第19話 それぞれがご機嫌で
ご機嫌だ。
気持ち悪いくらいご機嫌だ。
「カレン、頭痛はどうだ。体調が優れないなら医者を呼ぶからちゃんと言ってくれ」
「大丈夫、問題ない、ありがとう」
「しかしまだ包帯は取れてないだろう。これから徐々に治していくのだから、完治するまで無理をしてはいけない。なんならアヒムを走らせるから用事があればなんでも言いつけてくれてもいい」
「いらない、寄越さないで、本当にやめて」
「照れなくてもいいのにな。そう思わないか、アヒム」
「もうやめてあげましょうよ」
誰が気持ち悪いって、妹の前でみっともなく相好を崩す兄さんである。普段は調子に乗って私をからかうアヒムまで同情をはじめている有様だ、穴があったら入りたい。
どうしてこんなことになったかって、それは勿論あの絶望の朝。もっと詳しく述べるとその前夜が原因だ。
「坊ちゃんを呼んでくれた、その事実だけを胸にしまってあげてください。年頃の娘さんにとっちゃ相手を間違えたってのはかなり恥ずかしいんですよ」
やめてアヒム、本当にそれ以上はやめて。フォローしてくれているつもりだろうけど、状況説明は傷に塩を塗っている。
「奥様も可愛いところがあるんですねえ」
ニコは笑顔で和んでいるし、スウェンはこちらをからかう気満々の笑みだ。ヘンリック夫人は平然としているが、出してくれたお茶が甘めだったのを私は知っている。この人は甘やかしたり同情してくれるときはお砂糖を奮発してくれるのだ……!
「カレンが可愛いのは昔からだったよ。うん、ライナルト殿にしがみついたのは驚いたが、私と間違えたのなら仕方ない」
「ですから坊ちゃん、黙って」
…………そうだ。そうだとも。私は兄さんとライナルトを間違えた。兄さんの声が聞こえたから咄嗟にしがみついたらしいのだが、よりによって捕まえた相手があの男性だった。
寝ている人の前で会話なんかしないでくれという文句はともかく、私はライナルトを捕まえたまま意識を手放した。服を離さないので彼は上着を脱いで退室したらしい……と聞いた時は恥ずかしさのあまり発狂しそうだった。
「大丈夫だカレン、ライナルト殿も理解していらっしゃったから、お前の気持ちを考慮して朝の見舞いを遠慮してくださったんだろう」
「ぐぁ……」
「ほんとやめましょう坊ちゃん。浮かれすぎですよ、お嬢さんが面白……んんっ、可哀想すぎます」
アヒムは覚えておけ。兄さんも余計な気を使わせたのがなおさら刺さるのだと何故わからない。兄さんらしくない浮かれようは腑に落ちなかったのだが、これにはアヒムがこっそり耳打ちして教えてくれた。
「浮かれてるのは許してあげてください。坊ちゃん、婚約者殿に振られて以来落ち込み気味だったんですよ」
「……は? 振られた? なんで、いつの話?」
「ゲルダ様が見初められる少し前ですね」
「え、だって、そんなの一言も……」
「理由が理由だけに言えなかったんですよ」
兄さんには十年以上前から夫婦になるのが決まっていた婚約者がいる。兄さんも相手も一緒になるつもりで付き合っていたはずだと記憶しているのだが、アヒムは乾いた笑みを浮かべるのだ。
「いやー……大事にし過ぎたんでしょうか。坊ちゃん、浮気された挙げ句に文句を言う暇もなく結婚されちまいまして。……あなたは頼りないわーって言われたのを引きずってたんです。その分お嬢さんに頼られたのが嬉しかったんじゃないかと……」
「……先方のお家、よく許したわね。父さんの古い友人だったんじゃないの」
「ええまあ双方のご両親はお怒りでしたが……。何分、そのときはただの中流貴族でしたからねえ、浮気相手の男の方が身分高かったんですよ。ただ、ゲルダ様の話が出てからは……ははははは」
意味深な笑み。アヒムは相手の本性が知れたからよかった、とほくほく顔だが……もしかして兄さんの婚約者のこと嫌いだったな?
「坊ちゃんの婚約者ですよ! 嫌いなんてとんでもない。裏がありそうな女だと思ってただけです」
爽やかに言われても説得力がなかった。私が寝込んでいる間にスウェン達や兄さんはいつの間にか仲良くなっていたらしく、雑談に花を咲かせているのを尻目にアヒムは声のトーンを落とした。
「ところでカレンお嬢さん、真面目な話、本当にいいんですか」
「いいって、なにが?」
「体調ですよ。包帯だって取れてないし万全じゃないんでしょう。ローデンヴァルト任せは癪ですが、戻るのは完治してからでもよくありませんか」
「そんなの待ってたらいつまで経っても帰れないじゃない」
「でもですよ、万が一傷が残ったら……」
「あの魔法使いさんなら信用できると思うけど。それに顔の痣はとっくに消えてるし、頭や手足くらいなら別に疵痕が残るくらい平気よ?」
「いやいやいや駄目でしょそれは」
アヒムが止めようとしたのは、本日の帰省である。
あの日以来、ずっと寝込んでいたからライナルトの所有する別荘に厄介になっていたのだけど、今日は熱も下がり歩行も支障がなくなっている。すっかり元気……というと夫人から睨まれるので大人しくしているが、そろそろ楽に休める家に帰りたいのだ。
「いつまでもお世話になるわけにはいかないじゃない。シクストゥスさんもあと二回くらいだから、こちらに通ってくれると言ってくれたし」
なにより、宿にしているコンラート伯邸は人員が少なく使用人の目が少ないから自由に寝転がれる。
そういうわけで、いまはニコの持ってきてくれた私服に着替え終わっている。あとはさあ家に帰ろうという段階なのだが、ひとまず全員でお茶の席を囲んでいた。姉さんの姿が見えないが、あれで忙しいらしく今日は姿を見せていない。
「兄さんやアヒムだって私を動かせないから通ってくれたんでしょう。いつまでも皆にお見舞いに来てもらうのも申し訳ないの。心置きなく休みたいところだわ」
「それは……そうかもしれませんが」
「大体ねえ、仮にも婚約話の出た相手の家に、いつまでも滞在するのはどうかと思うのよ」
「世間体ですか? それならお嬢さんはいまもコンラート伯邸にいることになっているし、スウェン達もうちの馬車を使ってもらってますから大丈夫だと思いますが」
「あ、それよそれ。ちょっと見ない間に、随分仲良くなったのね」
「素直な坊主ですからねー。下手に擦れてないし、ああいう子供は好きですよ。……ちと素直すぎるんで、こっちで住むことになったらいくらか教えなきゃならんことはありますが」
「あら……アヒムが気に掛けてくれるなら心配いらないかしら」
アヒムはスウェンが気に入ったらしい。様付けで呼ばないのがその証拠で、対するスウェンも気にした様子がないから本当に打ち解けてしまったのだろう。アヒムが心配したのはスウェンの真っ直ぐな気性だが、これは多少なりとも今回の拉致に絡んでいる。
とはいえスウェンが悪いのではない。全面的に問題があったのはラング含む詰所の兵達なのだが、口論のきっかけになってしまったのは事実だった。
事の発端なのだが、まず、ニコと詰所の兵の誰かがぶつかってしまったのが原因である。ニコは謝罪したが、相手は虫の居所が悪かったのか彼女を一喝。それをスウェンが咎めて口論となった。うん、スウェンを褒めてあげたい気持ちでいっぱいである。
問題はここから。
こればかりは不運だったとしか言い様がない。スウェン少年は可愛い顔に見合わずとても口が回るのだが、観衆の前で相手を言い負かしてしまった為に逆恨みを買ってしまい、帰り道で仕掛けられた。
さあ帰ろうと御者が馬車を動かしたところで、被害者の自発的な飛び込みによる事故発生。これはさあ大変だと続々出てきたのは相手のお仲間、ラング一行である。衛兵も出てきたらしいが連中は口八丁で彼らを言いくるめ、後処理はうまくやるからとスウェン達を連れていってしまった。
なおニコの怪我が酷かった理由は、スウェンを庇ったのが原因である。連中の怒りを察していたのか、自ら挑発して矛先を逸らしていたらしい。
……私はうっかりをしでかしたし本当に役に立たなかったけど、二人に関してだけは間に合った。二人は危うく襲われる直前だったが、私たちが詰所を訪れたために一旦保留となったらしい。けだもの相手には性別すら関係ないと思い知らされた話である。
ここでスウェン達との談話が途切れた兄さんが振り返った。
「ところでお前達、いつまでひそひそ話をしているつもりだい」
「なんでもありません。ところで、ウェイトリーさん遅いですね」
「うちとは話がついているが、コンラートはこれからだからね。長引くのは仕方ないさ」
少年少女に気を使って言わなかったようだが、キルステンと違いコンラートはローデンヴァルトと仲が良いわけではない。事件をひた隠しにしたいローデンヴァルト側の提案は、跡継ぎと……一応正妻である私を害されたコンラート側にとっては憤慨ものであり、易々と受け入れられる話ではなさそうなのだ。私や、救援に駆けつけてくれたライナルト達に恩義を感じているスウェン達の援護もあったけれど、話し合いは難航している可能性がある。スウェンは非が犯人達にあると理解しているけれど、監督問題等が絡むとややこしいからね。兄さんやアヒムが殊更饒舌なのも、スウェンに気付かせないようにする優しさがあるのかもしれない。
そしてそのコンラート側だが、伯の名代としてウェイトリーさんが都入りしている。怪我の報せ含め早馬を飛ばしたらしく、往復十日以上かかる道程を相当短縮してやってきたのだ。
家令であるウェイトリーさんが名代というのは驚いたが、ヘンリック夫人はさも当然だという顔をしていた。
「いまでこそ家の内部を取りしきっておりますが、ウェイトリーは元々旦那様の秘書官でした。親類に任せるよりは信頼がおけると判断されたのでしょう」
ついでに馬の扱いも上手らしい。
肝心のコンラート伯だが、体調が思わしくないらしく馬車の長期移動をウェイトリーさんに止められた。エマ先生も息子達を心配したが、伯専属の医師というのもあって止むなく断念したという背景である。
……時にヘンリック夫人、親類に任せるよりはってどういう意味だろうか。
それより少々気になっていたことがある。お湯をもらいに行くという夫人が席を外した一瞬を狙って声をかけた。
「奥様? 御用でしたらわたくしが代わりに行きますが……」
「あ、違うの。夫人に聞きたいことがあってね」
「わたくしに、ですか」
「ええ、もしかしたら答えにくいかもしれないのだけど」
聞きたかったのはずばり、あの詰所での彼女の発言だ。
「あのラングという男達が本性を現す直前です。夫人はローデンヴァルトの名を出されましたよね」
「あれ、ですか……。あの名を出せば彼らが引くと思い……。わたくしの浅慮が奥様を傷つけさせてしまいました。本当に、なんとお詫びしたら良いか……」
気にしていたらしい。見るからに肩を落とす夫人に、そうではないと両手を振った。夫人だって必死だったのだ。
「違うわ、責めてるのではないの。実はね、私はあの詰所がローデンヴァルトに関連する方々がいると偶然聞いていたの。だから馬車で焦ってしまったのだけど、夫人は何故知っていたのかしらと思って。……あそこって、あまり知られてるわけではないのですよね?」
「ああ、そのことですか……」
焦っている様子も隠し立てしている様子もない。私の疑問もすぐに理解したようで、周囲に視線を巡らし、人気がないのを確認するとそっと声を潜めて教えてくれた。
「確かに普通ではあまり知りようのない話でございますね。奥様の疑問ですが……昔は都に住んでおりましたし、旦那様の前の奥様と一緒に宮廷に上がっておりました。その折、偶然ですが耳にしたのですよ」
「……そういうことですか。でしたら、その頃に宮廷にいた方々には知れ渡っていたのでしょうか」
「いいえ、わたくしが聞いてしまったのも本当に偶然でございました。そのような噂もなかったですし、広まっていたということはないでしょう」
「……では、コンラート伯やウェイトリーさんは?」
「知っているでしょうね。……ご安心ください。旦那様のご指示もあったはずですし、ウェイトリーは無闇に蜂の巣をつつくような真似はいたしません」
夫人はやや言いづらそうに視線を落とす。
「……それに、わたくしの知る限り、この話の真相を知っている方々はほとんどがお亡くなりになっているはずですので」
「あの、それって……ライナルト様の身の上に関係がありますか?」
……夫人は沈黙したが、それこそが答えのようなものだろう。思わぬ収穫だが、夫人はライナルトの父親についていくらか予測がつけられるらしい。
私が興味を示したからか、夫人は首を横に振っていた。
「国内の詰所にあのような…人を人とも思わぬような者がいたとは、わたくしの考えが足りなかったとお詫びいたします。けれどその質問にお答えするのは不可能です。なぜならわたくしも偶然とはいえ噂を耳にしただけ。確証のない話はできません」
モーリッツさんも言っていたが、彼ら帝国から派遣された兵はローデンヴァルト家が帝国と繋がってるのはさほど隠していない。けど、次男のライナルトの身の上については徹底的に隠したい、のだよねえ。……これが木を隠すには森の中っていう、所謂カムフラージュなのかな?
……あー! なるほどなるほど。ライナルトの馬車で送ってもらったとき、彼を見た夫人が奇妙なくらい固まっていた理由はこれか!
ひとつ謎が解けたが、これ以上を聞くのは止めだ。聞いた私も悪かったが、万が一でもモーリッツさんに知られてしまえばヘンリック夫人の身が危うい。
「奥様、差し出がましいようですが、もしあの御仁に心惹かれてるようでしたら……」
「へ?」
「早めに旦那様にと言おうと思ったのですが……違いましたか?」
「え、えええ。違いますよ。目の前に謎があったから興味を持っただけで……私の目的は最初から変わってませんって」
「そう、ですか……随分親しいご様子でしたから、つい……失礼しました」
「い、いいえぇ」
おお……とんでもない誤解が生まれる前でよかった。
「あまり引き留めては兄さん達に怪しまれますね。引き留めてすみません。私は……あ、お手洗い行って来ます」
「でしたらニコを……」
「そのくらい一人でできますから、痛み止めも効いてますしっ」
指に悪いとは思っているが、痛みがないのをいいことにトイレだけは絶対一人で入るのを死守している。
心配なのか付いてこようとする夫人を撒いて廊下を曲がったのだが、実を言えばトイレに行きたいわけではない。
「えーとどこにいるかしら」
窓から外の様子を窺うと、黒い制服姿の人たちが多数たむろしているのが目に入った。探し人は目立つから見つけ出すのは容易い。一階に下り目的の人と会話を済ませ、部屋に戻る頃にはウェイトリーさんも戻ってきていた。……確かによーく見ると、服装を文官っぽいものに変えても違和感がなさそうだ。
「大変お待たせ致しました。旦那様からの御用向きもつつがなく完了いたしましたので、屋敷に戻るといたしましょう」
一定の年齢を超えた大人特有の笑みをたたえ、私たちはライナルトの別荘を発つことになったのである。
見送りには当然ライナルトも姿を現した。どこにいたのかモーリッツさんやニーカさんもいる。ウェイトリーさんや兄さん達がいるためか、どうも話しかけられる雰囲気ではない。
この頃には私も面の皮を厚くしていたので、ライナルトにも笑顔で挨拶することができた。
「皆様には大変良くしていただきました、ありがとうございました」
「できれば完治まで我が家に滞在していただきたかったが、カレン嬢の負担を考えれば仕方ないのでしょう。後ほどシクストゥスを伺わせる、暇人ですので好きに使ってください」
「……そのシクストゥス様はどこに?」
「さて、あれの行動は私にも読めません。ですが治療には問題ない人物であるのは保証しましょう」
「ライナルト様のご紹介ですもの、ええ、信用しております」
……上着を駄目にしてごめんなさいとは言えなかったのは許してください。ライナルトもなにも言ってこないのが救いである。
怪我があるので簡易的な礼だ、もう指先キスはないなーよかったと思っていたのだけど、うんうん私が甘かった。この人の発言は私の予想斜め上を行くのである。
「それではご機嫌よう、ライナルト様」
「カレン嬢はどうか無理をなさらぬよう。それと失礼ながら貴方の申し出はいくらか楽しませていただいた、希望の品は必ず届けさせると約束しよう」
……希望したのは帝国の公庫利用権くらいだが、モーリッツさんから話が伝わったんだろうか。秘密の取引だから尋ねようにも公の場で声にするわけにもいかず、お互いしばらく見つめ合ったのち、麗人は涼やかに、私は愛想を全開に笑い合った。
こういうのは狼狽える方が逆効果なのである。他の人の目があるので内心は恥ずかしいけど、私も彼に負けないよう別れを告げた。
「それではお元気で、皆様が健やかでいられるよう心から祈っております」
馬車の出発と共にライナルトと、屋敷に残るらしい兄さん達が背を向けると、窓からニーカさんに向かって手を振った。「ありがとう」と口パクで伝えると、彼女は戸惑いながらも小さく手を振ってくれる。
「なーカレン……」
「スウェン様、だめです」
「でもニコ、さっきの……」
「いまのはニコでも突っ込んじゃだめってわかるんです。だめったらだめ」
……外野の声はともかく。
やっぱり、帝国の人ってだけで嫌うのは難しいよねえ。
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