と目に入るタイミングは生まれてしまう。彼らを眺める人たちからは口々にその容姿と組み合わせの妙を称える賛辞が漏れ出ていた。
彼は案の定、その外見を最大限に生かす装いに身を包んでいた。長めの外套には銀糸と金糸の刺繍、普段はあまり身につけないであろう装飾品だが、その煌びやかさに劣っていないのが驚くべき点だろう。
その彼、ライナルトに寄り添うのが、以前彼の執政館で見かけた女性である。
リリー・イングリット・トゥーナ公爵は魅力的な人で、彼女を一目見た女性は一目で残念そうに目を伏せてしまうに違いない。今日は驚くべきことに黒を基調にした羽根飾りと透けた生地が特徴的な装いで、まさに絢爛豪華という他なかったけれど、不思議と違和感がないのだから感嘆を禁じ得ない。
「……踊り終わったら声かけにいったらいいじゃない?」
「この人混みの中で? やめとく、向こうも忙しいだろうから迷惑だもの」
「あ、目が合った」
「え?」
「いや、殿下。こっち見たけど」
などとエルは言うが、公爵の手を取るのが忙しいライナルトがこちらを視認することはないだろう。
……あれから飾り紐のお礼もろくにしてないから、顔を合わせにくいのだよね。まさかシャロを使って遊んでますとも言えないし。
まあ、私は大人しくモーリッツさんを待っていることにしよう。この広い会場や宮廷に興味がないわけではないが、ここで疲れても後に響くだけである。
「うわ」
「なに、どうしたの」
「ちょっと、頑張りなさいよ」
友人の視線の先には、笑顔で人々の誘いを断りながら、真っ直ぐにこちらへ向かってくる美丈夫の姿がある。当然知った顔であり、彼の目的が誰であるのかは目が合った瞬間知れてしまった。
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