第10話 混乱を極める

 これほどまでにカミル氏とエマ先生の穏やかな笑顔が見たいと思ったことはなかっただろう。ほんの少しの期間しか生活を共にしていないのに、あの日、この身を受け入れてくれた彼らの穏やかさは私にとって救いになっていたのだろうか。


「話を……いえ、でも」

 

 話をしなければと思った。

 姉さんは明らかに間違った行いをしている。これを止めるのは身近な人の役割であり、真正面から正すのは家族の役目だ。

 ただ、このときの私にはその勇気が無かった。もっと言えば混乱していた。

 いくら精神面において人より倍以上の経験があったとして、身内が浮気を……。もっと言ってしまえば義理の息子と関係を持った場に居合わせて冷静ではいられない。言い方は悪いが、これがただの他人であれば問答無用で部屋に突撃して止めるなりしたかもしれないが……。相手は遙か上の身分の人であり、姉もまた独自の権威を有している。いくら妹といえど、勢い任せで突撃してはならない。日本とは違う厳しい縦社会だ、夫であるコンラート伯への不興にも繋がると考えれば、それ相応の覚悟で意見をせねばならないというのだけは理解している。

 でも、何故だ。何故、どうして彼女達はあんなことができるのだろう。

 考え込んでしまうが、ふと顔を上げると戸惑いがちな姉さんの使用人と目が合って我に返った。


「し、失礼しました。私、ここでお暇させてもらいますね。悪いけれど、殿下と姉さんには帰ると伝えておいてくださいな」


 立ち上がり、彼らに伝言をお願いする。と、とりあえずこの魔窟から出て頭を冷やしたい。いまは何と声をかけたらいいのか、頭の中がまったくまとまらないけど、殿下がいる場で話すのだけは駄目だ。せめて、そう、兄さんなり連れてきて、対策を考えてから挑まねば……。


「待ちなさい」


 帰ろうとした私の手首を掴んだのはライナルトだ。そうだ、彼を無視して帰っては礼儀に反する。間近にいたのに無視する形となってしまった非礼を詫びねばならなかった。


「気が動転してました。すみません、ろくに挨拶もしないで……」

「そうではない。……玄関から出ようとされていたが、帰りの足はおありか」

「へ? ……あ、はい、なかったですね」


 着替えは……いいや。もう勝手に部屋の中を漁るのも面倒くさい。姉さんのところから馬車を借りようと声をかけるまえに、ライナルトが自身の近衛に指示を下していた。


「モーリッツ、こちらでカレン嬢を送って帰る。急ぎ手配しろ」

「畏まりました」

「ニーカ、毛布か裾の長い上着を持ってきてもらえるか」

「自分のものでよろしければ用意がございます」

「それで頼む」

「準備して参ります」


 口出しする間も与えられずテキパキと手筈を整えてしまい、連れ出された私はあっという間に馬車の中である。ニーカさんというライナルトの配下の女性が貸してくれた上着を肩から掛けて、ライナルトと向かい合って座っていた。


「カレン嬢、コンラート伯邸でよろしいか」


 キルステンといいたい所だが、兄さんは仕事だからどこにいるかわからないし、父さんとは折り合いが悪い。言葉の代わりに動作で示していると、ライナルトの配下二人も乗り込んできた。ライナルトの隣にモーリッツさん、私の隣にニーカさんという形だ。席に余裕はあるので余裕を持って座れる。

 

「カレン様、どうぞお許しを」


 なぜモーリッツさんが謝るのか理解できなかったのだが、どうも同乗に関しての謝罪らしかった。見た目通り堅苦しい人という印象だが、規律に厳しい軍人であれば仕方ないのかもしれない。二人とも生真面目が服を着たような雰囲気と眼の鋭さがある。


「送っていただくのはこちらの方です。上着まで借りてしまって……ニーカさん、でよろしいですか? 洗って返しますから、お許しくださいませ」


 話しかけたニーカさんの方は、なぜか驚いてこちらを見てくる。……なんで?

 

「送り先ですけど、お勤め先でよろしいですか」

「お気遣いはありがたいのですが、支給品ですのでそこまでしていただくわけには……」

「そういうわけには参りません。すぐに上着が必要とあれば、もちろんお返ししますけれど」

「予備ですので、お気になさ……」

「では洗ってお返しします」


 この人、顔立ちも整っており結わえた赤毛が特徴的で、とても凜々しく格好良い人だ。気になるのは首や耳といったあたりに細かい傷があることだろうか、帯刀した剣の柄も年季が入っており、戦闘経験の豊富さを思わせた。ニーカさんは一度、ライナルトの方に視線を向けたのだが、彼が何も言わないのを察すると遠慮がちに頷く。

 

「……お気遣いありがとうございます。では、第三連隊宛に送ってくだされば届きますので」

「ニーカさんのご名字は何になりますか?」

「サガノフです。ニーカ・サガノフまでと書けば届くでしょう」

「わかりました、サガノフ様ですね」


 頭のメモ帳に名前を記し、馬車もさあ出発しようという時だ。馬車の外で問答の声が聞こえてきたかと思えば、戸が叩かれたのである。

 そこにいたのは玄関まで見送ってくれたサブロヴァ家の家令である。


「奥方様より、こちらはカレン様が持ち帰るよう言いつけられておりました」


 それは盗み聞き発覚前に結婚祝いだと渡された小箱だ。気持ちはありがたいが素直に受け取れる気分ではなかったから断ろうとしたのだけど、家令含め彼の後ろにいた使用人が縋るような瞳でこちらを見つめている。頼むから受け取ってくれと言葉無く訴えており、頭を垂れ腕を差し出す家令の額にもうっすら汗が浮かんでいるのに気付いてしまうと、受け取ってしまうほかなかった。

 明らかにほっとした表情の家令は出発を遅らせたことを詫び、彼らに見送られ馬車は動き出す。小箱の中は……変わらず、あの飾りが可愛らしく鎮座している。


「気に入られましたか」


 そんなことを問うてきたのはライナルトだ。盗み聞きしていたから知っているだろうに。


「素直に受け取れるかどうかは別として……姉にしては珍しく趣味がいいですから、ええ、これは好きです。本当に素敵だと思います」

「そうですか。では、大事にされるといい。送り主はともかく、ただの金品に罪はない」

「ライナルト様も存外、お口が悪くていらっしゃる」

「失敬、ここには気の置けないものしかいないのでつい口がすべってしまった」

「お上手ですね」


 美形に微笑まれて悪い気がする人はそんなにいないだろう。一応は笑ってみせたが、あまり話を続ける気にはなれずに口をつぐんだ。

 腕輪は本当に好みだった。台座に嵌まった薄青は柘榴石、電気石、緑柱石……さてどれになるのだろうか。宝石には詳しくないから種類なんてわからないが、綺麗だと感じる気持ちは変わらない。

 姉のことを思い出してしまう。

 ……二年という空白期間はそこまで人を変えてしまうものなのだろうか。

 それとも、側室になってしまったから変わってしまったのだろうか。どうしてもそこがわからない。

 少なくとも姉は、私がキルステンを追い出される前は、多少世間に疎くはあっても常識的な令嬢だったはずなのだ。確かに側室になってからは勝手に縁談を持ってきたり、ライナルトと引き合わせたり……。

 ………………第三者視点で考えると、自分本位に磨きがかかってるかもしれないが、それでも、人の気持ちを考えることができる人だった、と思う。

 少なくとも私にとっては悪い姉じゃない。悪くないと信じたい。

 私が母に忘れられたとき誰よりも憤慨してくれたし、母を説得しようとした。追い出される前あたりは父の書斎に乗り込んで物を投げまくって徹底抗戦の構え、諫められるとハンガー ストライキを決め込みぶっ倒れて乳母に泣いて叱られた。

 我が儘な側面もたくさんあったが、そのぶん情にも厚い人だった。

 母の過ちで壊れた家庭、その辛さに泣いた過去もあったはずなのに、今度は容易く自分がその立場になる。しかも妹が訪ねてきたただ中での行為というのは、私の知っている姉の像と違いすぎて未だに脳がバグを起こしたみたいに思考があべこべだ。

 いまある感想は、親子二代して浮気の連鎖はきついというところだろうか。姉までもとばれてしまえばキルステンは終わりである。

 でもそちらについてはまだいいのだ。本当は良くないけどまだ諫められる可能性があるから、幾分ましといえる。

 問題はそう、ダヴィット殿下だ。

 姉さんにも問題はあるが、あの下半身男には怒りを通り越して呆れしかない。どちらから声を掛けたのかは置いといてもだ、よりにもよって父王の側室を寝取るか普通。私への対応といい、もはや好感度など氷点下もいいところ。なまじ王子であるだけに、そしてあの驕慢な態度といい説教なんてしても無意味だろう。


「……理解できない」 

 

 自分の声にびっくりした。

 気持ちを声に出してしまっていたらしく、口元に手を当てる。三人の視線は当然こちらに集っており、意図しない注目に「失礼」とだけ零して視線をそらした。

 送ってもらっている最中なのだし、考えるのは後にしよう。地獄の底からやってきましたみたいな絶望的な声は品がない。


「カレン嬢、館での件ですが」

「あ、ああそうでした。あの、できれば今日の件は内密に……」

「ええ、部下共々他言はしないと約束しましょう。ただ、どこまでこの話が漏れているかはわからない。もしかすれば兄がなにか掴んでいるやもしれません」

「はい、できるだけ……できるだけで、いいので」


 絶対誰にも知られたくないが本音だけど、彼に訴えてもどうにかなるわけではない。

 ああ、あの二人いつからだ。いつからあんな関係になったのだ。頼むから他に知る人がいませんように!

  

「迷惑でなければ、兄から殿下に真意をお伺いさせていただこう」

「……そのようなお言葉、よろしいのですか?」

「おそらく兄が立ち会っていたのならば同じことをするでしょうからね。なにより、キルステンの没落は当家も望むところではない」

「お諫めいただくことは……いえ、すみません。無理を申しました」


 確か、ダヴィット殿下はライナルトの兄を「我が友」と言っていた。本当かどうかは知らないが、事実ならあの野郎もどうにかしてほしい。


「ひとまず今日はもう休まれるべきでしょう、顔色もよくない」

「そう、ですね。夜にでも兄と会えればと思っていましたが……ええ、そうさせていただきます」

 

 外はいつの間にかまた雨が降り出している。この調子で続けば霧が深くなり、外を出歩くのは困難を極めるだろう。馬車は無事にコンラート伯邸に到着し、見知らぬ家紋の馬車を使用人が困惑しながら出迎える。

 奥から出てきたヘンリック夫人やニコは度肝を抜かれたのではないだろうか。一人で出かけたと思った私が非常に整った顔立ちの美形の手を借り馬車を降りてきたのだから。


「本来ならば伯のご子息に挨拶するべきだが、このような姿なのでお許し願いたい。カレン嬢からよろしくお伝えいただけるだろうか」

「こちらも到着したばかりで慌ただしく、とてもお会いできる状態ではございませんからお気遣いなく。ローデンヴァルトには良くしていただいたと家人に伝えましょう」

「有難い。それでは、また機会があればお会いしましょう」

「ありがとうございました。でも、本当はお会いしない方がお互いのためなのですけれどね」

「違いない」


 涼やかな微笑も、以前送ってもらった時とは違う気持ちで笑顔を返せた。濡れていても去り際まで見惚れるような立ち居振る舞いである。手を取って指先に口付けは、ある程度覚悟していたので問題ない。

 彼らが馬車に乗り込み出発するまでを見送ってから、さて、と振り返った。


「ヘンリック夫人、とりあえず着替えをしたいのだけど……」


 夫人はなんとも奇天烈な表情で私を見ており、ニコは赤面している。いつの間にかスウェンが腕を組みながら立っていたのだが……。

 ニコの赤面の理由はわかる、多分ライナルトに見惚れたのだろう。だがヘンリック夫人が固まる理由は何だろうと思っていたら、スウェンが私の前に立った。ご丁寧に指を一本立てている。


「…………コレか?」


 オーケー少年。ちょっと話を付けようじゃないか。

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