77、閑話・あなたに恋をしたのです。

 女を殺したことがある。

 それを悔いたことなど決してなかったが、もしも、と考える時はある。


『もしあの女と出会わなければ、いまより自分は優しい女であれたのではないか』と。

  

 それは子を産み、育て、そして穏やかなはずの日常を手に入れたはずのいまでさえ時折頭をかすめていく。

 女と出会ったのは夫となるべき青年が若かりし頃。彼女がうら若き乙女だった時の話だ。

 彼女はファルクラムという国の名家にうまれ、青年の妻となるべく日々つとめていた。王妃となるべき娘が教養が足りなくては目も当てられない。礼儀作法、踊りはもちろん、歴史や勉強も男顔負けの知識を教え込まれ、彼女もまた家の期待に応えるべく寝る間を惜しんで勉学に励んだ。

 生を受けて以来、あらかじめ定められた道であっても歎きはしなかった。同年代の少女達が好む恋物語を読んだこともあったけれど、青年以外の男性に興味を抱くことはなかったのである。

 彼女は青年が好きだった。青年もまた、彼女を好いてくれていたから幸せだった。


 それが崩れたのは彼らの婚約を目前としたある日のことである。


 青年が、とある娘に恋をした。

 その女とはとある夜会で出会ったと聞いている。中流貴族の娘で、極めて美しい容姿を誇っており、彼女とは正反対の華やかさがある娘である。

 青年と娘は惹かれあい、逢瀬を重ねた。彼女は我慢ならなかったけれど、両親含め周りは「放っておけ」とにべもない。


「中流貴族相手の恋など一時的なものだよ。品格や教養、すべてにおいて比べるまでもなくお前の方が優れているのだから放っておきなさい」


 ……彼女は我慢したのだ。

 青年はきっと自分に振り向いてくれるだろうと信じて、いっそう稽古に打ち込んだ。彼女は、あの女とは比較にならないほど努力を重ねている。青年は戻ってくるだろう。いや、戻ってこなくてはならないのだ。

 気まずさ故か、その頃はとっくに会わなくなっていたけれど、青年を待ち続けた。そんなある夜、偶然にも女と二人になる機会があった。

 どんな会話をしたのかはよく覚えていない。思い出したくないというよりは、ある言葉が鮮明すぎて他のことなどすっかり頭から消え失せてしまったせいだ。


「殿下は貴女のことをお優しいと仰ってましたけれど、本当にお優しいのだけが取り柄の方なのですね」


 女は生まれつきとても美しい容姿を誇っており、対して彼女は衣装と化粧の力を借りねばならない平凡な顔立ちであった。男相手にしなを作るのが得意な女と、いつも背筋をぴんと伸ばした彼女。未来の王妃にしては華が足りないと噂されていたのは知っていた。二人の会話を聞いていた侍女が慌てふためいたのも事実に拍車をかけたのかもしれない。

 そのとき、彼女はにこりと微笑んだ。怒りで腸が煮えくり返るというよりは、彼女の中からあらゆる感情がスッとこそげ落ちていく心地だったかもしれない。

 あくる日、彼女はこっそりと女を呼び出して小さな船に乗った。彼女は軽装で、女は豪奢な衣装や青年から贈られた飾りに身を包んでいたが、彼女はやはりそれらも無視した。


 翌日になって、女が湖に浮いている姿で発見された。


 言い訳なんてするつもりはなかったけれど、両親や周りの人間達は不思議と彼女を咎めなかった。いつのまにか女に与えられていた侍女達は消えていたし、彼女もそれを問うような真似はしなかった。

 女は意外にも人気者だったようで、その存在を惜しむ声は多かったけれど、そんな声も次第に失せていった。

 こうして嘆き悲しむ青年を彼女は慰め、二人の関係は元通りになったのである。

 青年と彼女は結ばれ、国王と王妃となっても仲睦まじかった。幸いにも男の子を二人も授かって、あの女の存在を思い出すことはなくなった。夫もそうであると疑っていなかった。

 もはや長男が次王になるのは疑うべくもない。夫が王位を退いた後は、寿命尽きるまで、二人でどこか小さな家に移り住むのも悪くないだろう。将来の計画を立てていると、王妃は目を疑うような光景を目撃した。

 ――あの女がいる。

 無論、錯覚である。勘違いした相手は箸にも棒にもかからないような貴族の令嬢だったし、なによりいくら瓜二つでもまだ二十歳にもなっていない娘だ。とはいえ気分が良いものではないし、早く追い返してしまおうと手を打つ直前に、夫の目に少女の存在が入ってしまった。

 そこからは止められなかった。

 あの頃とは違い、青年は年を経た王になってしまったのである。側室を迎えたいといった夫の意志を止められるわけもなく、また、よりによって長男が王の意志を尊重した。

 共に嘆いてくれたのは次男だけだ。

 悲しくなかったわけではないけれど、受け容れるしかないのはわかっていた。これは側室となった娘と話をして、あの女とは正反対の人柄だから、と自身を無理矢理納得させたのも大きかっただろう。そっくりなのはあの女と娘が遠縁関係にあったからにすぎないだけだ。こうなれば極力側室を目に入れないよう、心穏やかに過ごすしか方法はないだろう。

 なにより、このときの彼女の支えは夫だけではない。王妃として、そして子の母として在れば良いと言い聞かせていたのだが、今度は側室が妊娠したという報せである。

 やはりアレはあの女の生まれ変わりなのだ。

 もはや一人も二人も変わらない。

 臣下に命じて側室に堕胎薬を盛ったのは失敗した。表向きは側室の侍女が企んだという話になっているし、犯人は成敗され解決した……と収まっているが実際はもう少しだけこみあっている。

 夫にばれていた。

 始末を任せた次男が裏切ったのだ。正義感が強すぎたジェミヤンは、無実の侍女を殺した罪悪感に苛まれたのである。母の過ちを許せなかった次男は疲れ果てた末に父王に話してしまった。


「側室を不服とするならば夫人ではなく、わしを狙うべきではなかったのか」


 ……以来、いっそう夫は彼女に寄りつかなくなった。会う人間にも制限がかけられてしまったのは、城内の一部の人間しか知らない話だ。

 なにも知らされていない側室は夫に愛されながら子を産み育て、王妃である彼女は寂しく朽ちていくのだろう。長男であるダヴィットは王妃の元を訪れた際、こんな会話をしている。


「これはお前達のためでもあったのに、どうして陛下は理解してくださらないのか」

「俺としてはあの側室を生かそうが殺そうがどうでもよかったのですが、もう少しうまくやるべきでしたね。あの潔癖で気弱なジェミヤンは、清く正しいと信じていた母上の所業にひどく参っています」

「参っているなどと……。そんな、ジェミヤンは、ただわたくしを心配して……」

「汚れ仕事を任すのならジェミヤンではなく俺に頼むべきだったと言っているのです」


 狼狽える母を遮り、ぴしゃりと言ってのけた。


「母上はしばらくジェミヤンには近寄らないでいただきたい。あいつはただでさえ思い込みの激しい性格なのです。俺たちの喧嘩が長引くのは母上も望まないでしょう」

 

 こうして業を煮やしたダヴィットがジェミヤンと王妃を引き離した。

 彼としては誰がサブロヴァ夫人を殺してもよかったのだが、それが己や弟の身に降りかかるのは御免なのである。このとき兄弟は仲が悪いと噂されており、ダヴィット自身も否定していなかったが、彼は弟が我が儘で愚かであっても、最後は自分に与する者と疑っていなかった節がある。


「赤子にも使い道くらいあるだろうに。まったく、母上は軽率が過ぎる」


 無事に生まれるのであれば反ダヴィット派が生まれて間もない赤子を擁するだろう。有事の際は彼らを一掃する手間が省けるとさえ考えていた。

 ある時など、護衛に対しこうも呟いている。


「サブロヴァ夫人も俺を拒み父上を選ぶとは見る目がない。いっそ俺の子であったのなら擁護なりしてやったものを」

「殿下、その仰りようはあまりにも……」

「わかっている。俺とて赤子が可愛くないとは言わんよ。反抗しない限りは好きに育てさせてやるさ。どういうわけか夫人にベタ惚れの父上も悲しむだろうしな」


 ダヴィットの女癖の悪さは留まるところを知らない。近年など人妻に興味を持っているようで、自身の妻を差し出そうとする臣下もいたくらいだ。この悪癖さえなければ……とため息を吐く配下である。

 このように王家の密やかなもめ事が生じてはいたが、この時点においては王妃も、そしてダヴィットも国の崩壊など考えてもいなかった。彼らの将来設計が狂ったのはコンラート崩落の報せが届けられてからである。

 王妃はコンラート辺境伯の訃報を知り、盛大に嘆いた。現在の辺境伯夫人を好きになることはなかったが、辺境伯の人柄は好いていたし、老人の最初の妻とは多少なりとも交流があったためである。


「嫡男と共に命を落とされたとは、さぞ無念であったでしょう。……逃げ延びた方々はできる限り保護しておやりなさい」

 

 コンラートの崩壊とラトリアの脅威は彼らの心に暗雲を漂わせた。王妃もこれまでにない胸騒ぎを覚えていたが、国内の混乱を治めるのを優先した。浮き足立つ城内の使用人達を叱咤し、自ら貴族らを訪問しては彼らの不安を取り除くべく邁進したのである。これらの行動は王に頼まれたわけでも相談したわけでもなかったが、彼女は自身の役割を心得ていたし、王も妻にできる限りの支援を行った。こればかりは長年連れ添った夫妻の阿吽の呼吸である。

 王妃が自身の死神と向き合ったのは、長男と次男をたて続けに亡くしてしばらくしてからのことである。

 さしもの王妃も子の喪失には簡単に向き合えなかった。いくら言い争いや喧嘩があろうとも、死んでほしいとまで願ったことはない。もはや王妃としての務めなどどうでもいい、国王と共に泣き崩れた後は自室でひたすら息子達の遺品を撫でるばかりである。時間が経てば、やがて側室の元に通うようになる夫を恨んだだろうが、いまの彼女は突然の喪失に呆然とするばかりであった。

 そんなある日のこと、彼女は青ざめた大公夫人に連れ出された先で夫の亡骸を見せられた。

 思考する、という行動はすべて放棄された。

 金髪の青年が朗々と彼女になにかを語りかけていたのだが、ほとんど耳に入っていないようだった。まだ体温の残る夫の手に触れ、息がないことを確認するとゆっくりと顔を上げる。

 このとき、王妃の罵倒を予想していた人々は別の意味で驚かされることになった。


「……ああ、そう。これはあなたなりの復讐なのかしら、ライナルト」

「いいえ。母の復讐は母だけのもの。私は自分の望むべき道を進んでいるだけですよ。そこに母の思惑は欠片もありません」


 そう、と彼女は素っ気なく呟くと、それまで浮かんでいた苦悩は消え失せていた。どこか憑きものが落ちたような顔を見せる王妃の表情は、彼女と古くから付き合いのある者が見れば違いは一目瞭然だ。

 まるで国王と婚約する以前の、うら若き乙女だった頃を連想させる穏やかさがそこにある。

 

「夫は罪悪感に苛まれていたようですが、わたくし、ローデンヴァルト夫人を彼らにお渡ししたことはなにひとつ恥じてはおりませんのよ。だって国を守るためですもの」


 うっすらと笑う王妃はどことなく得体が知れなかった。大公夫人が顔を強ばらせたのも気付いていないようである。ライナルトは王妃の変化も意に介した様子はなく、死の宣告を行った。


「結構。それならば私もあの老人ほど貴女を惜しまずに済む」


 用意されていたのは葡萄酒が注がれた杯である。中にはさほど苦しまず逝くための毒が入っている、と聞かされた王妃はじっとそれを見つめるのだ。


「夫の意見など無視して、あなたが生まれたときに殺しておくべきでした」


 驚くべきことに、誰の手を借りることなく自ら葡萄酒を飲み干した。矜持が高く、決して自ら死を選ぶことはない、王妃は最後まで誇りをもって抗うだろうと予想していた人々は驚愕しながら声をなくし、王妃が倒れ息を引き取る様を見送ったのである。

 死の間際、王妃が見つめていたのは夫の亡骸だ。

 息苦しさに胸や喉を掻きむしる彼女が今際の際に抱いた想いは、誰にも伝わらなかった。

わかるのは、意外にも心安らかな死に顔を見せていたということだけだろう。

 夫や息子と共に葬られることだけが救いだったかもしれないと語るのは、この動乱を生き残った大公夫人の弁である。

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