第9話 ライナルトという人は

 林の中に作られた道は、あまり横幅が広いとはいえなかった。三人くらいが並ぶのがやっとだろうか。幸い手入れが行き届いているから木の根に躓くような事態は避けられそうである。姉さんは林と言ったが、使用人達に手入れはさせているのだろう。飽きない程度に小さな花が植えられていたし、目をこらせば伐採の形跡が残っていたりする。おかげで鬱蒼とした雰囲気はなく、目に見て愉しむための工夫が凝らされている。

 林に入ってからもライナルトの言葉が気にかかっていたが、答えてくれないものを気にしてもしょうがない。


「差し支えなければ、ライナルト様にお聞きしたいことがあるのですが」

「私に答えられる話であれば、いくらでも」

 

 幸いにも彼は殿下の言葉に従う気はなさそうだし、そうであればこちらから突き放す必要はない。

 

「ご存じの通り、私は貴族社会から遠ざかっていたので本来ならば知っていてしかるべき事情にも疎いのですが」


 と、前置きしておいて。


「様々な方の思惑があったとはいえ、なぜ本家ではなく我が家だったのかと思っていたのです」

「それはもちろん、姉君と懇意にしたいからでしょう」

「……」

「カレン嬢?」

「あ。失礼しました。……その、思ったよりも忌憚なくお答えいただけるのだなと」

「お望みであればそれでも構いませんが、貴方はそういった嘘を好まぬだろうし、嘘をついても見抜かれそうだ」

「評価してくださるのは嬉しいですが……わりと詳しく調べられたのですね」

「気を悪くされたのであれば謝りますが、一応は必要だったもので」


 ……オブラートに何重も包んだ物言いが好きじゃないのは事実だけど、私の性格まで調べられてるのはちょっと怖いなあ。

 どういう情報網持ってるんだろうねこの人。


「話が早く進むと考えさせていただきます」


 そう言うと、ライナルトはやはり気を良くしたように唇の端をつり上げたのだが、この人の性格がよくわからない。


「姉と話しているのを聞かれていたでしょうが、本家……従姉妹のマリーではいけなかったのでしょうか」

「姉君が貴方の地位を回復させたく願ったと聞きましたが」

「いくらなんでもライナルト様……というより、ローデンヴァルトと釣り合わないと思いまして」


 キルステンの本家はダンスト家というのだが、社会的地位で言えばダンストが圧倒的に高い。ぶっちゃけキルステンなんて中の中がいいところで、それに比べ彼の家は大層な名家である。大公とまではいかないが、ほぼそれに準じる程度の発言権を持っているといっても過言ではなかった。そういった理屈で話をするのであれば、コンラート伯との身分は釣り合っている。


「正直、姉の件があるとはいえあまりにも良縁すぎて驚いたくらいでしたし、ライナルト様のお兄様……ええと、ご当主がよく了承されたなあと疑問だったのです」

「ふむ。良縁と思われたと」

「ええ、出来過ぎてて、きっとあのままお受けすれば皆から羨ましがられるだろうなと」

「これは異な事を仰る。その良縁からカレン嬢は逃げられたはずですが」

「重ねて申し上げますが、私、ライナルト様を嫌っているわけではありませんので」

 

 もうこっそり話を聞かれた件については開き直っている。

 ところで質問には答えてくれないのだろうか。ライナルトは少し考え込むように黙り込み、私は前方に小さな池を見つけた。おそらく地下から水が湧いているのだろう、本当に小さな池なのだが、水は透き通っており、水面にはアメンボらしき虫が浮かんでいる。

 

「……少々止まってもよろしい?」

「どうぞ」


 池の端にしゃがんで湖面を見つめれば、水面に揺らぐ自分の顔が映った。ライナルトは近寄るつもりがないようで、後方でじっと佇んでいる。無理に会話をするつもりはなかった。

 湖面に映る十代の少女は、決して悪くない容姿をしている。髪質は姉さんに似ず黒髪ストレート、目は青緑というか碧色の所謂根暗っぽ……文系のそれだ。姉さんみたいに緩いくせっ毛だったらもう少し色気も醸し出せただろうか。

 心の中で無い物をねだりながら池の中に手を突っ込むと、想像以上に冷たい水が指先から体温を奪おうとしていた。


「私からは……」

「はい」

「私からは、詳しい話は教えて差し上げられないのですが」


 でもいくらか情報はくれるらしい。振り返りはせずに耳を澄ませ続けた。

 

「我が家としては、キルステンと縁を繋げるべきだと考えたのですよ」

「本家よりも、ですか」


 キルステンってダンストに頭が上がらないし、いいなり状態なのにだろうか。ライナルトはここでコンラート伯の名を出した。


「気になるのであれば、コンラート伯に頼みダンスト家について調べてもらうとよろしいでしょう」

「コンラート伯にですか」

「あの方は都を離れて長いが、その伝手はいまだ健在です。彼らの事情ならばすぐに調べられるでしょう」


 ……直接教えてくれないって事は、ちょっと後ろ暗い理由でもあるのだろうか。ともあれ彼からのヒントはありがたかった。礼を言って立ち上がると、ふと、思いついたことを聞いてみた。


「もしかして殿下がダンスト家の人ではなく、兄を連れていたのに関係ありますか」


 これにライナルトは少し目を見張ったが、肯定か否かわからない微笑で返事を返されてしまったのだった。


「ところで、私からも貴方に聞きたい話があるのですが」

「なんでしょう」


 彼から私に話があるとは予想もしてなかったが、答えられる内容であれば回答の用意がある。


「これは……そう、今回の件とは関係ない、私個人の興味からくる質問なので、答えても答えなくとも構わないのですが」


 湖面から手を引き抜いて、水を弾き飛ばしながら振り返ると目の前にハンカチが差し出されていた。自分のはちゃんと所持しているのだが、断ると話を遮ってしまう気がして受け取った。手を拭く間もライナルトは会話を続けるのだが、こういう所がもてそうだなと心の隅で感想を抱いた次第である。


「私の方こそ疑問だったのだが、なぜ縁組をお受けに?」


 わざわざ断りを入れてくるのだ。踏み入った質問だろうと思っていたら案の定である。これに対する回答はすでにカミル氏にも話していたため、同じように育ててもらったからだと回答したが、それだけでは足りないようだ。


「貴方の行動力を考えればそれだけとは……これは野暮でしょうね。それではお母上を恨んではいないと仰る」

「恨む……のは少し違うでしょうね」

「では、悲しいとは?」

「……多分最初は、そういう気持ちもあったかもしれませんが」


 さて答えていいものだろうか。些か迷ったものだが、まあいいかと話を続けた。なぜ赤の他人に話す気になったかといえば、私が母に存在を忘れられた件について、彼のように聞かれた経験がなかったからだ。兄や姉、友人達も揃って事情を知っていたから、皆は私の心情をおもんばかって質問をしてこない。だから私もわざわざ話題にはしてこなかったのである。

 ライナルトがどうしてこんな話に興味を示すかは不明だが、その表情は憐れみとはほど遠く、純粋な疑問として成立していたから話してもいいと感じたのかもしれなかった。


「なんと言えばいいのでしょうね。あの人がせめて、私を嫌うなりなにかしらの反応を示していたのなら、また違ったのでしょうが」


 母が私を忘れた経緯については十四の頃に体験した通りだが、その後も彼女は私という存在を思い出せなかった。もしも彼女の中で三番目の子供の存在があるのなら、周囲からしつこいまでに私の存在を訴え続けられる事への、或いは浮気の象徴としての無意識の嫌悪があるのならば、この存在を忌み嫌ってもよかったはずなのだ。

 ところが彼女は私を一切嫌わなかった。

 廊下ですれ違えば「おはよう、良い朝ね」「こんにちは、今日も元気ね」と声を掛けられる。お菓子が余ればお裾分けをしてくれたし、私に出す費用をケチるような真似もしなかった。嫌がらせなんてものすらなかった。ただ、他の兄姉達に対するような親の顔ではしてくれなかった。同居している余所の娘さんに対する感情以外、彼女の中にはなかったのである。

 立ち直りが早かった一番の理由は、もちろん日本人だった頃の母親の存在が大きいけれど、そんな顔合わせを毎日行っていればこちらも諦めがつく。


「あの人の中に私という存在はなかったのですね。ないから無関心でいられる、他人だから優しくできる。そんな姿を見ていたら、私はあなたの娘ですと駄々を捏ねるのも違うなと」


 母と私の中では決着がついてしまっている結末だが、これを良しとしなかったのが周りの人たち。

 そういうわけだから特に憎悪は存在していないと説明すれば、ライナルトは興味深そうに頷いていた。

 

「なるほど。そちらの事情はわかりましたが……」

「はい?」

「驚きました」


 ええ? 驚くような話か?

 ところがライナルトは素直に感嘆しているようである。


「いや、失礼を。貴方の年頃であれば両親を恨まれても仕方のない経験だ。もっと言ってしまえば、ご両親に対する反抗心すらあったのではないかとも考えていたのです」


 違う違う。結婚して国に縛り付けられるのが嫌なだけです、とは言えるわけがない。

 ……ああ、ということはだ、多感な年頃特有の反発もあるって考えられていたのかな?


「……それも無理ありませんが」

「気を悪くしないでもらいたい。実際あなたについて見聞きしていると、どうもこの推測が間違っているのではないかという気がしてならなかった。故に質問させてもらったのだが、どうか許してもらいたい」

「許すも許さないも、怒っておりません。周囲はそう思うのだろうなというのを確認しただけです」


 ハンカチを返したいのだが、使った後のハンカチを返していいのかどうかがわからない。

 これは……洗って返すべきなのだろうか。迷っていると、ライナルトが上を見上げているのに気がついた。

 

「どうされまし……」


 彼の視線を追って顔を上げると、緑でできたカーテンの隙間から一滴の水が頬に当たった。次いでぽつぽつと空から水が降り始める。


「通り雨か」


 空は快晴だったはずだが、いつのまにかこんもりとした雲に覆われている。


「カレン嬢、こちらへ」

「おわ」

 

 ライナルトに肩を抱かれ誘導されたのは葉が生い茂る木の根元だった。葉が傘代わりになってくれるので道中よりは雨粒の被害が少ない。

 雨粒にはじかれる土の匂いを鼻腔に感じながら濡れていく地面を並んで見つめていた。


「通り雨にしては長いですね。すぐに止むでしょうか」

「先ほどまでは晴れていたので、大丈夫とは思いますが……。なんにせよ、私たちが身一つで出ていたのは皆知っている。すぐに外套を持ってくるでしょう」


 ちなみにこの世界、傘はない。一応布張りの日除け傘らしきものは存在するが、基本的に剣を振り回すのが主流のこの世界。片手が埋まるのが邪魔だという理由で流行ることはなさそうだ。そもそもポリエステルやナイロンが存在しないので、雨となれば生地やなめし革の内側に撥水性の高い薬品だか植物の汁を塗った分厚い外套が主流である。

 幼い頃、傘を作れば儲かるんじゃないの!? と野望を抱いた経験があるが、兄や姉にこの素晴らしい提案をしたところ純粋な眼差しで「自分で持つのか?」という疑問を返された挙げ句、使用人といった市井の方々には「片手が埋まるし周りが見えないのは怖い」と言われて見事に夢を砕かれた。そもそも彼らは基本、大雨の日は家に籠もるのである。滅多にあるわけではないが、地域柄なのか大雨が降ると霧で視界が覆われてしまうから外出を良しとしないせいだ。

 悲しい記憶に思いを馳せていると、やがて葉の隙間から水が滴りはじめていた。

 

「……止みませんねえ」

 

 雨宿りをしてそんなに長くは経っていないが、ライナルトの供が追いついてきてもおかしくないくらいには待っている。

 横並びに佇む麗人はほんのり疑問に眉を寄せながら腕を組んでいるが、待ち人が来る気配はない。それにここから見える空模様も悪いし、まだ晴れる気配はなさそうだ。ただの通り雨というわけではないのかもしれない。


「仕方ないですね。このまま待っても止まなさそうですし、走って戻りましょう」


 幸いそこまで長く歩いたわけではない。私は濡れても姉さんに服を借りればいいし、ライナルトは厚めの外套を羽織っている。走って戻れば彼はさほど被害を被らずに済むはずだ。一歩踏み出したところで振り返ると、突然視界が黒で埋まった。


「え」

「失礼。だが、こうでもしないと貴方が濡れる」

 

 広げた外套の中にすっぽりと私を入れたのだ。服越しとはいえ男性の身体が密着した状態は、不意打ち過ぎて……ええと、その、ちょっとびっくりしてしまい頬が熱い。ライナルトから私の顔は見えないからいいけどさ。

 でもさ。い、いちおうこちらは外聞的には人妻なんだけど。

 

「転ばぬよう気をつけて」


 そう言って揃って走り出すわけだが、その最中に気がついた。ライナルトは先ほどから私をカレン嬢と未婚の女性に対する呼称を続けており、コンラート伯夫人とは一度も口にしていない。

 ……深い意味があるとは思えないが、しかしこの人、よくわからないからなあ。

 足下を汚しながら林を抜けた頃には雨も弱まっており、この調子ならば外套がなくてもよさそうだった。私のペースに合わせては移動しにくいだろうし、あまり接近するのもどうかと思うので離れようと思ったときだ。


「……ライナルト様?」


 突如ライナルトが足を止め、つられた私も転びかけた。外套の隙間からは姉たちのいる部屋が見え――。


「どうな、っ……」


 素早く外套を脱いだかと思えば私の頭を覆い被せられた。何事かと混乱している間に膝裏に手が差し入れられ、持ち上げられた衝撃で体が後ろに傾く。転ぶかと思って身構えていると、背中に回された腕がしっかり身体を支えてくれていた。


「え、え、え?」

「大きな水たまりがあったので」


 え? なに、これってもしかして所謂お姫様抱…………。


「…………はい?」

 

 うわああああああああ!?

 え、水たまり……その程度で持ち上げるの!? 

 なんなのこの人、外套のおかげで顔どころか周囲すら見えないけどやばくない? いややばいよ!

 いやいやいやまって落ち着こうか自分。あまりのことに語彙が失われている。まずは驚きすぎて身動きできない身体の硬直を解かねばならないが……。


「あ、あの、自分で走れますので……!」

「黙って」

「はい」


 反射的に従ってしまった。

 意外に鍛えているのだろうか。体格がいいとは思っていたけど私を運ぶ動きに乱れはなく、体幹は揺らぎもしない。見た目だけの筋肉ではないのだ。

 結局最後まで運ばれてしまった。帰ってきたときの周囲の視線は考えたくもない。ライナルトの関係者さん達、違うんです不可抗力なんです。ほらそこのライナルトさんもまったく気にせず涼しい顔でタオルを受け取っているでしょ……待った。使用人が既に待機しているってどういうこと?

 私の疑問はライナルトの疑問でもあった。長髪から水を滴らせる姿は絵になるが、その薄い唇は配下の対応の遅れを問うていた。


「モーリッツ、ニーカ。私たちが雨具を持たず外にいたのはわかっていたと思うが」


 黒い軍服を纏う長身の男女が背筋を伸ばしていた。三十前後の細目の男性が淡々と対応している。


「申し訳ございません。殿下のお声がかかり、お迎えするのを止められておりました」

「殿下が?」

「はい。正確には殿下の護衛官殿経由ですが、殿下の下知とあらば従わぬわけには行きません」


 男性の視線が姉さんの家の使用人に移り、つられてそちらを見た。使用人は「その通りでございます」と深々と頭を垂れ、代わりにタオルを用意し待っていたと告げたのである。彼らの気遣いは有り難かったし、実際とても助かったのだが、問題は殿下である。

 なんとも頭が痛くなってくるレベルの人だ。


「……すみません。なんか、本当にすみません」


 被害者には私も含まれているはずなのだが、姉さんが関わっている分だけ微妙な罪悪感がある。もしかしたら姉さんも殿下には逆らえなかったのかもしれないが……。

 私はライナルトが外套で覆ってくれたおかげで髪まで濡れずにすんだが、彼の方は被害大である。


「仕事柄濡れるのは慣れているので気になさらず。私よりもご自身を気にされた方が良い。なにせこの時期はまだ冷える」

「それはそちらも同じなのでは。私は姉の服を借りるつもりですが、ライナルト様はそうもいかないですし……」

「なに、退散する口実としては丁度良い。殿下もこの姿を見れば残れとは言えないでしょうからね」


 何気にちゃっかりしていらっしゃるが、申し訳なさがなくなるわけではない。私も姉さんに服を借りなければならないし、彼を早く帰すためにもさっさと挨拶を済ませてしまおう。それに雨が上がったとしても地面はぬかるんでいるだろうし、姉さんに借りる服なら長時間歩くのには向かない靴も用意されるだろう。こうなると靴擦れは必至だから歩くのを諦めて馬車を借りるしかない。


「ちょっとお二人に挨拶をしてきます」


 ライナルトはまだ濡れているし、代わりに事情を説明しようと思ったのだ。道は覚えているからすんなり部屋までたどり着けたわけだが、扉前にはなぜか護衛官が佇んでいる。しかも私を見るとあからさまに目が泳ぎ硬直した。

 ……なんだろう、この態度。

 中年の護衛官はわざわざこちらに歩み寄ると、背後を気にしながらやたら小さい声を出すのだ。


「どうぞお引き取りください。殿下とゲルダ様はただいま歓談中でございます」

「……何故ですか。私は姉に――」

「お静かに」


 護衛官は全身に緊張をみなぎらせ、額にはうっすら汗を掻いている。

 ここまで言われてしまうと普通なら引き返す所だ。黙って服を借りるくらいなら姉さんも笑って許してくれると思うのだが、殿下がいる以上は挨拶なしで帰るわけにもいかないだろう。引き下がるわけにはいかないと強行突破を試みると、護衛官は両手のひらを向けてこちらをせき止めようとする。

 一体何だというのだ。わけがわからないにも程がある。


「あのですね、そう言われましてもこちらとしては……」

「どうか声を抑えて」

「だから……」


 そのとき、扉の奥から女性の悲鳴が聞こえた。

 突然のことに固まる護衛官と私だが、硬直が解けるのは相手の方が早かったと思う。目を閉じて、神に祈りを捧げるかのように顔を天井に向けたからだ。

 ――聞かれてしまった、とでも言いたげに。

 私は動けなかった。今のは確かに女性の、姉さんの悲鳴だったが、その後いくらか断続的に聞こえてくる声のせいだ。

 それはただの悲鳴じゃなかった。種類的には男女が夜の床で行う種類の……夜の大運動会の類だと説明すればわかってもらえるだろうか。

 そして、ここにいるのはダヴィット殿下の護衛官。もう一度言おう。ダヴィット殿下の護衛だ。姉さんの夫である陛下ではなく、陛下の息子である、ダヴィット殿下の!

 …………ああ、この人は私が気付かぬように止めようとしてくれていたのか。

 声も出せない私に護衛官はゆっくりと下がるようジェスチャーを行っている。姉さんと会わねばという気概はとっくに消え失せ、彼の指示に従ってそろそろと足を下げていると、背後から声がかかった。

 

「カレン嬢、中に入らないのですか」


 いやーーーー!? ライナルト、タイミングが悪い!!!!

 瀕死だった私の精神が「彼を止めなければ」という使命によって覚醒し、いままさに気持ちは護衛官と一体になった。

 二人しながら引き返して! と動作で示していたときだ。また女性特有の艶っぽい嬌声が耳に届いた。

 私も護衛官もはっきりと硬直し、その意味を違えることなく理解していた。

 ……とんでもないスキャンダルだ。他言されてしまえば一瞬で国中に噂が広がってしまうだろう。そうなってしまえば陛下の不興を買うだろうし、殿下はともかく姉さんの罰は免れない。最悪お家取り潰しも覚悟の不祥事だ。私の頭の中では親類縁者の処刑映像まで脳内再生された。

 いや、というか、姉さんのそういう声を聞くのは、あの、妹として普通につらい。

 ライナルトになんと言ったら良いのかわからない。そもそもここで声を出すことができない。扉越しでもあんなに声がはっきりと響いてきたのだ、会話なんかしたら私たちがここにいるのがばれてしまう。

 護衛官は唇に人差し指を当てて黙るよう指示を出し、私は何度も頷きながらライナルトの手を掴み引っ張ったのだが、この人に緊張の二文字はあるのだろうか。

 ライナルトは私のように慌てたり驚いたりするわけでもなく、むしろ私よりも遙かに落ち着いた動作で踵を返したのだ。さらには動揺して転びかけた私が悲鳴を上げる前に口を押さえ、素早い動作で支えて引き上げていく。

 玄関口までたどり着いたとき、お供の方々が何事かと目を見張ったくらいだ。だが私は皆の視線を気にしているどころではない。

 解放されたのもつかの間、足下からずるずると崩れ落ちて床にへたり込んだ。


「カレン嬢」

 

 夢じゃないのだ。


「………………なにこれ」


 マジで。マジか。マジなのか。

 ……あ、もしかして。

 呆然としながら、一度も驚いたそぶりを見せない男を見上げた。さっき、林から出たときにこの人は立ち止まった。あの位置からなら姉さんたちのいる部屋に駆け込んだ方が早かったのに、あえて玄関に戻り、そして私から彼らが見えないよう視界を覆ったのは――。


「ご存じだったのですか」

「……多少は。しかしあそこまで進んだ関係だったとは……」


 そういえば二人に会いに行くといっても止めなかったから、あの二人はくっつき合ってる程度だったんだろう。きっと…………ええと、それ以上に及んでいるとは思わなかったのだろう。そりゃそうだ、いまはまだ陽が登ってる時間帯である。


 …………………………もうコンラートの家に帰りたい。

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